wata
社名に2つの名前が入っている神社ってたまにあるんですよね。わざわざ残したのはそれなりの理由があるはず。。ひときわ興味がそそられるというものです!
この記事では潮来市の鹿嶋吉田神社をご紹介します。鹿嶋と吉田は水戸藩絡みで茨城に非常に多い社名ですよね〜
由緒
早速、鹿嶋吉田神社の由緒をざっくりとご紹介します♪
古高に国上神社と共に創建
島崎城主・島崎彦四郎が神輿を造営して寄進
下幡木との土地争いに終止符がうたれ、奉納相撲がはじまる
水戸藩主・水戸光圀公の命で諏訪ヶ原の吉田神社(延宝4年創建)を遷宮し相殿とする
※「宝永頃水戸鎮守社録」によると元禄11年
延方、島崎両村の村社となる
字東の厳島神社、字下田の素鵞、山倉神社を合祀
字徳島の厳島、水神社、義烈神社、字小泉の浅間、洲崎、三峰神社を合祀
新宮の稲荷神社を合祀
ふるさと創生資金を利用して、参道沿いの桜を植樹
社殿の新築を記念して遺族会が寄付
御祭神は武甕槌命と日本武尊です。茨城を代表する御祭神ですね!
かつて古高には国上神社と鹿島神社をひとつにした社殿がありました。それが鹿島神社だけいまの場所に移され、それぞれ独立した神社になったという珍しい由緒です。
大同年間の創建とは極端に古いですね。周辺情報から考えると14世紀頃に創建した可能性が高そうです。鹿島神社の棟札もその頃からなので。
鹿島神社と吉田神社の相殿は水戸藩の一村一社の政策によるといわれています。水戸藩の寺社改革では八幡宮を取り潰して鹿嶋神社や吉田神社、静神社に改めることがありました。
吉田神社は洲崎村の産土神である諏訪神社でした。それが寺社改革によって吉田となり、さらに鹿島社と合祀され鹿嶋吉田の誕生となりました。ただ、その社号は明治10年からなので、それまでの社号が気になりますね。
wata
アクセス
駐車場はありませんが、駐車スペースなら二の鳥居の右手に1台分。
また、二の鳥居の向かって左手を進んでいくと社殿目の前に入っていき駐車できます。
名称 | 鹿嶋吉田神社 |
住所 | 茨城県潮来市新宮1866 |
駐車場 | なし 鳥居そばに1台駐車可 社殿近くにも駐車スペースあり |
Webサイト | 7月最終日曜日…延方相撲 |
鳥居
奥に見える鳥居は二の鳥居です。一の鳥居は二の鳥居のさらに手前でして、駐車位置からではあることに気付きませんでした。。
右手に見える社号標には「運輸大臣 橋本登美三郎書」とあります。橋本氏は現在の潮来市出身。運輸大臣の前には内閣官房長官まで務めました。
そのとき副長官を務めていたのが、竹下登氏。後の総理大臣ですね。これ大事。
一の鳥居から社殿まで参道の両脇には桜の並木が続きます。境内の石碑によると古くは参道沿いに見事な松並木があったとか。
しかし、日露戦争を機に伐採。後に桜が植樹されましたが、先の戦(おそらく大東亜戦争)によって荒廃してしまったそう。
そこに竹下政権時代に「ふるさと創生」と称して各地に資金が与えられたので桜並木を復活させました。石碑の篆額には「ふるさと創生 桜並木 竹下登」とあります。
なぜ、この神社に総理大臣?と思ったのですが、自民党内で自分を推薦してくれた恩人のためにということなのでしょう。
参道沿いには遊具もあったりして。。公園と一体化しているので、近隣の子どもたちが遊びにきていました。微笑ましていいですね〜
土俵
参道を進むと社殿の手前に大きなテントがありました。倒してあるのは風で飛ばされないためだと思いますが。。
じつは神社の伝統神事である延方相撲のための土俵なんです。潮来市の公式サイトから抜粋します。
江戸時代徳島一帯では漁場をめぐる紛争やまた農耕地の利権論争、耕作権の問題など紛争が絶えなかったが、寛文12年(1672年)7月27日この紛争に対して江戸幕府評定所より「この地は水戸南領に属す」という裁決がありました。
延方相撲(鹿嶋吉田神社祭礼)/潮来市(公式)
村人はこれを喜び合い、寛文13年(1673年)相撲祭を延方村鎮守鹿嶋吉田神社に奉納したことに始まり、江戸勧進相撲の格式をもって今日に伝えられています。現在は毎年7月の最終日曜日に開催されています。
潮来市の「徳島」はいい漁場だったので、延方(潮来)と幡木村(神栖)は自分たちで利用したかったんですね。延方は水戸領だったので、ときの藩主・水戸光圀公が幕府に裁決を仰ぐことになりました。結果、徳島も水戸領となりました。
光圀公はよほど嬉しかったのか、勝訴を記念して「勝ち相撲」を奉納しました。それが延方相撲のはじまりです。
相撲は江戸勧進相撲の格式で、明治初期まで江戸から立行司の木村庄之助が来村していたそう。
立行司。。調べてみたら行司の最高位です。あまりに立派、そして難しい職なのか現在では不在。江戸初期〜中期の木村庄之助は実在したかよくわからないのですが。。
神社本来の祭祀である『鹿島御掛祭』は1月22日、『吉田御掛祭』は1月26日です。
社殿
奉納は明治42年かな?いい感じで時代を感じさせる狛犬。
石段を登りきると近年(おそらく平成26年)に新築された社殿です。
この日はちょうどご祈祷されている方がいたので拝殿が開いていました。ちょっと珍しいかもしれませんね。
毎年、奉納相撲でたくさんの方が集まる場所なので特に大切にされている神社かと思います。
神職の方と少しお話をさせていただきましたが、大変フレンドリーで楽しくお話できました。しかもその場で御朱印まで。。
こうした事はめぐり合わせですから大切にしたいですね。今度は桜の咲く頃にお邪魔したいかなって思います♪
境内社
鹿嶋吉田神社の境内社には興味深いものがいくつかありますので改めてご紹介させていただきます。
まずは千勝神社。参道を進み、相撲用のテントを前にして左手の方を見ると鎮座しているかと思います。
茨城でこの社号といえば猿田彦神が御祭神です。県内でもっとも著名なのは千勝神社は泊崎(つくば市)にあり、同社の分霊元である下妻の千勝神社も知られています。
面白いのは社殿の中に御神影が見えることです。これは以前はなかったような。ちなみに御神影の下部には「常陸行方郡延方」とありますが、その御姿は坂井郡(いまの下妻市)の千勝神社の御神影とまったく同じです。
『茨城県神社誌』などには見えませんが、元来は坂井の千勝から分霊して創建されたのかもしれません。
続いて鹿嶋吉田神社の拝殿から向かって左手に鎮座する稲荷神社です。じつはこちらも中を覗いてみると、御祭神の宇迦之御魂神の御姿を拝見できるのです。
こちらは千勝と異なり木造があるようですが、本尊である木造はむき出しにせずにそのお写真を御本尊として安置していました。
当ブログではウカノミタマを女神として描いておりますが、こちらは笠間稲荷のように老翁の姿です。左手に宝珠、右手になにか巻物らしき物を持っているようですね。
『古事記』『日本書紀』といった日本神話に神様の具体的な御姿はほとんど描写されていません。こうした姿はかなり時代が下ってから想像で描かれたと考えられます。
あくまで想像というわけですが、人間の豊かな想像力によってさまざまな描かれ方をしますので、各地にある御姿を集めるのはとても楽しいと思います。じつはわたし、オークションなどを利用して御神影を集めています!
そして最後にご紹介するのが恵比寿神社です。千勝神社より少し手前(鳥居側)、左手のやや奥まったところにある黒い社殿がそうです。
御祭神はもちろん恵比寿さま(いちおう事代主命という)。釣り竿とタイを持ち、三角形の帽子をかぶったお馴染みのスタイルですね。平成31年に社殿の改修をしているくらいですから篤く崇敬されているのでしょう。
写真の右下に見切れているのは大黒天です。恵比寿と大黒はそれぞれスクナヒコナとオオクニヌシが仏教と習合した姿ともいわれ、ペアで見かけることが多々あります。
ただし、どちらかといえば大黒天が主たる存在なので、こうしたバランスは珍しいと思います。釣り竿を持っているので漁と関係するのでしょうか。このあたりはわたしにも未知の信仰なので今後調べていきたいところです。
御朱印
鹿嶋吉田神社の御朱印です。宮司さんのご自宅でいただけます。住所は書けませんが、境内の参集殿に連絡先が貼り出されています。
神社から徒歩1分ほどなので、ご在宅ならいただけるでしょう。兼務社の大生神社の御朱印もこちらでいただけますよ♪
・鹿嶋吉田神社は鹿島神社に吉田神社が合祀されてはじまった
・延方相撲の起源は水戸黄門
・御朱印は宮司宅でいただける。連絡先は境内にあり
茨城県神社誌/茨城県神社庁
潮来町史/潮来町史編さん委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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