wata
- ”九尾の狐”の経歴について
- 茨城の狐ゆかりの地
- 安穏寺の御朱印
みんなどこかで耳にしたことのある九尾の狐。じつは茨城県にゆかりがあります。舞台となるのは常陸大宮市と結城市。
結城市は1500年以上の歴史を持つ結城紬の産地。すごいスケールですが、狐の伝説はさらに時代をさかのぼり3000年前からはじまります。しかも、中国やインド(天竺)も巻き込んだ壮大なストーリー!
とても楽しいお話だと思いますが、あえてお断りをしておきましょう。
- いろいろな情報が混ざっています。細かい部分は気にしないでください
- 結城市が登場するのはフィナーレです。楽しみにしてください
- マンガも参考資料です!!
それでは、張り切って参ります!
昔話『九尾の狐』
九尾の狐は9つの尻尾を持った狐の妖怪。長寿で人を惑わす知恵と術を持っています。ふつうの妖怪と違うのは、人を操ることに長けていることです。
狐は美女の姿で現れます。権力者(王)を惑わせるためですね。人間の本能をたくみに操る恐ろしい妖怪といえます。
殷の妲己
九尾の狐は日本で悪さをしましたが、じつはその前に海外でも活躍(?)しています。せっかくなのでそちらも含めてご紹介します。
いまから3000年も前のこと。大陸に殷という王朝がありました。王朝はそれまで500年続いており、当時は第30代の紂王によって治められていました。
しかし、紂王は絶世の美女妲己に魅了されてしまい、政治をおろそかにしていました。それどころか残酷な妲己の気を引くため、次第に罪もない人々に残虐なことをするようになりました。紂王の悪政に多くの民は不満でした。やがて高まった不満から武王が反乱を起こして王朝は滅ぼしてしまいました。
王と一緒にいた妲己は民によく知られていて罪の重さから打ち首の刑と決まりました。しかし、刑の執行になると妲己は異様な妖気を放ち、だれも寄せ付けません。そのようすを見ていたのは武王の軍師太公望は不思議な鏡を妲己に向けてかざしました。
そこには九尾の狐の姿が映っていました。正体を暴かれた妲己は、狐の姿に戻ると逃げるように天に駆け上っていきました。すかさず太公望は持っていた宝剣を投げつけると、宝剣は狐の体に命中。すると狐はバラバラになって消えてしまいました。
わたしが知るもっとも古い九尾の狐の伝説です。明(中国)の時代の古典小説封神演義で語られています。日本だと室町時代から江戸時代がはじまった頃ですね。
わたしはジャンプで連載していた藤崎竜さんの『封神演義』で大筋を知りました。とても面白いマンガでいまなお楽しめます。ぜひ読んでいただきたいですね!
天竺の華陽
続いて九尾の狐との第2ラウンドです。
九尾の狐は殷で滅んでいませんでした。次に現れたのは天竺(インド)です。殷から700年後のことでした。ここでも華陽という美女に化けて王子を魅了しました。そして王子は華陽の誘いに乗って100人もの民を惨殺してしまうのです。華陽は名医の耆婆によって正体を暴かれたので、狐の姿に戻って逃げていきました。
殷とほぼおなじエピソードです。女性化ける→王をそそのかす→悲劇が起きる→正体がわかる→逃げる。
すでにパターン化されています。繰り返し語られてきたことで、この妖怪の印象は強くなっていったのでしょう。
周の褒姒
続いて、第3ラウンドです。
九尾の狐は1500年の時を経て、再び中国の地に戻ってきました。ときの王朝は周。武王から12代目の幽王が治めていました。
幽王には、とても美しい婦人褒姒がいました。褒姒は笑わない女性だったので幽王はいつも褒姒の笑顔を見たいと思っていました。そんな褒姒が笑った時があります。敵の攻撃を知らせる狼煙を見たときです。幽王は褒姒の笑顔を見たいために、理由なくなんども狼煙をあげさせました。
ところが、本当に敵が攻めてきたとき、だれも戦の準備をしなかったため、そのまま周は滅んでしまいました。褒姒は反乱軍に捕らえられたあと、処刑されてしまいました。
このお話は、前の2つと違い正体がわからないまま、あっさりと処刑されています。なぜ、無抵抗のまま命を落としたのでしょうか。その点が九尾の狐のもっとも恐ろしくて不気味なところ。。狐は死んでいませんでした。
日本の玉藻前
日本編。おおまかな流れは大陸のものと同じですが、固有名詞がたくさん出てきて面白いです。茨城はけっこう重要な場面で関係します!
周の褒姒は処刑されてこの世を去りました。しかし、褒姒に取り憑いていた九尾の狐は悪霊となってさまよっていたのです。そして、周の滅亡から約1000年後。狐は若藻という美少女に化けて、遣唐使の船に乗り日本にやってきました。
それから350年が経つと、狐は捨て子の姿になって優しい武士に拾われました。さらに18年が経つと非常に賢くて美しい女性として評判になり、宮中に仕えることになりました。その頃から玉藻前と呼ばれるようになり、ときの帝鳥羽天皇から寵愛を受けました。
ある夜、宮中で音楽の集いがありました。かがり火を焚きながら演奏を楽しむ会です。ところが演奏の途中、突然かがり火がパッと消えました。真っ暗となりましたが、玉藻前の身体だけ妖しい光を発していたので、一同はとても驚きました。火はふたたび灯りましたが、それ以来、天皇は病になりました。
九尾の狐は悪霊となって、人間に取り付くことができます。妲己は記述がありますが華陽や褒姒も、もとは美しい人間だったのでしょう。
正体が知られることは狐にとってピンチですが、身体を失うだけなら構わない。褒姒のとき、あっさり死んでしまったのはそうした理由かもしれません。
天皇の病は次第に悪化しました。だれも原因を見つけられない中、宮中の陰陽師安倍泰親は、占いによって病の原因が玉藻前の放った悪霊だと見抜きました。すると玉藻前はたちまち金色の九尾の狐の姿に戻り、宮中から逃げ出していきました。
朝廷はすぐに狐の退治に乗り出しました。狐は逃げ出した先で人を食べたので、那須野が原にいることがわかりました。さっそく朝廷は相模国(いまの神奈川県)の勇者三浦介 義明と上総介 広常に九尾の狐の討伐を命じました。
三浦介は那須野が原に向かう途中、常陸国の小田野(いまの茨城県常陸大宮市)に居をかまえました。そして、小田野の鎮守である八幡さまに必勝を祈願し、2本の杉を植えました。それから、三浦介は狐退治のため、野犬を狐と見立て騎馬で追いながら矢を放つ訓練をしました。
この辺りから物語の佳境に入ります。陰陽師が登場していますが、泰親の他に、泰成とか晴明(!)という説があります。わたしは手元の本にあるので泰親にしましたが、お伽草子の『たま藻のまへ』では泰成です。
三浦介が必勝を祈願した吉田八幡神社と2本杉はいまもあります。下の記事に写真もありますので、よかったらご覧ください。
しかし、狐は最後の力を振り絞って姿を石に変えました。完全に退治することはできなかったのです。石は近づくと毒を放ち、人や動物の命を奪うので殺生石と呼ばれました。石には多くの高僧が訪れて、狐の怨念を成仏させようとしました。しかし、毒によって次々と死ぬばかりでした。
それから200年ほどが経ち、天皇の命を受けた一人の高僧が殺生石に挑みました。源翁和尚です。和尚は石の前に立つと、お経を唱えてから「喝っ!」と杖を振り下ろしました。すると、石は粉々に砕け散り、それ以来殺生石で命を落とすものはいなくなったといいます。
九尾の狐の物語でした。
wata
殺生石は栃木県で観光名所になっています。飛び散ったものは、ふしぎと全国の『高田』のつく場所で見られます。理由がわかりませんが、とても面白いことです
安穏寺とは
お待たせしました。ここからが結城市の登場です。
殺生石を砕いた源翁和尚は、結城市で亡くなりました。和尚が再興した安穏寺があったからでしょう。
安穏寺の創建は760年ごろ。いまも結城の歴史ある町並みにあります。市指定したの文化財がいくつもある名寺ですよ。雨の中の参拝となりましたが、ご紹介します。
山門は江戸時代に建てられたもので、結城市の指定文化財です。年季が入っていますね。赤門の名前で親しまれています。
山門をくぐると左手に石碑があります。奈良時代に創建、室町時代にこの地の領主結城氏が源翁和尚を招いて再興したとあります。ここにも殺生石の言葉が見えます。
本堂です。素敵な色合いですね!明るく見える部分は新しく感じます。お寺には源翁和尚が使ったとされる、数珠と払子が残っています。県の指定文化財です。
わたしの読んだ本には、ご紹介したお話の続きがあります。それによると和尚が殺生石を砕いた日の夜、ひとりの女性が和尚を訪ねてきました。そして「おかげさまで成仏することができました」と言い、そのまま消えてしまったそうです。
殺生石とともに狐の怨念もこの世から消えたかな?2000年以上、人を惑わせてきた狐を成仏させた和尚の法力。きっとスゴイものだったのでしょう。
源翁和尚の墓は市指定の文化財として市内にあります。安穏寺から徒歩でいける場所なのであわせてお参りしてみてはいかがでしょうか。
御朱印
安穏寺の御朱印です。
建て替え中の本堂の右手の寺務所でいただきました。多めに御朱印料を納めたので正確な額はわかりません。。
関東薬師如来七十一番札所とありますね。じつはこの札所は初めて知ったのですが、行方の西蓮寺や桜川の薬王院など有名なお寺がいくつもあります。
栃木の金乗院がすべての札所を紹介しておりますのでご参考に。
アクセス
名称 | 結城山 大寂院 安穏寺(曹洞宗) |
---|---|
住所 | 茨城県結城市結城1725 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 結城市公式内 |
まとめ
この記事のまとめ
- 狐は妲己→華陽→褒姒→玉藻前と名前を変えた
- 狐が化けた殺生石を砕いた和尚は安穏寺にいた
- 安穏寺では御朱印を発布している
参考文献
いばらきのむかし話/藤田稔編
いばらきのちょっと面白い昔話/木村進
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。