- 三社と宗任神社の関係
- 石裂山大権現について
- 御朱印のいただき方
氏子以外はあまり知らないマニアックな神社をご紹介しますよ〜!
下妻市の香取神社(旧鎧神社)、甲神社、宗道神社です。三社は同市内にある宗任神社の兼務社でご祭神の阿部宗任公と大変ご縁があるんです。
御朱印もいただけますので、ぜひこの機会に足を運んでください!三社は近くなので車ならすぐに周れます。駅から徒歩でも大丈夫だと思いますよ〜
旧鎧神社(香取神社)とは
鎧神社(鎧明神とも呼ばれる)と甲神社の創建については宗任神社の由緒に次のように書かれています。
縁起記に天仁2年、阿部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により旧臣二十余名と共に公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地(旧黒の里)来往して鎮齊した。
「公着用の青龍の甲冑」は鎧神社と甲神社にそれぞれ祀られていたんです。鎧神社はそのあと香取神社に改称されているんですけどね。
香取神社は下妻市の「鯨」というユニークな住所に鎮座しています。県道54号をつくばから下妻方面に進み、294号に合流する手前の交差点を左折すると右手に見えてきます。
交差点を左でなく右に進むと次にご紹介する甲神社があります。鎧神社と甲神社は古くから二社一対と考えられていました。
創建以降の歴史は長らく不明です。香取神社としてのはじまりは江戸時代とされ、明治3年(1872年)の上申書によって正保4年(1647年)に再建されたことがわかります。明治時代、村社にされているので信仰は広かったのでしょう。
鳥居

香取神社の鳥居
香取神社の鳥居は明神系の両部鳥居。そういえば、宗任神社をはじめ宗任関係の神社はすべて両部鳥居ですね。
若干傾いていますが、味わい深くてなかなか。扁額には『正一位香取大明神』とあります。

香取神社の参道
鳥居をくぐると社殿まで50mほど参道が続きます。両脇にはすべり台、ぶらんこ、鉄棒などがありますので公園と一体化しているようです。
ご祭神は経津主命です。これにはあとでご紹介する石裂山大権現が関係しているかもしれません。
狛犬

狛犬(吽)

狛犬(阿)
すごく個性的な顔つきの狛犬。阿形はちと怖い歯並び。丸みがあって愛嬌を感じますね。
手彫りらしさがあってけっこう好きです。
石裂山大権現

御嶽神社と石裂山大権現
参道の左手に御嶽山神社の石碑と石裂山大権現の石碑があります。御嶽山の方は西宿にあったものを大正3年(1914年)に合祀しました。後ろのちらっと見える稲荷神社も同様です。経緯まで不明なのですが。。
となりの石裂山大権現については興味深いお話があります。これを知っていたらかなりの物知り。
石裂山大権現とは栃木県の石裂山に鎮座する加蘇山神社のご祭神です。現代では磐裂命、根裂命、武甕槌男命の三柱を指しますが、大権現は神仏習合時代の名称なので≒といったところ。
この信仰がいつ頃始まったかはよくわかりませんが、石裂山大権現は水神とされていて五穀豊穣と水難除けが祈願されたとか。水害の心配がある土地ですから「なるほど」ですよね。
ただ。。ここから石裂山はすごく遠い。五穀豊穣であれば近くに筑波山もあるのになぜ??しかも石裂山大権現は市内のあちこちの農村で信仰されていたんです。
聞いたところによると加蘇山神社の奉仕者が先達となってこの地で広めたそうです。庚申塔や月待ち塔の広がりなどと同様ですね。
日本書紀では磐裂命と根裂命の孫に当たるのが経津主命。つまりこの香取神社のご祭神です!
社殿

香取神社の拝殿
シンプルな入母屋造。参道や狛犬などとのバランスが絶妙で簡素ながら気持ちよく参拝できます。
ご祭神の経津主命は利根川沿にたくさんお祀りされています。県内だと境町が特に多いですね。町の中が香取神社だらけなんです。。

香取神社の本殿
経津主命と石裂山大権現の関係を前述しましたが、おそらく香取神社があったことで石裂山の信仰が受け入れられたのではと思います。
当社は大正3年(1914年)に無格社の八坂神社、愛宕神社、白山神社、御嶽神社を合併しました。
アクセス
名称 | 香取神社(旧鎧神社) |
---|---|
住所 | 茨城県下妻市鯨1445番地 |
駐車場 | あり |
甲神社とは

甲神社
甲神社は前述の香取神社から100mほど北に鎮座しています。駐車場はありませんので、香取神社から歩くか神社北側の側道に停めることになるでしょう。
境内の石碑には次のようにあります。
村社甲神社
祭神 阿部宗任
祭神 経津主命
威霊厳然赫灼として光を放つ青龍逆角一分の兜 四辺を清秡雷神の守護を賜り 農業の根源を図り 人心和協一致の方途に善導してやまず
兜には角があったようですね。青龍も水神と考えられますから、雷神と同様に五穀豊穣へ導く存在なのでしょう。
「人心一致」は重要なキーワードです。当地は東北からやってきた方々が開拓しました。宗任公はもともと東北の武将ですから公を祀ることで人心一致の狙いがあったと考えられます。
宗任神社の由緒では創建はすべて公のご神託によって、とありますが、実際のところはということですね。
wata
鳥居

甲神社の鳥居
甲神社の鳥居も明神式の両部鳥居。この鳥居と社殿は古いですが、境内は比較的新しい石造が見受けられました。
玉垣も新しくていまなお篤い信仰が続いているようですね。
実際に手を洗うのは難しいですが、参道の両脇に手水舎が置かれていました。
社殿

甲神社の拝殿
甲神社の社殿はなんといっても屋根の色!銅板だからこのような色になるのだと思います。鮮やかなのに歴史を重ねているというのが面白いですよね〜

甲神社の本殿
本殿は覆屋でしっかりガード。近年、盗難の心配もあって必要な措置となっているようです。

本殿裏の祠・石仏
せっかくなので本殿裏の方にも足を運んでください。香取神社にもあった石裂山大権現の他、『大園木神社』の祠もありました。境内の周囲には大師堂もありますし、鎧神社とは少し違った信仰のあとが見えますね。
甲神社も旧村社なので鎧とは同格です。
アクセス
名称 | 甲神社 |
---|---|
住所 | 茨城県下妻市大園木289番地 |
駐車場 | なし |
宗道神社とは

宗道神社
宗任神社から歩いてすぐ。駐車場は宗任神社を利用するといいですよ。
この神社は興味深い由緒があるんです。近年、それを由緒書で配布するようなりましたのでご紹介します。
当社に伝う話、宗道神社はもともと宗任神社の末社で八坂社、黒巣天王と言う。祭主家裏に庚申社があり、昔、早良親王(崇道天皇)都より逃れこの地の長、黒巣の娘と結ばる。それ以降、黒巣家代々姓の上に、鐘林宮付く。日光東照宮建造より、庚申社が流行り、祭主家裏に早良親王の供養に庚申社を祀り、その守護神として黒巣天王(八坂社)を祀る。祭主家より宗道神社までは、一直線の道が江戸後期頃迄存在していた。当社、江戸中期の文書に末社須佐之男命と有る。又、上河岸、中河岸、(下河岸)達の助けで、祗園祭を盛大に行われていた。
つまり宗道神社はもともと天王社(八坂社)で早良親王を守護する役目もありました。あとでご紹介する御朱印には『黒巣牛頭天王社』と書かれています。
創建の年は明らかになっていませんが、由緒から江戸時代初期と考えることができます。
ご祭神は京都の祇園社から勧請した須佐之男命です。
鳥居

宗道神社の鳥居
立派な一の鳥居です。二の鳥居、三の鳥居との間隔が随分と狭いので区画整理によって移設されたと考えられますね。
この写真からはわかりにくいですが、三の鳥居が両部鳥居となっています。
鳥居の左手には樹齢850年にもなる大欅がありましたが、道路拡張の際に余命幾ばくもないことがわかり止む無く伐採となりました。
社殿

宗道神社の拝殿
茨城県神社誌によると社殿は大正5年(1916年)に貴族院議員の松村脩氏から寄進されたとあります。これは『松村脩平』が正しいかな?
昭和48年(1973年)に大改築されて現在の姿になったかと思います。

宗道神社の本殿
本殿はやはり覆屋によってガッチリ守られています!
かつて宗任神社の境内はいまよりずっと広く、宗道神社の他、南の薬王寺も境内に含まれていたとか。まさか別当!?
この辺りを調べるなら古文書か口伝だよりになると思います。かなり興味深い歴史がありそうなので、もしここにないことをご存知でしたらご一報ください〜!
当社は明治6年(1873年)に村社列格となりました。
アクセス
名称 | 宗道神社 |
---|---|
住所 | 茨城県下妻市宗道8番地 |
駐車場 | なし |
御朱印
左から鎧神社、甲神社、宗道神社の御朱印です。
いただける場所は宗任神社の社務所です。車なら三社をめぐることは簡単です。
境内にはほとんど案内がありませんので、気になることを宮司さんに聞いてみるのもいいですよ〜
まとめ
この記事のまとめ
- 下妻市(旧千代川村)の香取神社(鎧)、甲神社、宗道神社は宗任神社の兼務社
- 三社は宗任神社の由緒と深い関係がある
- 御朱印はいずれも宗任神社でいただける
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
この記事は筆者の主観が多分に含まれております。
筆者の誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
御朱印巡りをされる方へ