wata
- 七郎河童の伝説
- 伝説ゆかりの地
- 河童と芹沢鴨の関係
茨城県内をうろついて知ることは、歴史や文化だけじゃありません。妖怪知識も豊かになります!神社やお寺、それに川や湖などに残っていますね。
もはや妖怪トークをせずにはいられません!なので、今回は県内で有名な河童伝説。以前、利根町のねねこをご紹介しましたが、まだまだあるんです。
小美玉市の手接神社は縁起に河童が登場。河童伝説の教科書のような物語ですのでご一読ください!
手接神社とは
由緒
ご祭神は罔象女命、大巳貴命、少彦名命です。
罔象女命はイザナミが産んだ水の神様。大子町の鮎神社のご祭神でもありました。大巳貴命と少彦名命は縁結びのご利益があると知られています。
神社が建てられたのは1507年。その前は神社のそばを流れる梶無川のほとりに手接明神として小さく祀られていました。手接明神の祠が建てられたのは1481年のことです。
そもそもなぜ手接明神があったのか。その説明に七郎河童が登場します。ここは親孝行で義理堅い七郎河童を奉る神社でもあります。
アクセス
茨城空港から車で10分ほど。お漬物工場のとなりです。駐車場は広大ですので安心して停められます。
名称 | 手接神社 |
---|---|
住所 | 茨城県小美玉市与沢1112 |
駐車場 | あり |
民話『河童の恩返し』
神社の縁起となる七郎河童のお話です。境内の石碑の内容を大胆にわかりやすくしました。
むかしむかし、この地は芹沢隠岐守俊幹という殿様が治めていました。
ある日、俊幹が愛馬と梶無川の岸を散歩をしていると、突然馬が足をふんばって進みません。おかしいと思って見てみると、つる草のような髪をふりみだして馬の尻尾を引っ張る河童がいます。俊幹はすぐに刀を抜くと、尻尾をつかむ河童の手を一刀両断。そして尻尾を掴んだままの手を館に持って帰りました。
その夜、俊幹の枕元に昼間の河童が現れ、涙ながらに訴えました。「わたしは梶無川に棲む七郎河童です。昼間は殿様の馬にいたずらをしてしまい、手を失いました。とても反省しています。ただ、心配なのは年老いた母のことです。このままでは泳ぐことも魚をとることもできません。どうか手をお返しいただけないでしょうか。手はつなぐことができます。もし、お返しいただけるなら毎日魚を届けにきます。そして、先祖から伝わる秘伝の薬の作り方をお教えします。」俊幹は母を思う河童の心に免じて「もう悪いことはしないように」と言って、手を返してあげました。
河童は約束を守り、薬の秘法ときりすね等を俊幹に伝えました。そして、翌日から毎日2匹の魚が館に届けられるようになりました。魚は館の梅の木にかけられたのでこの木は魚掛梅と呼ばれました。
それから数年経ったある日。いつも届けられるはずの魚がありませんでした。翌日、河童を心配した俊幹が川に行くと、河童が泡を吹いて死んでいるではありませんか。哀れに思った俊幹が祈ると、河童の遺体は川上へと逆流していきました。
そして、遺体が川上の与沢に流れ着くと、それを見つけた芹沢家の家臣は俊幹に報告し、その場所に小さな祠を建てました。祠は手接明神と呼ばれ人々に大切にされました。やがて祠は場所を移して手接神社となりました。
不良の反省、改心、そして親を思う気持ち。現代でも共感を生む物語ですね。秘伝の薬や遺体に起きた不思議な現象など、少年心をくすぐる要素もあります。
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社号標および鳥居
手接神社。あまりにも珍しい社号なので「意外に最近つけられたのかも??」なんて考えていましたが、社伝によれば永正4年(1507年)の合祀からとのことで、じつに500年以上の歴史があるようです。すごい!
社号標の上が削られているのは旧社格があったためです。戦後、社格制度が廃止されたことで急遽このような措置がとられました。今にして思えばそこまでしなくても、です。
新しく感じる鳥居は平成23年9月に建てられました、東日本大震災のあった年ですので以前の木製の鳥居は倒壊したか、あるいは強度に不安があったのかもしれませんね。
社殿
拝殿はシンプルな入母屋造。大棟に見える神紋は「左三つ巴」。神社らしい造りでいいですね。
賽銭箱は表に出しいませんので、拝殿に投げ入れるスタイル。ただ、「きりすね」や御札等は表に出してありますので、ふだんのお参りの際にいただけるようになっています。
一風変わっているのは社殿の側面です。当社は手袋を奉納すると手にご神徳があるといわれており、まるで絵馬のように手袋が壁に掛けられています。
面白いことに手の絵馬もありました。中央の大きな扁額には「太々神楽」とありますのでかつて当社に奉納されたときのものでしょう。
本殿は立派な流造。千木は外削ぎで鰹木は五本。外や五(奇数)は陰陽説でいうところの陽気を示します。神紋は左三つ巴が、「左」や三も陽気であることから、社殿から読み取れる神格には一貫性があるようですね。
例祭
神社の写真、実は年に一度の例祭のものです。予定していたわけではなくたまたま例祭の日に訪れたんです!
偶然から貴重な1枚をご紹介できて嬉しいです。例祭は毎年10月9日にあります。
例祭は宮司が祝詞をあげるシンプルなものでした。とても厳かな雰囲気で、太鼓の音に神聖さを感じたのを覚えています。堂々とした国旗や大きなのぼりがとてもよかったです!
きりすね
お賽銭箱のそばにきりすねがあります。お話で河童が伝えたというものですね。お賽銭と交換でいただけます。きりすねは糸を束ねたものです。使い方は神社のご案内がわかりやすいので引用します。
きりすね
当神社に昔から伝わる、痛いところに巻いて使用いたします。
その糸が切れるころには治ると言い伝えられているものであります。
手接神社
ミサンガに似ていますが、痛みに効くことに特化しているようです。
続いて、伝説ゆかりの地に足を運びます。
七郎河童の漂流の地
七郎河童は亡くなった後に梶無川に流され、与沢の地にたどり着いたといわれています。その場所である「神橋」は手接神社から北東に350mほど。徒歩で行ける距離ですが、側道に駐車できますので車でも見物可能です。
目印の看板が目立つのですぐに見つけられるかと思います。その看板には「カッパ死骸漂流の地」というド直球なネーミングがあったのでちょっと笑ってしまいました。死骸て。
実際に現場を目の当たりにするとこんなに細い川で流れてきたのかと驚くかもしれません。わたしはこれじゃ河童は流れないかな〜と思いましたが、500年以上も前のことですからずいぶん風景が違っていたのでしょう。
手奪橋
七郎河童がいた梶無川です。その川に手奪橋がかかっています。場所は後述しますが小美玉のとなりの行方市内です。
橋のそばには看板があって、手接神社にある伝説とほぼ同じことが書かれています。違っていることは、殿様が橋を渡っているときに河童が現れたこと。ここがその場所かはわかりませんが、河童の出そうな雰囲気はあります。
橋の四隅には河童の像があります。像の下には『てうばいばし』の札があるはずですが、外されていました。その読みには間違いで『てばいばし』が正しいそうです。詳しくはまほらにふく風に乗ってのコメント欄をご覧ください。
それではこの不思議な橋の訪ね方をご案内しましょう。
御朱印
手接神社の御朱印です。参道の左手にある社務所でお声掛けください。見開きで印刷されたものに日付を書き入れてくださいます。いただけるのは毎月第2と第4の日曜日。午前9時から午後3時までとなっています。
御朱印および御朱印帳は令和4年から頒布を始めました。その少し前に茨城出身のタレントの磯山さやかさんがテレビ番組で当社を訪れたことで広く知られ、多くの方々が参拝するようになったそう。さすがいばらき大使!
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澤屋商店
車で行かれると思いますので、目的地を澤屋商店にしましょう。手奪橋の最寄りのお店です。お店の目印はこれです。
お店は新選組に参加した平間重助のご子孫がされているとのこと。お店では新選組グッズとゆかりのお酒が販売されています。
橋はこの看板の前を通る116号上にあります。看板から田んぼの広がる方へ走ると1分以内に到着。ぜひ見つけてみてくださいね。
お店の住所は芹沢(行方市)。かつて芹沢城がありました。新選組、芹沢ときたらは新選組初代筆頭局長の芹沢鴨ですよね!近くには芹沢城と芹沢鴨の生家跡があります。
アクセス
店名 | 澤屋商店 |
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住所 | 茨城県行方市芹沢480 |
駐車場 | あり |
芹沢鴨の生家跡
芹沢鴨の生家跡はかつて公開されていましたが、いまは閉じられています。残っているのは周辺の生家を示す看板のみ。ちょっとさみしいですがご子孫が近くの町に移り住んでいるので仕方なし。
芹沢の出生はわからないことが多く、水戸や北茨城市が出身という説もあります。でも、行方市では新選組を創った男の町としてアピールしています。芹沢鴨については長くなってしまうので、また別の機会に。。
手接明神の碑
家の前で見つけてしまいました。手接明神の碑です。まごうことなき手接神社ゆかりの石碑。
芹沢家はお医者さんの家系でもありました。治療に河童の秘法を用いたかはわかりませんが、いまでもご子孫がお医者さん。こうしてゆかりを大切にしているせいかもしれませんね。
まとめ
この記事のまとめ
- 七郎河童は腕を返してもらったお返しに魚を届けた
- 河童の現れた場所は行方市の梶無川
- 芹沢鴨先祖は殿様。河童から恩返しされたという
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。