2月17日(水)『うなぎ地蔵』(城里町)の記事を公開しました。次回更新は2月21日(水)の予定です。

無敗の剣聖『塚原卜伝』~殺人剣から活人剣を選んだ理由とは(鹿嶋市)

卜伝アイキャッチ

歴史上、最強の剣士って誰なんでしょうね。候補は宮本武蔵とか沖田総司、本多忠勝あたりでしょうか。比較しようがないですが、それでも考えてしまうのは最強の響きにあると思います。魅力的なんです。男にとっては特に。

茨城県民として、そんな『最強論』に参加させたい人物がいます。塚原卜伝つかはら ぼくでんです。卜伝は茨城県鹿嶋市に誕生した剣士で、生涯無敗と言われています。鹿嶋市も猛アピールしているので、波に乗っかってご紹介します。

ちなみに、わたしが書くことは史跡にある情報と講談社から発売された『無敵の剣聖 塚原卜伝』(著者:矢作幸雄)を参考にしています。解説に創作の部分を多少含んでいますので、ご了承ください。

塚原卜伝とは

塚原卜伝は戦国時代の剣士です。京都で起きた大動乱・応仁の乱が終わったころ、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生まれました。西暦だと1489年です。

幼いころは、父から与えられた朝孝ともたかという名前でした。吉川家は鹿島の太刀を受け継ぐ家系でもあって、卜伝のお父さんは大人しい兄よりも朝孝に剣を継がせたいと思っていました。

しかし、お父さんは朝孝が生まれてすぐに、剣友で塚原城の殿様である塚原安幹と朝孝を養子に出す約束をしていたのです。お父さんとしては長男への期待と次男の将来を考えてのことだったのでしょう。それにより、朝孝は6歳で塚原家の養子になりました。

MEMO
塚原氏の本姓は平氏。卜伝の家系が家老を務める鹿島氏の分家です。

強さの理由は幼少期にあり

卜伝の強さは単なる才能ではなく、その経歴にもあります。生まれ育った吉川家は鹿島の太刀(鹿島古流)を受け継いできた家系。卜伝は幼いころから剣術の達人である父に鍛えられてきました。その上で、養子としてやってきた塚原家で香取の太刀(天真正伝香取神道流)を学びました。

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卜伝は2種類の剣術、それも一流の使い手の指導によって腕を磨いてきました。若いうちに剣術がハイブリット化されたことで、特殊な可能性を持っていたのです。

活人剣への目覚め

卜伝は元服(現代の成人)のあと、名前を新右衛門 高幹しんえもん たかもとと変え、剣の修行のために鹿島を離れます。いわゆる鹿島立ちは17歳の頃でした。その後の足取りは不明ですが、小説では武将に雇われていくさ働きをする生活を続けていたとあります。

MEMO
卜伝が初めて真剣勝負をしたのは、鹿島立ちから1年後。場所は京都の清水でした。『卜伝百首』によれば、生涯39度の合戦、19回の真剣勝負を行いましたが、一度も負傷しなかったとあります。そのため無敗の剣聖と云われます。

諸国を巡って修業を続け、30歳の頃に区切りをつけて鹿島へ戻ってきます。(25〜26歳位とも)そして、帰路の途中、自らの殺人剣を見直し、人を活かすために使えないかと考え出すのです。

「漁師は網を使って魚を殺す・・・しかし、それによって多くの人の命をつなぐことができる。自分もそのように剣を振るえないか」

これは小説のエピソードなんですけどね。戦国時代なので剣そのものを封印することはできませんでしたが、卜伝の場合、望めば殿様の立場でした。生活のために剣を振るう必要はなかったので、そうした考えに至ったのだと思います。また、卜伝にはもともと神道や仏教への信仰がありますので、殺生を望まなかったのでしょう。

活人剣への目覚めは、卜伝が鹿島神宮の神官の家に生まれたことも関係あると思います。鹿島神宮のご祭神はタケミカヅチ。最強の神でありながら、その力に頼らずに話し合いで問題を解決してきました。幼いころからそれを知っている卜伝は、剣術を磨くよりも和を生み出すことで戦いそのものを無くそうとした。。。のではないでしょうか。

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とはいえ、活人剣は殺人剣よりも遥かに難しいのです。向かってくる相手から殺意を奪わないと戦いが終わらないのですから。卜伝は活人剣を目指すことで、さらに厳しい修行をすることになりました。

鹿島に戻ったあと、卜伝は自分の剣を見つめ直すため、鹿島神宮に1000日こもりました。そこで悟りを開き、進むべき剣の道を決めるのです。修業を重ねて奥義を会得し、流派・新当流しんとうりゅうを開きます。卜伝という名前は、奥義の会得後に名乗り始めました。元服のあとは塚原高幹たかもとという名前ですが、それとは別に剣名を「卜伝」としたのです。

MEMO
新当流とは「心を新しくして、事にあたれ!」。卜伝が1000日修行の末に聞いた神の声が由来とされています。新当流はいまも鹿島の地に受け継がれていて、現在は65代目です。新当流の道場は鹿島神宮のすぐそばにありますが、一般の方は中にはいって見学することはできません。

物語はもっとありますが、とてもご紹介しきれません。これより詳しくは小説やテレビドラマをご覧ください。卜伝が船の上で興奮する武士を退けたり、教え子たちに争いを避ける道を説くエピソードなど、知れば知るほど好きになりますよ。鹿嶋市の公式サイトも詳しいのでオススメです!

参考

≪塚原卜伝紹介≫鹿嶋市公式

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ちなみに、テレビドラマ『塚原卜伝』は卜伝役を堺雅人さんが演じています。『倍返しだっ!』の前ですね!

卜伝が剣を伝えた者たち

卜伝は生涯3回の旅に出ています。そして最後の旅では、自分の剣を積極的に伝えています。卜伝に剣を教わった人物には、将軍足利義輝あしかが よしてる!後に将軍となった足利義昭よしあき、伊勢の国司だった北畠具教きたばたけ とものり。他にも今川氏真や武田信玄の家臣たちにも教えたと云われます。

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最後の旅は68歳のときです!剣の腕もさることなら体力もスゴイですね。。。

卜伝の名乗りと卜伝の像について

塚原卜伝像

塚原卜伝。変わった名前ですよね。実は卜伝の名前はいろいろと面白い想像ができます。幼いころの『朝孝』は吉川家の父から与えられた名です。

元服したあとは塚原 新右衛門しんえもん 高幹たかもとに改めるのですが、幹という字は塚原家の父・安幹やすもとから引き継いでいます。『ともたか』から『たかもと』へ。かつて吉川の父からもらった名前も意識していますよね。

さらに、その後は卜伝と名乗ります。卜は『うら』とも読みます。これは吉川家の本姓が『卜部うらべ』であることに由来します。卜部家の剣を伝える。だから卜伝。

MEMO
小説で『新右衛門』は、安幹の実の子どもで、早くに亡くなった新右衛門 安義やすよしの名乗りから引き継いだとあります。たしかに同じなんです。もし、安義が生きていたら、卜伝は後継ぎとして塚原家に来なかったはずですが・・・果たして、どのような心情で新右衛門を名乗ったのでしょうか。

なお、写真の卜伝の像はJR鹿島神宮駅を出て正面に200mほど進むとあります。

アクセス

名称 塚原卜伝の像(鹿詰公園内)
住所 〒314-0032 茨城県鹿嶋市宮下2丁目11−4
駐車場 なし

塚原卜伝の墓

塚原卜伝の墓2

塚原卜伝の墓1

卜伝のゆかりはあまり残っていないのですが、鹿嶋市内にお墓があります。墓石と略歴の紹介がある簡素なものですが、大切にしたい場所です。

お墓は2つ並んでいます。卜伝のとなりにいるのはたえ夫人です。卜伝は45歳のときに、25歳年下の夫人と結婚しています。結婚生活は11年ほど。妙夫人は早くに亡くなってしまいました。その後、卜伝は再婚することなく生涯独身でした。

MEMO
卜伝は享年83歳。最後の旅から帰ってきたあとは、塚原城のそばに小さな家を立てて、慎ましく暮らしました。菩提寺は梅香寺でしたが、焼失してしまったのでお墓だけ残っています。近くの長吉寺には夫婦の位牌もあります。

アクセス

名称 塚原卜伝の墓
住所 〒314-0047 茨城県鹿嶋市須賀506
駐車場 あり

まとめ

冒頭の話に戻りまして、卜伝が最強である理由を説明します。

  1. 無敗=最強の前提条件
  2. 目的を達成している=活人剣を広めました
  3. 寿命を全うしている=上の2つを限界まで行いました

いかがでしょう。できることはすべて達成しています。でも、卜伝の魅力は強さだけではないですよね。最強論には、ぜひ生き方も含めてもらいたいです!

イラスト『塚原卜伝』

塚原卜伝

Illustration by 熊井くまこ

修行の旅から鹿島に戻る途中、活人剣を志すことを決意した卜伝(この頃は高幹)です。熊井くまこさんに描いていただきました。突き抜けるような青空と卜伝の表情が清々しいです。

手にしているのは木剣ぼっけん(木刀)です。卜伝は真剣(刀)へのこだわりが少なかったのではと思います。戦いそのものが起きないことを目指していたので、剣を抜く必要がないからです。剣士としては非常識かもしれませんが、無敵で最強はこれくらいでないといけません!

卜伝は不思議な人物です。剣術は鹿島の太刀と香取の太刀の異なる流派を基にしています。信仰は養子となったことで神道と仏教の両方となりました。殺人剣から活人剣へ目覚めたことも真逆の発想ですよね。一筋縄で理解できないところが面白いです。

卜伝は動乱の時代に生まれ、混乱するような環境で育ちましたが、人として正しい道を歩んだと思います。強靭な肉体と精神の持ち主だったことは確かでしょう!


参考
鹿嶋ものしりハンドブック
鹿島町史別館 鹿島人物事典
無敗の剣聖 塚原卜伝/著:矢作幸雄