【漂流神輿】素鵞熊野神社の潮来祇園祭禮|潮来市【潮来祇園祭禮】

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

各地で開かれる祇園の中でも特に注目してほしいのが、潮来祇園祭禮いたこぎおんさいれい!潮来市の素鵞熊野そがくまの神社の例祭です。名前の通り二社(素鵞社と熊野社)がひとつになった神社のお祭りです。

なにがすごいのか。一言で言うと山車と飾り物。でも、それを楽しむには少しだけ事前情報があるといいと思います。

この記事では潮来市の潮来祇園祭禮を楽しむため、神社と飾り物についてご紹介します。お読みいただいたらぜひ来年潮来でご覧いただきたいです!

市役所の前の通りの案内
市役所の前の通りの案内

由緒

天安2年/858年
創祀

浪逆浦から流れ着いた小社(神輿)を津知村天王原に祀る

文治4年/1188年
遷宮

小社を天王河岸へ遷宮。板久牛頭天王と称す

*境内の由緒碑には文治4年(1185)とあり

天正年間/1573年
熊野社創建

紀州(いまの和歌山県)から熊野三社を信仰していた村人が分霊を迎える。熊野三社大権現と称す

元禄5年/1692年
徳川光圀巡視

水戸藩主・徳川光圀巡視の際、火災の心配があるとして天王社の遷座が決まる

元禄9年/1696年
遷座

水戸藩の一村一社政策により天王社が現在地に遷座。熊野三社と相殿になる

天保15年/1844年
改称

天王社を素鵞神社、熊野三社権現を熊野神社と改称する

明治6年/1873年
県社列格

新治県の県社に列格

明治10年/1877年
二社合併

素鵞社と熊野社を合併して素鵞熊野神社と称する

明治12年/1879年
郷社列格
昭和39年/1964年
文化財指定

境内の潮来の大ケヤキが県指定天然記念物になる

平成23年/2011年
一の鳥居建立

素鵞神社のご祭神は須佐之男すさのお命と奇稲田姫くしいなだひめ。熊野社は伊弉諾いざなぎ尊、伊弉册いざなみ命、速玉男はやたまお命、事解男ことさかおです。

素鵞神社のはじまりは流れ着いた小社(神輿)から。『潮来の昔話と伝説』によると小社は塙村(鹿嶋市)のもので、若者たちが6月7日に霞ヶ浦に担ぎいれた際に誤って流してしまったといわれます。

ただ、その神輿自体は後日返却したということにいなっています。神輿は別に製作され、それが再建繰り返しながら今に伝わっているとのこと。

牛頭天王はその身に疫病を引き受けることで人々を救うとされています。そして天王の依代となる神輿などの神体を川に流すことで清められ、再び力を取り戻すのです。

神仏習合の色濃い二社が合併したということで大変興味深い境内となっています。青面金剛や猿田彦命を本尊とする庚申講が盛んだった跡が見え、手元の資料によると1月7日に取子祭が催されます。(いまもあるかは不明)

「取子」は修験道や一部の寺院で見られる特別な風習。子供を一時的に神仏のもとに預けることでその加護を得て長生きできるという思想です。かつては生後すぐに預けていたのですが、時代が下るにつれて儀式的になっていきました。現在もやっているならぜひとも見てみたいです!

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板久牛頭天王が鎮座した天王河岸はお祭りのときに仮宮となる場所にあったそうです。後ほど写真と場所を掲載してますのでご参考に。

アクセス

最寄りICは東関東自動車道の潮来IC。下りて約10分。潮来市役所からだと徒歩で10分ほどです。

駐車場は神社の鳥居の近くと国道51号沿いにあります。個人的には51号沿いが使いやすいかなと思います。

最寄り駅は大洗鹿島線の潮来駅。駅から徒步で約15分です。

名称素鵞熊野神社
住所茨城県潮来市潮来1337
駐車場あり
Webサイト潮来市公式

鳥居

一の鳥居(南)
一の鳥居(南)

まずは一の鳥居から平成23年に立てられたのでだいぶ新しいですね。こちらとは別に社殿の東側の鳥居もあります。

後ろにあるのは県指定の天然記念物にもなっている潮来大欅おおけやき。樹齢800年以上。樹高は11mもあります。

起源は文治4年(1188年)で大六天神社の鎮座を記念して植えられました。神社は素鵞熊野神社の境内社としていまもあります。神社のある小高い場所が大六天山なんですね。

狛犬・社号標

笑顔の狛犬
笑顔の狛犬

参道は長くありませんが、見どころたくさんですよ。いくつも目にする狛犬は表情がいい。こちらなんて完全に笑ってますよね。

地面に埋まった社号標?
地面に埋まった社号標?

ちょっと気になるのは地面に植えられた石。郷社とありますよね。日本の敗戦後、社格制度の廃止に伴い撤去されたと思いますが。。このままだと残念すぎるので掘り起こして欲しいな。

二の鳥居
二の鳥居

石段で大六天山を登ります。真夏に参拝しましたが、ここは日陰なのでひんやりでした。

それにしても大六天山とは気になる名称です。大六天は仏敵であり魔王とも称される他化自在天を指します。山倉大神(千葉県)で祀られる修験道系の神なので、熊野信仰に関係するのかもしれませんね。

社殿

拝殿
拝殿

入母屋造りの拝殿。写真を撮り忘れましたが本殿は流造となっています。

拝殿はふだん閉じられていますが、この日は祭礼だったので開放されています。二神ともお神輿に乗って神社にいませんから、お参りするのはわたしくらい。。でも、ちょっぴり珍しい写真を撮れたのでよしとします。

本殿(覆屋)
本殿(覆屋)

本殿の全体像は覆屋があるため直に見ることは叶いません。拝殿左手から近づき、木々の隙間から拝むような形になります。鰹木は三本、千木は男千木でした。

本殿は二社が並ぶ
本殿は二社が並ぶ

また、瑞垣の隙間から本殿を見ますと二社が並んでいることがわかります。当社は「素鵞熊野神社」ですので、素鵞社と熊野社がそれぞれあるのでしょう。

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天王社の創建は天安期といわれますが、それだと祇園祭の起源といわれる御霊会さえ始まっていません。個人的には誤記か誤読であるように思います。

境内社:愛宕神社

愛宕神社
愛宕神社

素鵞熊野神社の社殿から左手に進むといくつかの境内社があり、その先には愛宕神社が鎮座しています。ご祭神は火産霊ほむすびです。

青面金剛
青面金剛

注目していただきたいのは社殿の周囲にある石碑です。青面金剛しょうめんこんごうと彫られています。じつはこの文字は境内でたくさん見かけるんです。

青面金剛は中国由来の道教と日本仏教や神道が複雑に交わった存在なので説明に困りますが。。農業の神で農作物につく悪い虫(邪鬼)を払うといわれています。

その顔は恐ろしい怒りの表情で眉間にも目があります。肌は青、あるいは茶褐色といわれ、四本もある腕にはそれぞれ武器が握られています。。不動明王のようなイメージですね。

青面金剛は庚申様とも呼ばれています。かつての庚申様のおまつりではだれもが身を慎み眠らなかったそうです。この日に眠ってしまうと体に潜んだ3つの虫が『天帝』に『悪事』を知らせ、その人の寿命を縮めてしまうのだとか。独特の信仰ですよね。さすが道教。

青面金剛は恐ろしい顔ですが、農民を助ける慈愛に満ちています。神道では猿田彦さるたひことして捉えられており、境内には命の石碑も多数見かけました。

猿田彦命は『天孫降臨』で邇邇藝ににぎを先導したことから道案内の神様とされています。役目を終えた後は伊勢の五十鈴川の近くに鎮座し、水源を守る土地の神様となりました。

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猿田彦命も怪物のような姿といわれますが、女性(アメノウズメ)に弱い人間臭い面があって親しみやすい神様なんですよ♪

御朱印

素鵞熊野神社の御朱印
素鵞熊野神社の御朱印

素鵞熊野神社の御朱印です。2016年からはじまりました。

ふだん、社務所は無人ですのでお電話して宮司にご足労いただくことになります。連絡先は境内にあります。宮司のご都合もあるかと思いますので、いただけたらラッキーという程度に。

令和5年現在、社殿近くに書き置きの御朱印が用意されています。賽銭箱の初穂料を納めていただく形です。

潮来祇園祭禮

下壹丁目の山車(飾り物:福俵と白鼠)
下壹丁目の山車(飾り物:福俵と白鼠)

素鵞神社の例祭が潮来祇園祭禮です。毎年8月上旬に3日間(金土日)開催されます。

祇園祭は疫病除けを願う牛頭天王のおまつり。牛頭天王は明治の神道分離以降、須佐之男命に置き換えられていることが多いので、須佐之男命をご祭神とする八坂神社や素鵞神社には夏になると祇園祭が行われます。

潮来祇園祭禮は天王河岸の鎮座からはじまったということで800年もの歴史といわれています。

初日に神社の二体のお神輿がお浜下りして仮宮へ。中日に山車と神輿が曳かれ(御神幸)、最終日にお山上りされ元に戻ります。

西壹丁目の山車(飾り物:神武天皇)
西壹丁目の山車(飾り物:神武天皇)

見どころはなんといっても山車の豪華さ、そしてお囃子の賑やかさでしょう。潮来ばやしは県指定の無形民俗文化財に指定されています。

夜の時間帯は潮来駅の駅前通りが歩行者天国となり大変な盛り上がりとなります。暑さも少し落ち着くので、日が暮れてから見に行くのもいいと思います♪

お浜下のようすは地域おこし協力隊のあやきさんがブログにされています。神輿を先導するのは天狗のような顔をした猿田彦命。なるほど、神話にちなんでいるようですね〜!

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山車がどこにあるかは常に把握できます。なんとGPSで位置情報を発信しているのでネット上でわかるんです!

仮宮

仮宮に鎮座するお神輿
仮宮に鎮座するお神輿

お浜下りした二体のお神輿は仮宮に鎮座しています。お参りするとお神酒と神棚に飾る稲穂をいただけますよ♪宮司もいらっしゃるので御朱印をいただきたい場合もこちら。

仮宮の鳥居
仮宮の鳥居

仮宮の周辺は駐車してよいかわかりませんので、歩いて1分ほどの津軽河岸跡に停めるといいでしょう。以下がルートです。

山車

五丁目の山車(飾り物:源頼政)
五丁目の山車(飾り物:源頼政)

わたしが一番注目したのは五丁目の山車です。飾り物が源頼政みなもとのよりまさ公なのです。頼政公は古河市の頼政神社にお参りしてからファンになりました。ぬえ退治の伝説をもつ最強武将です!

山車の上にいる『おヒゲ』が頼政公。このときは見えませんが、家来の猪早太と鵺もおりますのでぜひご覧頂きたいです!五丁目の山車は各町内の山車が豪華になるきっかけになったとか。重要な存在だったんですね。

ちなみにこの山車は近年数千万円かけて新しくなったと耳にしました。山車を曳く前に見せていただいたのですが。。

八岐大蛇、浦島太郎の彫刻
八岐大蛇、浦島太郎の彫刻

彫刻がヤバイ!須佐之男命の八岐大蛇退治が描かれています。下の方は童話の浦島太郎。圧倒的な技術です。信じられないほど精巧。職人ハンパない!

猿田彦命と思われる彫刻
猿田彦命と思われる彫刻

鼻が高いのは猿田彦命でしょうか。これは間近で見て欲しいです。

上壹丁目の山車(飾り物:日本武尊)
上壹丁目の山車(飾り物:日本武尊)

上壹丁目の日本武やまとたけるの飾り物も素晴らしかったです。天叢雲あめのむらくもを手にして東征に向かうシーンを再現しているのだとか。

町内の曳き廻しは飾り物(人形)の高さを抑えていましたが、するすると立ち上がることができてこの3倍くらいになります。すごく立派!

日本武尊は県南から鹿行、北は日立あたりまで伝説を残しています。新治という地名は各地にありますが、尊が新しく井戸を治ったことに由来するといわれます。

日本史のスーパーヒーローがこうして堂々と町内を歩き回る姿は壮観です。駅前の大通りを通るというのもいいですね!

濵壹丁目の山車(飾り物:神功皇后)
濵壹丁目の山車(飾り物:神功皇后)

各町内の飾り物のチョイスが非常に面白いです。濵壹丁目は今年のパンフレットの顔ともなった神功じんぐう皇后です。

神功皇后というと、やはり三韓征伐でしょうか。急逝した夫・仲哀天皇の意思を継ぎ、新羅に出兵。朝鮮半島を平定しました。それも身ごもったまま。。出産した子どもは応神天皇。誉田別命と同一視され、各地の八幡神社で祀られていますよね。

神功皇后は昔から存在が疑問視されていますが、水戸光圀が編さんをはじめた大日本史では実在したとされています。大日本史の特徴のひとつです。

あと女性として日本ではじめて紙幣に肖像が印刷されました。日本人としては色んな意味で覚えておきたい皇后ですね。

日中は日差しがとても強かったので、日よけがかかっていました。夜だったら外れていることでしょう。

他にもたくさんの山車や飾り物を拝見しましたが、あまりにも多いのでここまで!

興味がある方は、ぜひ来年潮来市でご覧ください。ピークは夜なので宿泊するのもいいと思いますよ!

山車一覧

山車は以下の14基です。祭りのパンフレットから転載しています。

町内山車の製作年代飾り物の名称飾り物の制作年代と作者額の文字演奏芸座連
三丁目昭和39年獅子頭・獅子舞の奉納江戸後期神楽三丁目芸座連
西壹丁目平成4年神武天皇平成16年
田島義朗
敬神潮来會囃子連
七軒町平成元年源義経平成11年
田島義朗
豊穣祭好會鹿嶋芸座連
五丁目平成29年源頼政明治初期
伝・鼠屋五兵衛
敬神源囃子連中
貮丁目昭和63年大國主命平成10年
古屋敷吉男
崇敬登喜和芸座連
六丁目平成10年弁慶昭和54年
伊東久重
雲龍分内野下座連
四丁目明治8年天之岩戸明治12年
鼠屋五兵衛
素鵞街葦切會
大塚野平成17年本多平八郎忠勝平成17年
飯田幸静
誠意水郷會
あやめ二丁目明治10年真田幸村平成4年
古屋敷吉男
乍芳A
八丁目平成6年静御前明治8年
古川長延
生祥如月會囃子連
濵壹丁目明治20年神功皇后明治20年
福田萬吉
雍熙ようき佐原囃子連中
下壹丁目平成20年福俵と白鼠総曳年に区民により製作豊楽千秋會
上壹丁目昭和60年日本武尊明治16年
伝・衣川人麻呂
豊穣上町芸座連
七丁目平成元年素盞嗚尊明治33年
竹田縫之助
為徳花崎町囃子連

最終日

境内に帰還する神器と神輿
境内に帰還する神器と神輿

町内を神幸した神輿は祭禮最終日の日曜に境内の宝物殿へ戻ります。その様子が独特なのでご紹介します。神輿が帰還する時刻は午後五時頃。各町内の提灯が掲げられ、まずは裃の二人に先導されて神器が境内へと入ってきます。

神輿と共に担がれる人
神輿と共に担がれる人

それに続いて神輿が登場。当社の神輿は素鵞と熊野で二基あるようです。先に入ってくる大きい方の神輿が素鵞でしょうか。いずれも神輿の担ぐ棒のあたりに人が乗っているのが特徴です。

このやや不思議な光景は当社の創建伝説と関係しています。『潮来の昔話と伝説』によれば、神輿乗りは当地に流れ着いた小社(神輿)を発見した磯山源兵衛とその子孫に決まっているそう。

それについて以下のように記されています。

 昔の記録には「当初神体を掬ひ揚し即ち六月七日を祭日にと定め、予じめ四丁目河岸に仮官を造り、六日の朝、源兵衛の子孫、頭に自布の鉢巻を施し身に同じ浄衣を着け(維新後麻の上下に改む)手に夜叉手(小網を云ふ)を持ち神輿の台に分乗し、無数の牡夫之を昇き、下山して仮宮に遷御す、翌七日源兵衛裸体にて前途の如く神輿に分乗し、仮官の前の河岸に安置し、祭典を執行す。此を渚祭と云ふ」と記している。その神興の渡御には、「乗った、乗った、だ(誰の意) が乗った、磯山源兵衛が乗った」と、昔から子供達がはやしたてる風習がある。磯山源兵
衛は仮宮へ下れと帰還のさいは、麻上下を着て、手に網を持って神幸する恒例であったが、その子孫も代々先祖の行った通り、神興の役乗をして、若者達を指揮した。
 そこで女や子供は「乗った、乗った、誰が乗った」とはやしたてるのだという。面白いのは磯山源兵衛とその子孫は出御のとき、サデ(魚をとる手網)を持って指揮し、祭典後は禅一つになって神輿に乗り、川洗い式に臨むこともあった。

潮来の昔話と伝説|潮来市郷土史研究会

このような由来があるとは知りませんでした!氏子でなければほとんどの方も知らないのではないでしょうか。

石段を昇る神輿
石段を昇る神輿

神輿を担ぐ若い衆と裃をまとった氏子らが石段を登る姿は歴史を感じます。山車の豪快さとガラリと変わって厳かな雰囲気が漂っています。石段の先にある社殿前で神輿を下ろしたら、担ぐための棒を外された神輿を拝殿へと運びます。その後は修祓をして祝詞をあげて祭禮の締めくくりとなります。

まとめ

・神仏習合の色濃い神社。修験道の跡が見える

・例祭の潮来祇園祭禮は8月上旬。ユニークな山車人形が特徴

・御朱印は境内に書き置きが用意してある

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁

潮来の昔話と伝説|潮来市郷土史研究会