wata
- 由緒とご祭神
- 月待信仰
- 御朱印のいただき方
前回と前々回は星に関する寺社を紹介しました。北極星の神格化といわれる天之御中主神を祀る星宮神社、同じく北極星あるいは北斗七星の神格化といわれる妙見菩薩を祀る北斗寺。
昔の人も今と同じように夜空を眺めては不思議を感じていたでしょうから時代を超越した信仰なのでしょう。
今回は星にまつわる寺社の第三弾としてつくば市の樋の沢に鎮座する月読神社をご紹介します。有名だけどご祭神としては珍しい月読命をお祀りしていますよ!
月読神社とは
由緒
ご祭神は月読命です。『古事記』『日本書紀』ではイザナギの禊により生じました。姉にアマテラス、弟にスサノヲがおり、名前のとおり夜の国を治める月の神とされています。当社では開運の神なのだとか。
一般的な神社と違い崇敬者は三夜講を結び、毎月23日(旧暦)に集まって月の出を見てから家内安全などを祈願します。そのため例祭は毎月23日と特殊。江戸期に流行した月待講が続いているんですね。
明治以前は「三夜さま」として親しまれる二十三夜尊でした。詳しい由緒は不明ですが、現在のように神道に属すようになったのは明治初期の神仏分離政策によるもので、それ以前の信仰が現在と同一であるかは不明です。
二十三夜尊は民間信仰の「月待」における尊称なので神道や仏教とは根本的には異なります。ただ、月待の本尊のほとんどは仏尊なのでどちらかといえば仏教寄り。しかし、当社の場合は月読命を祀るのでなんとも複雑ですね。
なお、上記の由緒は昭和48年に発行された『茨城県神社誌』を参考にしました。ネット上ではもう少し詳しい情報が出回っていますが、それらは大正5年の『稲敷郡誌』に由来するようです。
wata
アクセス
圏央道のつくば牛久ICを下りてから約2分。県道202号沿いに鎮座しています。
鳥居の手前に若干の駐車スペースがあります。祭事でなければほぼ確実に駐車できるかと思います。
名称 | 月読神社 |
---|---|
住所 | 茨城県つくば市樋の沢206 |
駐車場 | あり |
祭祀 | 1月23日…初三夜 11月23日…霜月三夜 毎月23日…例祭 |
鳥居
道路に面したところにそびえる大鳥居。こうした立地を見ると都市開発の事情で位置を変えたのだろうなぁといつも思います。もとはずっと広かったのでしょう。
当社の鎮座する樋の沢は旧茎崎村。筑波学園都市と牛久市の境界辺りにありまして、「昔、茎崎だったところ」と言われたら、つくばなのか牛久なのか迷うかも。
参道の風景
参道脇には立派な燈籠があるのですが、震災によって一度崩れてしまったようです。これはおそらく基礎と笠と宝珠の部分だけ。火袋、中台、竿が欠けています。
参道の左手にはなんとも不思議な建物。祓殿かな?腰を下ろす場所もありませんし、動きのある儀式を行うように思われます。
石灯籠は寛政12年(1800年)に奉納されました。「永代廿三夜燈」と彫られていますので、二十三夜尊にちなんでことでしょう。
ちなみに崇敬者は省略して「三夜さま」として呼んでいます。尊称を大胆に省略しちゃうのは驚きなのですが、「三」の方に本質があるのかなと思ったり。
まだ若そうな枝垂れ桜を発見。神社よりもお寺で目にすることが多いので少し意外でした。手前の石碑によれば千葉県下岩崎三夜講が平成6年に植樹しました。やはり当社は広い地域で信仰されていたようです。
寺社に枝垂れ桜を植える習慣はだいぶ古いらしく、柳田國男は信州(長野県)に起源があるのではと述べていました。この桜がそうした歴史を意識してのことは不明ですが、立派に育っているのでこの先が楽しみですね。
年季の入った手水舎でお清め。
手水鉢には呪文のように彫り物が。く、暗くてよく読めません。。ただ、満願成就の記念のために奉納されたようです。
拝殿
月読神社といえばこの重厚な拝殿。重厚すぎるのか若干傾いているようにも見えます。社伝によれば天保期の造営なので200年近く前に建てられたことになります。
正面には躍動する龍の彫刻。モチーフ自体はよく目にするものですが、敷き詰められているように彫られていて迫力を感じます。
奉賛者の芳名が並んだ扁額。中央の月読神社の隣には厚生大臣の金光庸夫の署名が見えます。奉納されたのはおそらく「皇紀二千六百三年」(昭和18年)なので職を辞した後のこと。激烈な戦争の最中だったことでしょう。
当時の神社は日本人の心の拠りどころであり戦意高揚の場だったかと思います。扁額にある「大願」の後の字が消えており、なんとも複雑な気持ちになります。
側面の扁額には仏尊らしき画が見えます。蓮の花の上に座し、手にも一輪あるようです。古い時代であれば勢至菩薩、明治以降であれば月読命かと思いますが。。判別できませんでした。「三夜さま」ということなのでしょう。
屋根の懸魚の後ろにはなにやら怪しい物体が。。ここによくあるのが天邪鬼などの鬼の彫刻。苦しい顔をして屋根を支えていたりします。常名神社や東蕗田天満社などの天神さまを祀る社殿で目にすることが多いような。。
肌が赤いので鬼のようですが、Twitterでつぶやいたら大黒や恵比寿などの声もありました。たしかにそのようにも見えますね!
拝殿の向かって右手には三日月の神紋が掲げられた社殿がありました。銅板の屋根が緑に染まっていい感じ。東か東北を向いているようです。扁額がないのでなにをお祀りしているのか不明です。気になる…!
そのお隣にあるのはおそらく金刀比羅神社です。扁額のうっすらとした文字をかろうじて読めました。ご祭神は代表的な山の神である大物主命でしょう。ふつうの配置ではありませんから特別な意図がありそうですね。
本殿
本殿は東南を向いた神明造。千木は外削ぎです。特別な造りではありませんが、面白いのはその周辺。
本殿の真後ろには別に小さな社殿が設けられていました。こちらもご祭神はまったくの不明ですが。。傍に置かれた小さな置物は大黒天なのでご祭神も同様かと思います。月読神社と大黒様はなにか関係があるのでしょうか。あえて想像の翼を広げさせてもらうと、月と大黒天はよく似た性質を持っていると思います。
一般的に大黒天は七福神に数えられる福様とされていますが、日本の大国主命と習合する以前は梵語で「マハーカーラ」といい、「大いなる黒」を意味する危険な存在でした。破壊神シヴァ(大自在天)の夜の姿ともされており、昼の顔同様に破壊と創造を繰り返す最狂神の一面があります。
しかし、破壊と創造という意味では月も欠けては再生の繰り返しですから同じような性質です。しかも月は『論衡』において「月者、水之精也」として五行説の水気があてられています。水気の色は黒。つまり、月もまた「破壊と創造を繰り返す黒」なのです。
大黒天の暗黒面は七福神とされてからはさすがに鳴りを潜めているものの今度は大国主命との関係でネズミに縁があるとされています。ネズミは子であり、十二支のはじめです。はじめは終わりと表裏一体なので、やはりここでも破壊と創造。なんとも不思議な神様ですよね。
御神木のシイと創建の伝説
社殿の西側に位置する御神木のシイ。幹周りが6m、樹齢は700年ともいわれる古木です。畝るような幹周りに力強く伸びる枝。圧巻の存在感です。
ところで、当社の創建には大きく2説あって、ひとつは当ブログの「由緒」で紹介した内容、もうひとつは『稲敷郡誌』で引用された伝説です。要点を以下にまとめます。
- 創建は天慶8年(945年)、神体は平親王の守護神
- 社家の岡野氏は相馬氏の出、当地に移り住み二十三夜尊の別当を務める。本尊は月読大勢至菩薩
- 当社には間宮林蔵の両親が子宝を願った十年後に林蔵を授かった
二十三夜尊として祀る月待信仰は江戸時代に流行したといわれ、文献史料では室町時代のものが最古だそう。だとすると天慶年間の創建は現代に伝わる信仰とは大きく異なるか事実ではありません。
ただ、由緒がすべて創作かといえばそれもまた違うでしょう。社家の岡野氏の出自が相馬氏とあるので古くは妙見信仰があり、それから月待が派生したと考えるのが妥当ではないでしょうか。同氏は旧相馬郡を拠点としており、相馬氏の勢力が衰えたことで当地に渡り信仰にも変化があったのではと思います。
ちなみに相馬氏は千葉氏の庶流です。千葉氏の祖先の平良文は平将門公の叔父にあたり、天慶の乱(平将門の乱)では将門公に親和的な態度だったといわれます。相馬氏に妙見菩薩と将門公を関連させた伝承が多いのもそうした事情でしょう。
なんとなくですが、当社の創建はこのシイの樹勢が知られるようになった頃、すなわち社伝の16世紀後半だと思います。樹齢の見立てがたしかなら、その頃で樹齢300年近く。創建の霊地としてふさわしいと思います。
最後に間宮林蔵の件について、『茎崎町史』が引用した『稲敷郡誌』の該当部分を引用します。
探検者として有名なる間宮倫宗(林蔵)の父を庄兵衛と伝ひ桶工を以て業とす母は森田氏其先は間宮隼人寛永中筑波郡上柳に移り農に帰す庄兵衛常に子なきを憂ひ妻と共に月読神社に祈ること十年遂に一子を挙ぐ之れ倫宗なり
茎崎町史
この時代は月読神社ではなく二十三夜尊かと思いますが。。些細なことでしょう。これを読む限り当社には子宝のご利益があるとされていたようですね。
wata
考察:月待と「三夜さま」
ここから先はわたしの思いつきなのであまりマジメに捉えないでください。文献史料ではよくわからない月待信仰について易や五行を用いて考察します。今回は詳しく説明しないので気になった言葉は別に調べてみてください。
月待信仰を端的に言えば、特定の日の夜空に浮かぶ月を拝して家内安全などを祈願する民間信仰です。講(信仰集団)を結成し、みんなで楽しく夜を明かしたようで江戸期の似た行事として日待や庚申待がありました。
月待、日待、庚申待は多少の違いはあるものの基本的には同じです。ただ、庚申待に関しては、他の2つと違って教義らしきものが存在します。人間の体には三尸の虫が潜んでいて、庚申の夜になるとそれらが飛び出して天帝に宿主の悪事を告げる。すると天帝の怒りにより寿命が縮む、だから眠らない。道教由来ともいわれるやつですね。
民俗学の世界で庚申待は月待から発展したという説があります。だとすれば、こうした庚申待の思想を参考に月待の本質に迫れないでしょうか。気楽に検討してみます。
「庚申」は干支(十干十二支)の庚申のことです。「庚」とは「金の兄」で「陽気(しかも強力)な金気」を意味します。干支に良し悪しはありませんが、このような偏った気はあまり歓迎されない傾向があります。
陽(気)とか金気は陰陽五行説の用語。陽は「陽キャ」のごとく明るくて活発な気、金気は金属の気です。金気には「金剋木」といって生気である木気を剋す(負かす)性質があることから「殺気」とみなされます。宿主の寿命を縮める三尸の虫とは動く殺気(=庚申)を体現したものです。
それでは殺気(金気)を防ぐにはどうしたらいいか。そのひとつは「火剋金」の法則を利用すること。火は金を負かして働きを弱めるのです。五行説では火気を生じさせる行為として「視る」「笑う」がありますので、庚申の日は「寝ない」「楽しむ」となるのだと思います。
月待も似たようなことではないでしょうか。月を拝するといっても昼の月は除外してますから、夜に見るとなれば1ヶ月の後半(14〜29日)となります(13日は例外)。これが何を意味するかと言うと、各月の後半(後=陰)の夜の時間帯(=夜陰)に月(=太陰)を拝む、です。「陰」尽くしですね。
さらにいえば勢至菩薩は阿弥陀如来と観音菩薩と並んで祀られることがほとんどでその位置は阿弥陀如来から見て右側、つまり陰側です。如来を基点とするのは君子にあたる尊い存在だからです。同じ考えで薬師如来の右側には月光菩薩が安置されます。右=陰=月です。
面白いのはこれだけ陰が並んだ状態で「三夜さま」は陽の存在と思われることですね。五行説では三を木気の生数とし、易では離の易数とします。
木気はたしかに金気に弱いのですが、土気には強いのです。土気は金気を生じさせることから、土気を剋せば金気も弱まるというわけです。
余談ですが、庚申待の青面金剛はこの法則の応用ではないでしょうか。地面を踏みつける青面金剛の下には見ざる・言わざる・聞かざるの三猿。土を剋することで猿(=申)の働きを押さえつけているように見えます。猿が塞ぐ目、口(+舌)、耳はそれぞれ木、土、水のシンボル。木気が苦手とする金気(鼻)以外を完封していますね。
また、離は五行説では火気に属し、その効用は庚申待で触れたとおり。離には南の方位があてられ、同方位の守り本尊は勢至菩薩です。つまり勢至菩薩は陰のシンボルでありながら、その働きの調整役でもあるのでしょう。
月待の中でもっとも普及した二十三夜尊は以上のような一応の理屈があり、他の月齢にもまた別の理屈があるのでしょう。ただし、基本は同じで気が偏る日に調整役の本尊を配するということかと思います。
wata
御朱印
月読神社の御朱印です。最近は頒布しておりませんでしたが、お正月には印刷したものを拝殿隣の授与所でいただけました。
非常に限られた機会になりますので、いただけた方は幸運かと思います。ありがたし。
まとめ
この記事のまとめ
- ご祭神は月読命。明治以前は二十三夜尊だった
- 月待信仰は特定の日に月を拝する民間信仰。気が偏る日の厄除けが目的か
- 御朱印は正月であれば授与所でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。