wata
面白いですよねぇ。香香背男の伝説。常陸国の一宮・鹿島神宮の武甕槌命を退けた悪神です。香香背男は地域によっては星神として祀られることもしばしば。ミステリアスで惹き込まれるが多いようです。
この記事では城里町の風隼神社をご紹介します。御神体が香香背男の一部という噂の神秘的な神社ですよ♪
この記事でわかること
- 風隼神社の由緒
- 由緒と香香背男の関係
- 御朱印のいただき方
由緒
1月10日
石塚城主・石塚義国により本殿造営、軍配団扇奉納
豊臣秀吉が小田原征伐の際に片山筑後守に1石5斗4升6号を奉納祈願
風華神社から風隼神社へ改称
1200周年記念事業
ご祭神は強賊退治の指揮官だった武甕槌命です。
当神社の創建は謎めいています。創立は大同元年(806年)1月10日。御神体は黒とも白ともいわれる”神体石”。神体石は高天原の神々に従わない石名坂(いまの日立市にある大甕神社の辺り)の強賊が化けたといわれます。
強賊は非常に力が強く、高天原から派遣されたのは武甕槌命と経津主命さえ一旦退却するほどでした。そこで武甕槌命は新たな作戦として建葉槌命と石船大神を派遣。これが功を奏し香香背男を討伐することに成功。巨石に化けていた香香背男は砕け散り各地に飛んでいきました。
その一部がこの地に飛んできて地名(石塚)の由来になったそうです。ただ、神体石となったその石はだれも見たことがないとも。。
時代は飛んで永禄12年(1570年)、石塚城の鬼門除けに位置していたので城主の佐竹氏から厚い崇敬を受け造営、軍配団扇を奉納されています。天正18年(1590年)には豊臣秀吉から除地を奉納されました。
天正の時代は火災によって文書一式を失ってしまったそう。戦国時代以前の事柄がほとんどないのはそのせいでしょう。
水戸藩の代々の藩主からも崇敬され、やはり除地を与えられています。
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アクセス
風隼神社は城里町の石塚に鎮座する神社です。石塚といえば役場のある住所。役場から徒歩15分、車だと5分以内で到着です。
駐車場は鳥居の隣に広めにあります。問題なく駐車できるでしょう。
名称 | 風隼神社 |
住所 | 茨城県城里町石塚1088 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
春に参拝したところ鳥居の隣に見事な桜。ちょうど散り際で桜吹雪を見ることができました。
参道は見事な杉並木です。周辺は開発が進んでいますが、ここは変わらない風景なのでしょう。境内の木々は水戸藩が神社の尊厳を維持するために植樹を勧めたそうです。
御神木は樹高40メートルもある杉です。巨木が並んでいるので見つけられませんでした。今度はしめ縄で探してみますか。
弁天池
鳥居から社殿に向かう途中、右手に小さな祠を見つけました。周囲が窪んでいるので、おそらく本来は水が張られているのでしょう。
ということは、ここに祀られているのは弁天さま?それとも同一視されている市杵嶋姫命?茨城県神社誌を見てもそれらの名前がないので気になるところです。
それなら祠の中を覗いてみたらご祭神がわかるはず、と確かめたら。。意外な「モノ」がありました。結論は出せませんが、おそらくアレですね。なんとも興味深いことでした。
社殿
風隼神社の社殿。。赤い部分がとってもおしゃれ。年季は入っていますが、しめ縄が新しいなど所々手入れされているのがわかります。
平成18年に屋根の改修工事をしたそうで、協賛金の奉納者がドドンと張り出されていました。
拝殿に張られた印象深い言葉。こちらを覚えている参拝者は多いようです。ご祭神や神社の由緒と関係があるかわかりませんが、優しさに溢れていますよね。
拝殿の正面に掲げられている額は「霊気焼乾坤」かと思います。意味は「霊気は天下に心を乱しあれこれと気を使う」。市内の阿波山上神社の幟にも使われています。
書は阿波山上に奉納された「神霊清六極」と似ているのでそちらと同じ黄州(雅号)さんの作かもしれませんね。
本殿は非常にシンプルな神明造りで彫物などの装飾はまったくと言ってよいほど見られません。これだけ一貫していると独特とさえ感じます。屋根はちょっとだけ延長しているようです。
社務所はずいぶんくたびれているようでした。祭礼には周辺の方々が集まるのでしょうが、少々物寂しい雰囲気ですね。
香香背男伝説との関係
少し話を戻って神社の創建について。ここから先は香香背男の伝説を知らないとわからないはずなので、石井神社の記事などでざっくりでも予習していただくとよいかと思います。
はじめにご紹介した由緒の”強賊”は一般的に”香香背男”という神だとされています。日本書紀にも書かれた神で高天原に反抗できるほど大きな力を持っていました。
しかし茨城県神社誌にある風隼神社の由緒を読むと”香香背男”という言葉は出てきません。二神と争っていたのは”強賊”で、魔王石に姿を変えたが建葉槌命に敗れたとあります。
強賊=香香背男は成り立ちますが、それならなぜストレートに香香背男と書かないのでしょうか。香香背男は日本書紀にあるのですから、後世に書かれたものに名前が出てきてもおかしくありません。
そもそも日本書紀にどのような記述されているかご存知でしょうか。現代語訳すると次のようになるんです。
二神(経津主神と武甕槌神)は、もろもろの従わない神たちを草木や石に至るまで誅伐し、みな平定してしまった。従わないのは、星神の香々背男だけとなった。そこで建葉槌命を派遣して、これを服従させた。そして二神は天に帰った
常陽藝文 2004年5月号 p7
日本書紀にもう一箇所、同じような記述があります。
「天つ神が経津主神と武甕槌神の二神を派遣して葦原中国(日本国)を平定させたが、その際、二神は、こう申し上げた。天に悪神がいて、名を天津甕星、またの名を天香々背男といいます。まずこの神を誅伐して、それから地上に降りて葦原中国を平定しようと思います、と」
常陽藝文 2004年5月号 p7
2つはほぼ同じ内容です。ここではなにが書かれていないかが重要だと思います。つまり、香香背男と二神がどこで戦ったのかわからないのです。
それでは神社の由緒にある”石名坂”はどこから出てきたのでしょうか。たしかに石名坂(大甕神社)には香香背男の宿魂石がいまも残っているのですが。。
日本書紀には宿魂石もありませんよね。香香背男が石に化けて巨大化し、建葉槌命に砕かれて残ったのが宿魂石です。宿魂石=魔王石としてよいでしょう。
香香背男や石名坂、宿魂石といったキーワードが含まれた物語は明和5年(1768年)の”大甕倭文神宮記”にあります。神宮記は大甕神社ではじめて香香背男について書かれた文書です。
それにしても日本書紀からずいぶん年月が経っていますよね。数えてみたらちょうど1,000年くらい。。その間になにも書かれなかったのでしょうか。
もうひとつ気になるのは風隼神社の由緒とどちらが先に書かれたかです。風隼神社は天正18年(1590年)の火災で文書をまるごと失っています。おそらく当時の神職は記憶をたどってすぐに由緒を書き直したことでしょう。
そう考えると天正以前の出来事は当時(天正時代)書かれたことになります。香香背男ではなく強賊。宿魂石ではなく魔王石。これらは大甕神社の神宮記の影響を受けずに書いたのではないでしょうか。
言葉の違いは重要な意味を持っていると思います。特に魔王石については風隼神社、大甕神社、光圀公の文書にもあるんです。引用元の常陽藝文には光圀公がいわくつきの魔王石をなんとかしたいと思っていたとか。。
記録が少なくてあまり検証できませんが、風隼神社の由緒にはとても深い意味があるのではと思っています。のんびり調べていきますね。
御朱印
風隼神社の御朱印です。いただける機会は少なく、基本的にはお正月のみです。拝殿に宮司さんがいらっしゃるかと思いますので、ご参拝の後にお声掛けください。
・風隼神社は天正18年の火災で文書のすべてを失っている
・その後に書かれた由緒には強賊と魔王石についてある
・お正月に御朱印を頒布している
常陽藝文 2004年5月号
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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