wata
『願掛け』といえば願い事を念じることですが、どうしても叶えたい願いの場合は念じるだけで終わりません。
例えばお百度参りのようにたくさん繰り返したり、丑の刻まいりのように特殊な衣装や方法を用いる場合もあります。
その2つはこれまでにご紹介しましたので今回は『断ち物』です。「◯◯まで禁酒」などとすることで願いが叶いやすくなるというもので、つくば市の八巻神社に伝えられています。
この記事でわかること
- 八巻神社の由緒・ご祭神
- 創建の際の『断ち物』について
- 本殿とそれにある家紋『下がり藤』について
八巻神社はつくば市の山木に鎮座しています。読み方が同じなのは民話に秘密があるかもしれません。
場所は国道408号を北進し、クリーンセンター入口の信号の次の信号を左折。突き当りを右、三叉路を左折して突き当りまで進んでください。行くなら車です。
突き当たりに駐車して右手を見ると写真のような3本の道が見えます。そのうちの真ん中が八巻神社に通じます。
正式なものではありませんが、由緒を『つくばの昔ばなし』から抜粋します。
山木に、八巻神社というお宮があります。
八巻神社と山木のお話/つくばの昔ばなし
1062(庚平5)年、八幡太郎義家が奥州に向かった時、二度、筑波の地を通ったと言われています。その頃、大変な疫病が流行していました。
義家の一行が筑波山のふもとにさしかかった時、兵士たちもこの疫病にかかってしまい、大変苦しみました。
そこで義家は、日頃信仰していた伊豆山神社にお参りし、伊豆の「豆」にちなんで、「以後、小豆を食べないことを約束しますから、兵士達の病気を治して下さい」と、願いをかけました。
すると不思議なことに、兵士たちの病気は治り、元気になって奥州に進軍し、戦争にも勝つことができました。
そこで義家は、伊豆山神社の神様を八幡太郎の「八」の字にちなんで、八巻の地に移し、八巻神社として祀ったのだということです。
『茨城県神社誌』によるとご祭神は天忍穂耳尊。配祀として大山祇命、高皇産霊命、神皇産霊命、別雷命、菅原道真、日本武尊が祀られています。
伊豆山神社から勧請したとのことですが、天忍穂耳命以外は色々違っています。当社は旧村社なので明治以降に社格の関係で複数の神社を合祀したような気がしますね。高皇産霊命は第六天?
なお、『茨城県神社誌』には小豆と地名の由来の部分がなく、伊豆権現を勧請したとなっています。
ところで、本当に山木の方々は小豆は食べないのでしょうか。由緒をよく読むと祈願しているのは義家で場所は「筑波山のふもと」とあるので山木でないような気がするのですが。
これで山木の方々が小豆をタブーにされたらキツイといいますか。わたしだったら見返りがもっと欲しい!!
wata
山木のもとの地名は八巻だったという説があります
アクセス
名称 | 八巻神社 |
住所 | 茨城県つくば市山木1682 |
駐車場 | なし |
Webサイト | なし |
鳥居
すっごくわかりにくい場所にあるので、この鳥居を見れたら相当頑張ったと思います。一見なんの変哲もない鳥居ですが、じつは平成24年(2012年)につくばで発生した竜巻によって壊れてしまいました。
境内もめちゃくちゃで森林のほか拝殿まで壊れてしまいました。当時のようすがYoutubeにありましたのでご覧ください。負担が少なくない中、こうして復旧しておりますので感謝の気持ちで参拝させていただきました。
鳥居の扁額はかろうじて「八巻神社」と読めます。地名の「山木」と社号の「八巻」の関係はちょっと気になっています。「易」では艮の像を自然では「山」、数字では「八」をあてるので不思議と文字がシンクロするのです。
艮は方位では丑寅(東北)であり、鬼門にあたりますから、もしかしたら鬼門除けの意味合いがあったのかもしれませんね。さすがに八幡太郎の時代にまで遡るとは考えにくいのですが。
鳥居をくぐり、石段を登り10mほど進むと開けた場所に拝殿があります。多少高い位置に建てられたのは、元来は山の神(伊豆山)であったことによるのでしょうか。
拝殿
八巻神社の拝殿です。簡易的な形なのは前述の理由です。
さて、いまこうしてブログを書いていて気がついたのですが、手水舎と石灯籠の間にあるのはなんでしょうか。石灯籠の頭の部分でしょうか。
じつは『つくばの昔ばなし』には、義家が奉納した「カブト石」があると書かれていました。境内にいたときは「そんなのないけど」と思いましたが、なんだか伝説の石に見えてくる…
本殿
拝殿と一緒に瑞垣がなくなったようで本殿むき出しですね。これだけ立派なものを間近で見れる機会は少ないでしょう。
流造で間口の柱が四本。一般的には1間(1.8m)ごとに柱を置きますので三間流造と言うのでしょうが。明らかに間隔が違ってます。めずらしい形なのでしょうか。
本殿にあるのはおそらく下がり藤です。これは藤原氏に多い家紋かと思います。ただ、つくばでは関連する武将が思い浮かびません。
『つくば新聞』によると本殿の棟札に寛文7年(1667年)に上棟されたとあるそうです。
するとこの地(名称はおそらく山木村)の当時の領主の家紋かと思いますが、天領は領主がコロコロと変わるのでわかりにくいですね。誰だろう。新たな謎を見つけてしまいました。
家紋をもとに語られていない由緒にたどり着けるかもしれませんね。もしこれについてなにかご存知の方がいらしましたらぜひご一報下さい♪
本殿の家紋について
社殿の家紋は山木村の当時の領主かと思いまして、郷土史(筑波町史)で調べてみました。
それによると江戸時代の山木村は次のように属しています。
- 江戸時代直後:土浦藩
- 元和5年(1619年):笠間藩
- 元和8年(1622年):玉取藩
- 延宝7年(1679年):旗本領
玉取藩の藩主は外様大名の堀氏です。関ケ原の戦いで評価されて新治郡の領地を与えられました。陣屋があったのは同市内の玉取です。
しかし、延宝7年(1679年)、当時の藩主であった堀通周が突然発狂。トラブルを起こして改易となってしまいます。ただ、なんとか実弟の利雄が旧領地の相続を認められたので、旗本として名跡を継ぐことができました。
本殿の棟札は寛文7年(1667年)とあるので、家紋は通周の使っていたものでしょうか。堀氏の家紋が下がり藤なのかは引き続き調査中です。
もし下がり藤ならスッキリですが。。わたしだけ?いやいや、これを読んだ方ならきっと同じ気持ちになってくれますよね!
・八巻神社は源義家によって創建。伊豆山神社から勧請された
・義家は「小豆を食べない」ことを誓い疫病を鎮めた
・本殿には「下がり藤」のような家紋(神紋)がある
茨城県神社誌|茨城県神社庁
つくばの昔ばなし/筑波書林編集部
筑波町史 上巻|筑波町史編纂委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。