wata
- 由緒とご本尊
- 境内の地蔵尊について
- 御朱印のいただき方
真言宗の宗派といえば豊山派や智山派をよく目にするかと思います。高野山真言宗と聞くとどのお寺かぱっと思いつかないのではないでしょうか。茨城には12〜13くらいしかないみたいですよ。
今回はそんな高野山真言宗に属する茨城町の真照寺をご紹介いたします。ネット上にあまり情報がありませんので、ご参拝の参考になれば幸いです。
真照寺とは
由緒
※『茨城町史 通史編』、『茨城の寺(三)』による
※『茨城の寺(三)』による
※『茨城の寺(三)』による
※『茨城の寺(三)』による
宗派としてのご本尊は大日如来ですが、別に十一面観音菩薩を本尊としています。大日如来は常に本堂に安置されており、観音像は秘仏として毎年12月22日のみ御開帳されます。
観音像は小栗判官の妻である照手姫の守護仏であったものが、安産子育ての仏として当寺に伝わったのだとか。興味深いことに茨城町は小栗判官の終焉の地といわれ、同町の円福寺にも判官にまつわる伝説があります。
同寺では小栗堂を建立して祭りまで催していますが、小栗判官は基本的には浄瑠璃などの世界で知られる伝説上の存在です。茨城では現在の筑西市にゆかりがある人物として紹介されることが多いですね。
茨城町にも小栗判官の伝説があることはあまり知られていないのではないでしょうか。浄瑠璃とは別の展開もあるようなので、いずれ改めて調べてみたいものです。
当寺はたびたびの火災により寺伝がほぼ残っていないようです。ただ、江戸時代に当寺が石高30石を誇ったのはたしか。末寺5か寺に門徒16か寺、七堂伽藍が揃っていたといいますから、かなり有力だったのでしょう。
『茨城の地名』には次のような末寺が記されていました。5か寺以上あるので門徒と混ざっているか、江戸期に入れ替わりがあったと思われます。
- 観音寺(網掛村)…明治に廃寺
- 常光院(宮ケ崎村)…現存。朱印地5石
- 長寿院(城之内村)…明治に廃寺
- 金龍院(神谷村)…現存
- 竜含院(鳥羽田村)…廃寺
- 福蔵院(駒渡村)…廃寺
- 福智院(栗崎村)…廃寺
- 東光院(川又村)…廃寺
- 観音寺(下飯沼村)…廃寺
アクセス
最寄りICは常磐道の茨城町西IC。下りてから約10分です。道は比較的シンプルですが、県道16号はちょっと狭め。ただ、道は平坦でICから遠くないので参拝に苦労することはないでしょう。
駐車場は寺号標の先にあります。整備された広い駐車となっておりますので、参拝に困ることはないでしょう。
名称 | 神宿山 本覚院 真照寺 |
---|---|
住所 | 茨城県茨城町神宿432 |
駐車場 | あり |
山門
県道16号から細い道を通って真照寺へ。目印となるのはこちらの寺号標。じつは初見では宗派だと認識できませんでした。茨城県内ではとても珍しいですよね。
充分な広さの駐車場を利用させていただきまして、いざ参拝。参道の周辺は参拝しやすいように手が加えられていますが、参道自体は並木によって昔ながらの雰囲気が保たれているようでした。秋なればきっと紅葉が美しいことでしょう。
山門は見るからに新しく、境内の石碑によれば昭和60年の建立です。向かって左の脚に「神宿山 真照寺」、右に「高野山 真言宗」とありました。
向かって右というのは、南面する君子(この場合は本尊)から見て左。左は陰陽説でいうところの陽であり「尊い」。右大臣、左大臣や着物の左前のように左を優位とするのは日本の慣習なので、この並びも同様でしょうか。
わずかに残る当寺の寺伝によると創建は恵信で中興が宥範です。恵信とはおそらく天台僧の恵心僧都(源信)、宥範は三宝院系の僧侶なので、天台宗にはじまり真言宗醍醐派、それから同宗の豊山派、高野山真言宗へと渡ったかと思います。そうした経緯のためかつての末寺は真言宗豊山派となっています。
高野山真言宗となった正確な時期はわかりませんが、昭和54年(1979年)には高野山真言宗の記念法要を催しているのでその頃なのでしょう。
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地蔵尊
山門の先はよくお手入れされた参道が続きます。お寺には山号がつきものですが、すべてにお寺が山にあるわけではありません。しかし、仏尊を祀る場所に山の要素は必要ですから、自然と調和した境内であることは個人的には重要だと思うのです。
すぐに右手に見えるのは地蔵尊です。丸くなってちょっとわかりにくいですけどね。
この地蔵尊は今からちょうど300年ほど前の享保7年(1722年)に村人によって建てられました。当時は飢饉が発生した時期で、さらに疫病の流行まで重り地蔵信仰が強まったようです。地蔵菩薩は死後の世界に渡った人々を救済するといいますから、亡くなった方々の供養もあったのかもしれません。
地蔵菩薩が左手に持つのはおそらく宝珠。後ほど改めてご紹介しますが、「宝来」と同じ意味を持つ大地のシンボルです。大地は植物の生育に必要不可欠であり、「地」蔵菩薩の力をあらわすものでもあるのでしょう。
ところで、五行説という古い考え方によれば地=土気。地蔵菩薩の気(土気)を生じさせるためには火気が必要でその色は赤。お地蔵様に赤い布をまとわせるのはそのような今は忘れ去られた哲学によるのではないでしょうか。
位牌堂
地蔵尊お隣にあるのは位牌堂。見た目からすると比較的近年に建てられたようです。おそらく古い位牌はこちらにまとめて安置されているのでしょう。
関係するか不明ですが、『茨城の寺(三)』には次のような記述がありました。
また松川大学頭よりは黒印地(大名が社寺などに所領を確認した土地、黒印状を下付)として三十石を与えて、松川家の菩提所としていた。
茨城の寺(三)|今瀬文也
松川家というのがいまひとつわからないのですが、守山藩の松平家と関係あるのでしょうか。江戸時代、当地神宿村は守山藩に属していました。同藩は明治初期に藩庁を守山から常陸国の松川に移して松川藩となっています。
松川藩の領主は松平家で松平大学頭を称していますので、松川家は松平家の誤記なのかなと思いましたがいかがでしょう。
本堂
たいへん立派な本堂です。古いお堂を修繕しており、堂内は非常にきれい。たまたまいらっしゃった副住職にお招きいただき堂内でお参りいたしました。
扁額の脇には狛犬らしき画が見えます。両者はにらみ合っているようにもじゃれ合っているようにも見えて不思議な印象です。こうしたスタイルの彫刻は初めて見たかもしれません。
大棟には葵紋が見えます。徳川家の家紋を意味するかと思いますが、当寺の場合は茨城でおなじみの水戸徳川家よりも将軍家から朱印地を賜っていた関係を示しているのでしょう。三十石はふつうじゃありません。
堂内はこのようになっておりました。遠くの正面にあるのは大日如来像。写真には写っていませんが、如来像の向かって左側に不動明王、右側に弘法大師像が安置されています。
お不動さまは数百年に前の作にもかかわらず大変美しい姿をしておりました。ご本尊の十一面観音もそうですが、たびたびの火災で運良く避難できたのでしょう。そういう意味ではむしろ火除のご利益があるのかもしれませんね。
『茨城町史 通史編』によると、ご本尊の十一面観音には応永30年(1423年)の銘があって、もとは廃寺となった地福院のものだとか。約600年前の仏像がきれいなお姿で今に伝わるとはなんともありがたいことですね。
吉祥宝来
堂内のお写真も数枚撮らせていただきました。掛軸の上にある切り絵にどのような意味があるかご存知でしょうか。これには吉祥宝来という名前があります。
当寺は高野山真言宗に属するわけですが、高野山は高地にあるため平地と違って農作業が簡単ではありません。米も作れず藁が調達できないことから聖域を生み出すしめ縄も作れないのです。
そこでこのように紙に思いを込めてしめ縄の代わりにしたのだとか。描かれているのは宝来にはさまざまな意味がありますが、そのひとつに大地の力と豊かさをあらわすシンボルという説があります。
由来からすると真言宗特有のようですが、利用しているお寺はすべてではありません。また、その性質上屋外で見ることはなく、このように建物内でないと見ることはないかと思います。
わたしが知る限りは修善院(小美玉市)や西光院(茨城町)などですね。当寺の場合も昔からずっとというわけではなく、今から約15年ほど前から提げているとのことでした。
吉祥宝来は宝珠のほか干支を象る場合もあります。目に入ればきっとすぐに分かるはずなので、もし真言宗のお寺の建物に入る場合には気にしてみてください♪
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御朱印
真照寺の御朱印です。わたしはたまたま堂内にいらっしゃった副住職にいただきましたが、ふだんは本堂左手の庫裏からお声掛けするかと思います。
さいきんはこうして御朱印をいただきに来る方が増えたとのこと。お忙しい中でわたしのような者に対応するのは大変かと思いますが、ご丁寧にしていただき大変感謝です。
まとめ
この記事のまとめ
- ご本尊は十一面観音。真言宗と化したのは戦国期か
- 地蔵尊は享保期の飢饉の際に建てられたという
- 御朱印は本堂向かって左手の庫裏で声をかけていただける
参考文献
茨城町史 通史編/茨城町史編さん委員会
茨城の寺(三)/今瀬文也
茨城県の地名/編:平凡社
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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