【常陸国風土記】仲哀天皇創祀!伝説の井上神社|行方市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

『常陸国風土記』に最も多く記述されているのは、行方郡についてです。同書は『古事記』『日本書紀』に並ぶ日本最古級の文献ですから、行方にお住まいの方はなんとなく誇らしいのではないでしょうか。

少なく見積もっても1300年ほどの歴史を持つ行方の地には、今も風土記に関するいくつも残っています。しかもその多くは神秘的な内容です。じつ興味深いことだと思いませんか。

伝承のすべてが事実とは限りませんが、すべてが嘘ともいえません。真実はその中間にあって、それがどんなものかを現地で考察できるのは幸福なことだと思います。

今回は風土記に由来する井上の地に鎮座する井上神社をご紹介します。どこまでが本当でどこから創作なのか。そして創作の背景には何があったのか。ぜひ楽しみながら考えてみてください!

この記事でわかること

  • 井上神社の由緒(合併含む)
  • 市指定文化財の本殿
  • 謎の石造と山岳信仰の跡
井上神社
井上神社

由緒

以下の由緒は『茨城県神社誌』を参考としています。

不詳
創建

仲哀天皇により創祀。武神としてまた安産の神として信仰されてきたという。

大同年間/806-810年
坂上田村麻呂参向

蝦夷討伐のために立ち寄り大任遂行と武運長久を祈願。報賽のために寄進もしたという(行方郡記後世鑑第一巻)。

永禄3年/1560年
寄進

下河辺淡路守、免租および寄進等があったが、戦国騒乱のため雲散し無禄となった。

明治6年/1873年
村社列格
明治44年/1911年
合併

井上神社に八幡神社および永井戸神社を合併。境内および社殿は八幡神社のものとした。
八幡神社は建保元年に下河辺安房守によって勧請創祀。代々同氏の氏神として崇敬された。徳川時代に朱印地十石と山林十余町歩を賜る。

大正2年/1913年
社殿移転および造営

後宮の社殿を移転して屋根を銅板に葺き替え。さらに拝殿と附属設備を新築。
松・杉・樟・椎などの大樹に囲まれた境内を整備し、神明鳥居を建立。

昭和27年/1952年
宗教法人設立
昭和15年/1940年
社号標建立

平成7年/1995年
本殿の屋根応急修理

*境内石碑より

平成16年/2004年
本殿の修繕完工

*境内石碑より

境内の比較的新しい掲示板によれば、ご祭神は彦火火出見ひこほほでみ鵜葺草葺不合うがやふきあえず。それに誉田別ほむたわけ倉稲魂うかのみたまが合祀されています。なお、古い社伝だと鵜葺草葺不合尊は含まれていません。

「ヒコホホデミ」はニニギの子で山幸彦とも呼ばれます。一方で神武天皇の異称でもあるので、どんな神様なのか分かりにくい。ウガヤフキアエズは山幸彦の子であり、神武天皇の父。やっぱり分かりにくい。

しかし当社が水と関係することを考えれば、水神の娘と結婚したニニギの子とするほうが妥当に思います。神武天皇であればせめて即位前の名称である「イワレビコ(磐余彦)」ではないでしょうか。

由緒を整理すると、仲哀天皇の創祀とされる井上神社と下河辺氏の氏神である八幡神社(+永井戸神社)が合併して現在の井上神社が誕生しました。ただし、境内と本殿は旧八幡神社のもの。ちょっとややこしい。

合併の要因には明治政府の神社政策がありました。小さな神社や祠などを大きな方に移し、管理しやすくしていったわけです。南方熊楠のように激しく批判する人が多くいた政策ですね。

社号の「井上」は『常陸国風土記』にある倭武やまとたけるの天皇の説話に由来するといわれています。現代語訳すると次のようになります。

行方の郡と称するいわれは、(昔)倭武の天皇の天皇が天下を巡幸され、海の北、すなわち今の常陸の地を平定された時、この(行方の)地をお通りになった。その時、わざわざ槻野の清水にまで足をお運びになり、水に近寄って手をお洗いになった時、お持ちになっていた王を井戸の中にお落としになった。(その井戸は)今もなお行方の里の中にあって、玉清の井と称している。

常陸国風土記 全訳中 P58|秋本 吉徳

「玉清の井」は市内の井上の地に現存するので、旧井上神社はそちらのほうにあったのかもしれませんね。

また、当社は文化財にこそ指定されていないものの、非常に多くの社宝があるようです。朱印状の記述を見ると興味深いことも見えてくるので後ほどご紹介させていただきます。

文化財一覧

昭和50年(1975年) 本殿(市指定文化財)

wata

当地の領主であった井上氏は小高氏(常陸大掾氏)の支族。しかし小田氏に滅ぼされました。当社に源氏に由緒が多いのは近いのはそのせいでしょうか。

源頼朝が当社を「大宮」と尊称したという伝承があります。現代でも「大宮大明神」と呼ばれます。

アクセス

名称井上神社
住所茨城県行方市井上1725
駐車場あり
Webサイトなし

鳥居と駐車場

駐車場は境内南東
駐車場は境内南東

井上神社には一見すると駐車場がないのですが、道路を挟んだ向かい側に広い駐車場があります。 北から南に向かっていると分からないので上の写真をご参考にしてください。

50年前の井上神社
50年前の井上神社

参考までに『茨城県神社誌』にある50年ほど前の写真をご紹介します。今と昔を比較するとかなり開発されたことが分かります。でも神社の面影はかなり残していると言えるのではないでしょうか。

神明式の鳥居の先は薄暗くて鎮守の森の雰囲気が漂っております。周辺はだいぶ整備されましたが、こうして昔ながらの姿を維持している部分も垣間見れるのはいいですね。

祭神に「鵜葺草葺不合命」なし
祭神に「鵜葺草葺不合命」なし

鳥居のそばにあった立札です。ご覧の通り「鵜葺草葺不合命」の名は見えません。いつからどのような経緯で加えられたのか気になるところです。

参道

当社の担当は非常に面白いと思います。本当は少し引いた場所で撮影すれば良かったのですが、 参道の左右にはそれぞれ手水舎があるのです。

明らかに余分っ!しかし もともと2つの神社を合併してできたのですから、 それぞれの手水舎があるのはさほどおかしなことではないと思います。年代までは分かりませんが、合併以前の江戸時代まで遡るのでしょう。

そうした理由で狛犬も2セットあるのでしょう。手前は手水舎と近すぎます。これは何か失敗してしまったような気がします…記念碑も左右に並べるスタイル!ありそうでなかったこの境内。

拝殿

拝殿
拝殿

拝殿は一般的な入母屋造り。大棟には左三つ巴の神紋が見えます。ただし、『茨城県神社誌』によると、当社の神紋は菊花となっています。皇室にも通じるこの神紋は御祭神に関係するのでしょう。

向拝正面の蟇股
向拝正面の蟇股

拝殿自体は比較的新しいものです。それに以前あった彫刻を所々あしらっているようです。色が変わっているので まさに明白。正面の蟇股には鶴らしき彫刻が見えます。

屋根にでも付ける予定だったと思われるこちらの彫刻は全部で4種類。四神獣かと思いきや、どうも違うようですね。龍、亀は確実ですが、あとの2つは鶴のようです。

でもこれって本当に龍?河童と合体したようなビジュアルなので違っているかも。「今後ともよろしく」と言っているような気がします。

真っ赤な海老虹梁
真っ赤な海老虹梁

真っ赤な海老虹梁と手挟。拝殿は落ち着いた色合いなのにここだけド派手。なかなかユニークなセンスです。赤い 社殿といえば稲荷神社と天満宮、それに八幡神社でしょうか。当社の御祭神と重なる部分がありますね。

本殿

本殿
本殿

本殿(旧八幡神社)は市指定の文化財となっています。 屋根は前方が少し伸びている流造り。男千木で鰹木は五本。大棟や鰹木の先端に見える神紋は菊花。こちらが神社本来の紋ですね。

西側の懸魚周り
西側の懸魚周り

片方はちょっと欠けてしまっているのですが、もう片方の懸魚(妻飾り)周りはこのように豪華。牡丹だと思われる立派な降り懸魚で空いたスペースを彩っています。

そして懸魚の裏側にはこっそりと亀がいたりして。その左右には波が描かれ、大魚が飛び跳ねているようです。社殿の彫刻は炎上を避ける願いから水(雲含む)がよく描かれるといわれています。

脇障子もしっかり装飾されています。向かって左は「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」の故事でしょうか。この場合はライオンではなく、空想上の動物としての獅子かと思います。

向かって右はさしはを持った若い女性と鳥のようです。鳥は頭の部分が曖昧。もしかしたら欠けてしまっているかも。社殿彫刻ではあまり女性を見ないのでけっこうレアかもしれませんね。

美しい装飾が全体に施され、それがよく残っています。修繕もうまく行っていますね。時間が経つほどより統一感が出ると思います。これはぜひ現地で見ていただきたい文化財です!

山岳信仰の跡

境内の石祠
境内の石祠

当社を語る上で欠かせないのは、 境内の石祠・石仏です。主に社殿に向かう参道の左手と社殿周辺にまとまっています。旧八幡神社の境内なので、その多くは同社の信仰と関係するのでしょう。

密教と山岳信仰の石祠
密教と山岳信仰の石祠

写真は左から「不動尊」「石尊宮」「富士山」です。お不動様は密教の信仰です。石尊と富士山は山岳信仰の後を想像させます。 これらは山伏や修験道の存在があったことが考えられます。

山岳信仰に関する石祠は非常に多くて「尾鑿」「琴平神社」「愛宕大権現」なども発見しました。『茨城県神社誌』によると八幡神社は「宇佐八幡」とも書かれています。

謎の武士造
謎の武士造

そして特に気になるのがこちらの石造。 一瞬、「お不動?」と思いましたが、服装が明らかに異なります。 羽織に刀、それに足を崩しているように見えます。不動明王と思えるのは顔だけなのです。

享保十七年といえば「享保の大飢饉」のあった年。その年になにを思ってこの像を建立したのでしょうか。「奉待」は主君に仕えることを意味するのでしょうが、その主君とは?武士なのでしょうか。

謎が謎呼ぶこの石造についてご存じの方がいらしたらぜひ教えていただきたいですね。残念ながら倒れた状態で発見しました。移動されてきた可能性は高いと思います。

朱印状

『茨城県神社誌』に面白い記述があったのでご紹介します。以下は「朱印状」の項目にありました。

大猷院 慶長元年八月十七日 家光
常憲院 貞享二年六月十一日 綱吉
有徳院 享保二年七月十一日 吉宗
惇信院 延享四年八月十一日 家重
浚明院 宝暦十年八月十一日 家治
文恭院 天明八年九月十一日 家斉
慎徳院 天保十年九月十一日 家慶
温恭院 安政二年九月十一日 家定
    万延元年九月十一日 家茂

当社は由緒のところに書いた通り、合併した八幡神社が将軍から朱印地を賜っています(十石)。 その始まりは三代将軍家光からなので、上の記述は歴代将軍がそれを認めたものなのでしょう。

日付と将軍の名前はわかるとして、その上の◯◯院はどういう意味でしょうか。 毎回違っているので、寺院の院号とは考えられません。おそらくは八幡神社で奉仕していた(里)修験なのでしょう。

八幡神社は神社の中でも特に神仏習合が色濃いことで知られています。境内には不動明王の石祠がありましたし、密教を取り入れた信仰があったと見て間違いないと思います。井上寺(廃寺)に属した方々かもしれませんね。

他にも八幡神社に関する古文書は数多く保有しているようです。もし何か機会があればこれらを公開していただけると嬉しいです。ぜひ県北で盛んな集中曝涼を行方でも!

「慶長」は関ヶ原の合戦や徳川家康が征夷大将軍になったときの元号なので、家光が「慶長」に朱印地を与えたというのは誤記で「慶安」が正しいと思われます。

境内社

『茨城県神社誌』記載の境内社です。実際の石祠の社号とは違うところもあるので参考程度にしてください。

  • 愛宕神社 加具土命
  • 稲荷神社 倉稲魂命
  • 淡島神社 藤原鎌足
  • 榊神社 木花開耶姫
  • 天満神社 菅原道真
  • 琴平神社 大物主神
  • 道祖神、石尊宮など十五社

まとめ

・井上神社は『常陸国風土記』に由来する古社
・現在の井上神社は同地にあった八幡神社・永井戸神社と合併した
・境内には山岳信仰を思わせる石祠が数多く残っている。朱印状もそれを示唆する

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社