【謎の御祭神】羽鳥の歌姫神社|桜川市【大同松伝説】

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

とある界隈で大人気の歌姫神社。桜川市の羽鳥に鎮座しており、社号の読み方は「うたひめ」ではなく「うたづめ」。そんな難しい読み方も魅力のひとつです。

絶景の地や御朱印があるわけでもないのに注目されるのは、そのミステリアスな伝承や由緒のせいかと思います。要点を整理しましたので参拝や謎解きの参考なれば幸いです。ぜひご覧ください!

この記事でわかること

  • 歌姫神社の御祭神について
  • 周辺の住吉神について
  • 民話「羽鳥の大同松」
歌姫神社
歌姫神社

歌姫神社は県内の神社を一覧できる『茨城県神社誌』に掲載されていません。無格社ですらないため、個人や特定の家によって崇敬された神社と考えられます。

御祭神は不詳ですが、坂東資料館が発行した『飯沼廻りの天神信仰』によれば、住吉明神菅原道真の二柱です。住吉明神は扁額のみが残されており、かつては歌姫とは別に社殿があったと思われます。

「歌」については道真に由来するという説があります。当地羽鳥と道真の関係は、大生郷天満宮の社伝にあるところ。なんでも道真の死後に三男景行が当地を訪れ、父の遺骨を埋葬したといいます。

埋葬の際は羽鳥の豪族であった源護と平良兼らと一緒であったとか。それが後年になって現在の大生郷天満宮の地へ遷され、今では御廟天神として祀られているわけです。

たしかに羽鳥には羽鳥天神塚古墳があって、そこに道真が埋葬されたとする伝承があります。天神塚の小祠が常総市の方を向いているのは大生郷との関係とか。一説によれば塚には埋葬されず歌姫神社の境内だったともいわれます。

また、神社のある地域は古代に嬥歌かがいが行われたともいわれます。嬥歌は男女が互いに歌を贈り合ったり交わる場と考えられています。平安時代にあった歌会とは色々と違っているようですね。

以上のようにわたしの知るところでは、歌姫神社は道真と嬥歌に関係しています。ただ、最近では江戸時代に発見された『ホツマツタヱ』にある縁の地として訪れる方も少なくないようです。はてさて。

アクセス

名称歌姫神社(歌姫明神)
住所茨城県桜川市羽鳥
駐車場なし
Webサイトなし

鳥居

鳥居
鳥居

神社は個人宅に隣接しているので、ちょっと離れたところに車を止めて敷地の端を取って参拝。でも本当は神社の境内も個人の敷地にあたると思います。

それというのは、当社を取り上げている『日本のルーツ筑波山』で次のように説明されているからです。

その歌姫神社だが、太古から羽鳥の泉家が個人で管理してきた。泉家は羽鳥に最初に住んだ一族と伝えられる草分けの家柄になる。最大四千年は湖ると予想できる。付け加えるならば、ワカヒメも祀られている長野県伊那の阿智神社は、同時期創建で今日までその家系が続いている。

日本のルーツ筑波山 P16

ふたつめの文章がびっくりするような内容なのは、超古代に成立したといわれる『ホツマツタヱ』を分析しているためです。歌姫神社が「ワカヒメ」生誕の地とする見方があるようですね。

今回はこれ以上「ホツマ」については触れません。ただ、『日本のルーツ筑波山』には他では聞けない当社の周辺情報がインタビュー含めてあるので興味深いですよ。

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明神は霊験あらたかな神様に対する尊称です。尊称に決まりはないので「大明神」もよく目にするのですが、その場合は大抵ある程度の規模の社殿を有しています。

お地蔵さまと供養塔

お地蔵さま
お地蔵さま

鳥居の左に立っているのは歌姫!?いえいえ、こちらは地蔵菩薩像かと思います。丸い頭に袈裟風の衣装、それに大きな耳たぶが特徴です。参拝者の方々は神社のつもりなのであまりこれには言及されていないようですね。

墓石
墓石

鳥居をくぐって数歩進んだ右手には墓石か供養塔らしき石造があります。はっきり文字が読めないのですが、一番右のものには「大阿闍梨」「法印「塔」の文字が彫られています。種字は「ア」ですね。

一番左はお寺のご住職の墓石とされることが多い無縫塔。おそらくこれらは当地で崇敬を集めた僧侶などを供養するものと思われます。ただ、個人の敷地ということはそのご先祖様と考えるのが自然でしょうか。

参道

参道
参道

このときの参道は桜並木の花びらに覆われているようでした。なんだか歩くのが申し訳ない。当社の古めの写真を見ると鬱蒼としていることが多いので、近年整備されているのではないでしょうか。

社殿

社殿
社殿

歌姫神社の社殿です。正確には覆屋にあたるでしょう。この建物の中に社殿が鎮座しています。

ところで、一見して小規模な歌姫神社はかつてはまったく違ったともいわれます。今のようになったのは戦後の不審火によるところだとか。それまでは拝殿と本殿が別にあり、別宮や渡り廊下などもあったのだとか。

正面の彫物
正面の彫物

正面の彫物は左右に左大臣と右大臣、中央の扉上部には松と鳥が見えます。扉下部にも何か彫られているようですが、残念ながら判別できませんでした。

覆屋にこれほどの彫物があることは極めて稀なことです。ふつうは社殿自体を装飾してしまいますから。すでに社殿が建てられていたから、こうした形で荘厳にしたのでしょうか。

一般的に左大臣と右大臣は随神として神門に飾られます。明治の神仏分離によって仁王像から置き換えられることが少なくありませんでしたから、この彫物によって本殿を霊的に守護する意図もあったのではないでしょうか。

本殿
本殿

こちらが本殿(流造)です。彫物は一切なく脇障子部は抜けています。かなり簡素な造りなのは前述の火災によって建て替えたせいでしょう。

住吉明神の扁額
住吉明神の扁額

覆屋を隈なく覗いていると「住吉明神」の扁額を発見しました。極端に古いわけでもなさそうです。住吉神社は住吉三神を祀る神社として非常に有名ですが、茨城でその名を目にする機会は僅かです。

有名どころといえば結城七社に数えられる住吉大明神と東海村の旧村社でしょうか。東国三社の息栖神社でも御祭神としていますが、相殿の配祀神としてです。

それではこの住吉明神は一体どこからやってきたのか。結論は出せませんが、どうもこの辺りでは住吉を土着の信仰としており、珍しくはなかったようです。

たとえば、羽鳥の八坂神社(旧村社)は明治期に近隣の住吉神社を合祀したと『茨城県神社誌』が伝えています。村社に合併したということは、個人的な信仰とは違うのでしょう。

また、北の久原(旧岩瀬町)に鎮座する住吉四所神社(旧村社)の存在も気になります。同じ住吉というのもさることながら、同社の西側を流れているのは「泉川」。「泉」はどこかで…

同四所神社は鴨鳥五所神社(旧岩瀬町大泉)の兼務社で五所神社の境内社にも「住吉四所神社」があります。五所神社は建仁2年(1202年)に結城朝光によって現在地に遷座されましたから、羽鳥や久原の住吉は結城氏に起源があるのかもしれませんね。時系列的には結城七社よりも結城氏と五所神社の関係のほうが古いです。

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「歌姫」とはだれか、住吉明神の信仰はどこからやってきたのか。この2つが歌姫神社の大いなる謎ですね!

民話「羽鳥の大同松」

『真壁町の昔ばなし』の大同松の写真
『真壁町の昔ばなし』の大同松の写真

歌姫神社を語るうえで見逃せないのが、民話「羽鳥の大同松」です。わたしは見たことがないのですが、『真壁町の昔ばなし』(著:仲田安夫)に写真があるので実在は間違いないと思います。(現存かは不明)

同書から松に関する箇所を抜粋します。

つくば市筑波町上大島から真壁町に入る。

真壁側からの登山道を右手に見ながら進むことしばし、左側の田んぼの中に枝ぶりのいい大きな松がみえる。

このあたりは、旧紫尾村羽鳥で細い道を行くこと五分間の距離、これが世にいう羽鳥の大同松である。

平城天皇(五十一代)の政治、大同年間というから、約千百八十年ほど昔のことである。

羽鳥の人達が、筑波山男女二神と崇め、それを象って木瓜寺(じどみでら)の境内に、二本の松の木を植えた。 一本は男松、そして他の一本を女松、この二本を大同松と呼んだ。

その幹は途中から二つに分かれ、左右それぞれに枝を広げ葉を繁らせていた。

これは、昔、筑波山にあった雌雄二本の松が、山崩れで押し流れ、男女抱き合う形で今の地で成長したといわれる。

昔、この松は、男女川の南側に雄松、北側に雌松と別々に植えられていたが、はげしい川の氾濫で押し流れた。

しかし、雌雄の松は、抱き合いながら流されてきた。その後も、はなれようともせず、 一本の松となって成長した。

ところが、不思議なことに、大同松近くを夜中に女の人が一人で通ったりすると誰れかが、サッサッサッと先に立って歩いて、「さあ―、こっちへおいで、こっちへおいで」と呼ぶという。

また、大同松の根元のまわりを右まわりに三回まわると、枝分かれした所に美しいお姫様が現われたとも言い伝えられている。羽鳥には歌姫(うたずめ)神社がある。

真壁町の昔ばなし P50-51

このあとに歌姫神社の鎮座する場所が歌姫山と呼ばれ、嬥歌の地であったと続きます。つまり、羽鳥には筑波山ゆかりの松があり、同じように嬥歌が催されたのではないか、と論じているのです。

筑波山、嬥歌、松のキーワードからは『常陸国風土記』の「うないの松原伝説」を連想します。嬥歌で出会った男女が夜通し語り合い、朝になって誤解される恥ずかしさのあまり松になったというお話です。

この松原伝説は、もしかすると歌姫神社の「うたづめ」を説明するかもしれません。

風土記の男女は男性を「那賀なか寒田さむた郎子いらつこ」、女性を「海上うなかみ安是あぜ嬢女いらつめ」といいます。本名ではなく土地などの属性を名前のように用いているのでしょう。

「いらつめ」の「いら」は前の部分(土地)で出生したことを意味し、「つ」は連体助詞で「〜の」、「め」は女性です。これで「うたづめ」を現代語に直訳すれば「うたの女性」となります。

そのままだと意味不明なので、これを自然に解釈するならば、「うたう」というよりも「うたわれた」女性であって、なにか古い歌や物語に登場する女性を指すのではないでしょうか。

ちなみに前述の郎子は嬢女に対して次のような歌を詠んでいます。

いやぜるの 安是あぜ小松こまつに 木綿垂ゆふしでて ゆも 安是子あぜこはも
海上うなかみの安是のおとめが、手に持った安是あぜの小松に木綿ゆうをかけ垂らして、私に向って振りながら舞っているのが見える。まるで私の魂をゆり動かそうとするかのように)

常陸国風土記 全訳中 P127

嬢女もうたわれた女性でした。松原伝説と大同松伝説はふしぎと通じることが多くて面白いですね。

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羽鳥の大同松の民話は土地の人々がかがいの女性に特別な思いがあってこそ語り継がれたはずなので、同地の歌姫神社と通じるものがあると思うのです。

まとめ

・歌姫神社は羽鳥に鎮座する神秘的な神社。ご祭神は不詳

・境内には仏像や住職の墓石と思われる石造がある

・羽鳥には歌姫と関係があるかもしれない「大同松」の民話がある

参考文献

日本のルーツ 筑波山|いいのみち
真壁町の昔ばなし|仲田安夫
茨城県神社誌|茨城県神社庁