wata
- 弥勒教会と石城寺の関係
- 国指定重要文化財の木造弥勒仏立像について
現存する笠間六体仏は楞厳寺の千手観音、岩谷寺の薬師如来、そして弥勒教会の弥勒如来です。いずれも国指定の重要文化財となっており、拝観できるのは年に1〜2回です。
わたしはかさま文化財公開で初めて拝見しましたが、4月8日の花まつりでも大丈夫。このブログですべてご紹介しておりますので拝観の参考にしてください。
この記事では笠間市の弥勒教会と御本尊の弥勒菩薩をご紹介します。かさま文化財公開の日につき特別な境内となっています。
弥勒教会とは
功徳山 弥勒教会は笠間市の石寺にある真言宗豊山派の集会所です。住職はおらず信者だけで文化財の管理などもされているそうです。
弥勒教会について笠間市の公式サイトから引用します。
かつては「功徳山石城寺」という寺院がありましたが、明治時代に廃寺となると、老朽化した弥勒堂を取り払われました。その際、弥勒仏立像は民家に保管されたり、村内の不動堂に併祀されたり転々としていました。のちに、金剛寺住職を中心として「弥勒教会」がつくられ、石城寺跡に堂を建てて管理されてきました。
「かさま文化財公開」公開場所1・弥勒教会/笠間市公式
石城寺については不明な点が多いのですが、おそらく本尊が寄進された宝治元年(1247年)に創建されたと考えられています。
ご本尊は笠間藩の初代藩主・笠間時朝が寄進した弥勒仏です。笠間六体仏に数えられており、”木造弥勒仏立像”の名称で国の重要文化財に指定されています。
引用元にある金剛寺は同市内にある真言宗のお寺です。弥勒教会も真言宗なので石城寺の宗派だったかもしれませんね。ちなみに金剛寺は県内の花の寺に数えられ、春になると美しいしだれ桜が楽しめます。
”茨城の寺”によると山号は正徳山ですが、境内でいただいた御札には石城寺と同じ功徳山となっています。
駐車場
ふだんはすぐ近くの白山神社の前に駐車できますが、文化財公開の日は案内所のテントがありますので、少し離れた場所に臨時駐車場を用意してくださいます。
パンフレットから引用しますのでご参考に。
徒歩5分ほどですね。看板にしたがい細い道を進むと神社と収蔵庫が見えてきます。
弥勒堂
白山神社の駐車スペースから緩やかな坂を登っていくと正面に収蔵庫を兼ねた弥勒堂が見えてきます。この日は地域の方々がお茶などを用意して参拝者を迎えてくださいました。
国指定重要文化財の認定は昭和25年(1950年)。それから23年後の昭和48年に文化庁の指導によって弥勒堂が建立されました。文化財保護のため収蔵庫の要件を満たして再建されたのでしょう。かつての弥勒堂は五間四面とのことなので、いまよりずっと大きかったようです。
安置されているのは弥勒菩薩ではなく弥勒如来です。文化財として登録されている名称にも「菩薩」とはありませんよね。
菩薩は修行中の身でさとりを開くと如来(仏)となります。弥勒菩薩は釈迦の入滅後、56億7000万年後にこの世に現れるといわれる未来の仏。一般的には菩薩と呼ばれるのでなにか特別な理由があるのかもしれません。
寛延3年(1750年)の社寺役所への届け出には”弥勒菩薩”とあり誤解されていたことがわかります。
木造弥勒仏立像(国指定重要文化財)
弥勒仏の写真撮影は禁止ですが、文化財公開でスタンプを集めていただけるポストカードにお姿があるのでご紹介します。
宝治元年(1247年)の作。運慶の流れと考えられていますが、作者は不明です。
笠間六体仏のいずれにもいえることですが、なめらかな質感で人の大きさに近いので生きているようです。弥勒仏はお顔が黒いせいかビシッと引き締まって見えますね。
弥勒仏の大きさは175.2cmです。じつは願主の時朝の身長と同じ。右足のでっぱりにそのように書かれているんです。
同じ大きさにすることで弥勒仏を拝むとき、一緒に時朝も拝むように考えられているそう。さすが初代笠間藩主の発想は違う。。
胎内には時朝の願文が納められており、現世安穏、後世菩提のために寄進したと書かれています。
お参りを終えて参拝の名簿に記名すると御札をいただけました。御朱印代わりですね。前回まで無かったのでお気遣いに感謝です。
wata
アクセス
名称 | 功徳山 弥勒教会 |
---|---|
住所 | 茨城県笠間市石寺464 |
駐車場 | あり |
まとめ
この記事のまとめ
- 石城寺は明治で廃寺。弥勒教会は石城寺の信仰とご本尊を引き継ぐ組織
- 弥勒教会の弥勒仏は国重文。年に最大2回拝観できる
参考文献
茨城の寺(一)/今瀬文也
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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