wata
今回も「みんな大好き式内社」をご紹介しますね。その名も天速玉姫神社です。この社号でピンとくる方は通ですねぇ。だって、そんな神社は県内にありませんから。ふふふ。
この記事では常陸太田市の春友町に鎮座する鹿嶋神社をご紹介します。天速玉姫神社「かもしれない」ので覚えておきましょう♪
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 式内社について
- 御朱印のいただき方
式内社とは平安時代に定められた格式である「延喜式」の「神名帳」に記載されている神社という意味です。
由緒
『茨城県神社誌』をもとに由緒をご紹介します。
創立年は不詳だが、初め天速玉姫命を祀るという。
町屋村祠官吉田主水の弟(安政3年より奉仕)により町屋村から当地へ引き移り。
境内社社殿(金比羅神社)が奉納される
境内社社殿(八幡神社・天満神社・稲荷神社)が奉納される
ご祭神は武甕槌命と天速玉姫命です。
社号が「かしま」なので武甕槌命を主祭神とするのは当然。気になるのは天速玉姫命でしょう。記紀に名は見えませんが、式内社・天速玉姫神社の主祭神とされています。
しかしながら天速玉姫神社といえば日立市の泉神社とするのが多数派。たしかに泉神社は知名度抜群。古くから多くの崇敬者を集め社殿も立派。境内が癒やし空間なので観光客にも好評です。
では、どうして当社を式内社とする説があるのか。大きな理由は3つです。
- 『新編常陸国誌』に鎮座地「春友」の由来が「速玉」とある
- 天速玉姫神社は近くの式内社(天志良波神社と薩都神社)と共に神階を授かっている
- 本殿が一般的な鹿嶋神社と異なる
ひとつめをご存知の方は多いようです。事実なら式内社説は濃厚でしょう。「速玉」の意味は諸説ありますが、広まっているのは速を美称、玉は水に関係するという説でしょうか。
そこで美しい湧き水のある泉神社が比定されるのですが、当社も近くに里川が流れていて水と無関係ではありません。それに「玉」には別の意味があるかも。
ふたつめは三代実録にある興味深い事柄です。具体的には貞観8年(866年)と同16年(874年)に三社が揃って神階を授かりました。
天志良波神社と薩都神社は車で5分ほどの距離(約2km)。薩都神社と当社も同じくらいです。近くの三社が揃ってということなら、やはり当社が式内社である可能性は否定できません。
みっつめは写真撮ってきましたのでぜひこの先をお読みください!
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アクセス
日立太田南インターから約20分。県道349号を北上し、里川を渡って約500m先を右折。左手に見えてきます。
整備された駐車場はありませんが、駐車スペースはあります。参拝は車になるかと思います。
名称 | (春友)鹿嶋神社 |
住所 | 茨城県常陸太田市春友町406 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居と参道
ナビを頼りに神社に向かうと正面にこちらの両部鳥居が見えてきます。鳥居の前に石段、そしてその先にも石段。つまり、社殿は小高い場所に鎮座しています。
それとものすごくマニアックな話になりますが、鳥居に提げられているしめ縄は薩都神社と同じです。薩都神社の宮司さんの兼務社という関係なのでしょうが、古から続く関係が今もとなると感慨深いですね。
扁額の文字は薄れていますが、「鹿嶋大明神」とありますので江戸時代にかけられたのでしょう。
境内は簡素。石塔が数基並び参道沿いに手水舎と境内社の稲荷神社が鎮座していました。それぞれ比較的新しく見えるのは、氏子がたびたび寄進しているためのようです。
わたしには人為的に作られた山の上に鎮座しているように見えます。建築が大変だったはずですが、なぜ平地ではなくわざわざ高いところにしたのでしょうか。それには古来から山が神の鎮座地と考えられていたからではと思います。
当社はまぎれもなく鹿嶋神社ですが、前身となる信仰があったのではないでしょうか。神社の由緒がほとんど残っていないのは、土地の守護(鎮守社)よりも氏神(特定の氏族)としての性質が強かったせいかもしれません。
式内社は朝廷との関係を示すものなので、有力豪族の氏神だとか朝廷に貢献した場合も記載されたと考えられます。そのため土地の支配者が変わったことで信仰が失われることも少なくありません。
社殿
石段を登ってすぐに社殿なので正面からの写真が取りにくい。。
色味は新しそうですよね。氏子が寄進をすると次々と拝殿にその旨を記載した板が貼られる形式。神社のこうした彩り方、ステキです!
本殿には立派な彫刻がいくつも。建てられた年代が不明なせいか新しくも古くも感じます。ただ壊れやすい妻飾りや降り懸魚がキレイに残っているところを見るとさほど古くはないと思います。
ちょっと頑張って背面の同羽目板を覗いてみました。「さしは」を持つ女性なので、おそらく神功皇后かと思います。だとすれば、向かい合っているのは武内宿禰でしょうか。若干の違和感がありますが、定番の構図です。
ただ、全体的に彫りが浅めで絵を立体化させたような印象です。悪くはないのですが、彫り物らしさは強くありません。
ちなみに本殿の裏側はこのような崖となっております。羽目板を見たいがために足をすべらせることがないようお気をつけください。落ちたら冗談で済まない高さです。
左右の板には孔雀と鳳凰が描かれています。こちらはあまり見かけない構図でいい出来だと思います。特に孔雀の方は松を背景に優雅な雰囲気が漂っていますね。
鰹木3本はともかく、神紋の五七の桐、女千木は鹿嶋神社としては珍しいです。武甕槌命を祀るなら神宮と同じ三つ巴と男千木が一般的。なお、神社誌には「三つ巴」の神紋とあるのですが。。
こうした造りにはどんな理由があるのでしょうか。あるいは鹿嶋とは違う伝統を受け継いでいるとか。やはりここはひと味違う神社。式内社としての可能性、まだ残されていると思うんですよね。
天速玉姫命とは
天速玉姫命とはどんなご祭神なのでしょうか。どこにも語られていないので詳しいことはだれにもわからないはずです。
わたしが想像するのは、かつて当地で祭具の「玉(勾玉含む)」を生産していた氏族の氏神ではないか、ということです。
同市内の天志良波神社や長幡部神社は植物の生育や機織りを通じて祭具(神職の衣類など)を生産していました。祭具は祭祀の根本に関わるので朝廷(神祇官)の管理下に置いていたと考えられます。
なお、祭具調達の総指揮をとる中央の忌部氏(斎部氏)の祖神は天太玉命です。名前からもわかるように玉は特に重要なのです。
ところで、「天速玉姫命」は延長5年(927年)に完成した延喜式に見られる名前です。ところが、それ以前に編纂された「三代実録」には「天速玉」とあるんです。「姫」がなかったんですね。
ささいな違いかもしれませんが、性別が変わってますし間違えるようなことではないと思います。この変化は一体。。
妄想すると天速玉命だと斎部氏の天太玉命と同じ意味を持つ名で恐れ多いため「姫」を足したのではないでしょうか。実際、玉作は機織りのように女性も多く関わっていたので違和感はないでしょう。
三代実録では三社が揃って神階を授かったとのことですが、天志良波神社と天速玉姫神社の関係は祭具生産の共通点もあって密接だったと思います。
そして最後の一社薩都神社は当時の世界観で特に重視された神社なので。。それはまた別の機会にご紹介しますね!
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御朱印
御朱印は本務の薩都神社の宮司宅でいただけます。薩都神社の境内に連絡先がありますので事前に確認してから訪問しましょう。
・春友鹿嶋神社のご祭神は武甕槌命と天速玉姫命
・式内社としての可能性はある
・御朱印は本務の薩都神社の宮司宅でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
古社巡礼-式内社を歩く-|榎本実
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。