生子の八龍神社|坂東市

記事内に広告を含みます

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

御朱印は参拝のおまけのような存在ではありますが、御朱印をきっかけに活気を取り戻す神社があることはたしか。

県西の坂東市でも御朱印を頒布する神社は元気でして、沓掛くつかけ香取神社では新たに兼務社の御朱印をはじめました。めでたきことですね。

この記事では坂東市の生子おいごに鎮座する八龍神社にシェアしますので、ぜひ参拝の参考にしていただければと思います。

八龍神社
八龍神社

由緒

不詳
創建

天慶年間の創建と伝わる

寛文2年/1662年
除地を賜る

板倉阿波守が検地の折、社地七反余歩除地となった

延宝6年/1678年
造営

享保4年/1719年
寄進

5月7日、神祇管領卜部兼敬、正一位八龍神の額面を寄進

天保10年/1839年
神階再下附

12月3日、神階紛失のため再び下附。同日神祇管領卜部良長神幣寄進

明治6年/1873年
村社列格

大正10年/1921年
供進指定

昭和12年/1937年
本殿改築拝殿及び幣殿造営

昭和17年/1942年
大鳥居奉納

氏子片倉七郎、大鳥居奉納

昭和27年/1952年
合併および宗教法人設立

村内字熊の後熊野社を当社飛び地境内社として合併

平成11年/1999年
社号標建立および社殿再建

ご祭神は高闇龗命です。わたしはこの神様を知らないのですが、水神として知られる高龗神と闇龗神の名前が足されているので同様の神格かと思います。他の八龍神社と同じですね。

雨乞い祈祷で知られる貴船神社(貴布禰神社)のご祭神でもあります。この辺りは利根川から少し離れた位置にありますので、降雨に頼る農業の時代が長かったのではないでしょうか。

由緒を見ると江戸時代に京都の吉田家との繋がりがあると分かります。吉田家は神職の裁許状を出していましたので、神社条目に従った運営がされていたこと示しているのでしょう。

その時代から八龍神社と称していましたが、昭和期の『茨城県神社誌』には「竜神社」とありますので正式な社号はそちらのようです。

「八」にはどのような意味があるのか気になるところですよね。五行説では八を木気の成数とし植物などの生物全般の繁栄を意味するので八龍を農耕神と位置付けていたためかと思います。

アクセス

最寄りのICは圏央道の坂東IC。下りてから約10分ほど。

整備された駐車場はありませんが、鳥居のそばに駐車可能です。混雑することはありませんのでほぼ確実に駐車できるかと思います。

名称八龍神社
住所茨城県坂東市生子632
駐車場あり
Webサイト不明

鳥居

一の鳥居(両部鳥居)
一の鳥居(両部鳥居)

この日まで当社の存在自体知りませんでしたので、こんなに立派な鳥居があって驚きました。

正一位の扁額
正一位の扁額

両部式で朱色に彩ろどられた姿には密教系の寺院との関係を連想させますね。当社の西北には真言宗豊山派の萬蔵院がありますので、もしかしたら明治以前は繋がりがあったかもしれません。

二の鳥居(神明式)
二の鳥居(神明式)

二の鳥居は神明式。昭和17年の建立ですからと神仏分離を終えた時代のこと。なんとなく時代の変遷を感じます。

庚申塔と手水舎

庚申塔
庚申塔

そびえる杉を眺めながら鎮守の森の参道を進むと右手に二基の庚申塔を発見。庚申講の記念碑なので形にこだわるのはおかしいのですが、それでも青面金剛の姿を見ると若干テンション上がります。

青面金剛
青面金剛

青面金剛は人間の体に潜むとされる三尸の虫を退治する存在。虫は庚申の夜に人間の体から飛び出て天帝に宿主の悪事を知らせて宿主の寿命を縮ませると考えられていました。そのため人々は庚申の夜に眠らず夜を明かすのです。庚申講はそのための集いですね。

庚申は道教の思想をもとにしているといわれますが、中国にも同じように庚申講があるのでしょうか。じつは日本で独自に発展した部分が大きいのではと思います。

手水舎
手水舎

立派な手水舎ですね!龍の石像から水が出てくるようです。のんびりしたお顔でなんだか愛らしい。

社殿

愛嬌のある狛犬を眺めてから拝殿へ。境内はよく整備され、新しい建物が多いのでこうした石像の存在は貴重ですね。

拝殿
拝殿

社殿は平成10年に再建されました。龍や朱雀、松といった縁起物の彫刻が並ぶ立派な佇まい。

歴史を感じさせる古い社殿は魅力的だと思う一方で新しい社殿の清々しさもいいですよね。神宮は式年遷宮で定期的に建て替えていますし、社殿の新旧ではその価値は測れないと思うんですよね。

本殿
本殿

本殿の屋根には鰹木が三本。これは古い本殿と同じ数なのでしょうか。三は木気の生数ですから、前述した八と同じように龍にとって縁の深い数字です。

顕彰碑
顕彰碑

社殿の向かって右手には氏子の片倉七郎氏の顕彰碑がありました。それによると明治期に当地(生子)に生まれ鋼管製造の事業を営んだ方で社殿の再建をはじめ多大なる貢献をしたそうです。

祭祀から見る神格

上は五行説の配当表です。五行は中国由来の思想で古代日本に伝わってから民俗の奥底に根付いています。

非常に奥深いので説明は簡単じゃないのですが、あえて一言でするなら万物を五気に分類してその働きや関係を説明するのが五行説です。

「鬼門」とか「干支」、「節分」などの節句は五行説と密接な関係があるので、日本人の生活に身近な思想といえるでしょう。

当社の社号にもある龍(辰)は十二支に数えられ、木気あるいは土気とされていますので古くから農耕神とされていたかと思います。もちろん氏子ひとりひとりが背景に五行説があるとは考えていないと思いますが。

しかし、龍といえば水との関係が連想されると思います。なぜ水気ではないのかと疑問を持つのではないでしょうか。その考え方は正しくて、じつは龍は「三合」という法則によって水気に変化する特殊な性質を持っています。

水気の三合は「申に生じ、子に栄えて、辰に死す」です。水気には始まりと終わりがあるという考え方で、龍はその終わりの存在です。

三合は中心である子を含めば二支でも成立しますので、龍を水神とする場合はどこかに子の要素を持ち込む必要があるのです。

当社の場合、おそらくそれは祭祀にあると思います。『茨城県神社誌』によれば当社の例祭は11月15日です。はじめの配当表を見ていただくと11月は子の月で15日はその中央。

つまり、祭祀はまさに子を意味する日取りとされているわけです。子によって水気が栄えることでそれを受ける祭神(辰)は水神に変化するという理屈ですね。

ところで当社の鎮座地は生子です。生は木気に通じて龍と同じ、子は文字通りと捉えると地名も三合の法則を意味しているように思えます。フシギなことですねぇ。

こうした考え方は多くの神社に通用して面白いので、ぜひ五行説の配当表や法則を覚えて神社や祭神の性質を考えてみてくださいね♪

wata

当社では毎年1月20日に備社講が集まって祭りをしていたそうです。利根川沿いに見られる鳥に矢を放つ行事かと思いますが、こうした由来のはっきりしない行事も五行説で説けるのではと思います。

境内の別の社殿

立入禁止の社殿
立入禁止の社殿

境内にはご紹介した社殿の他に二つの社殿がありました。ひとつは立入禁止となっている南向きのもの、もうひとつは間口が広い東向きのものです。

カラフルな彫刻
カラフルな彫刻

立入禁止の方は壁に修繕された跡があるものの建物そのものが不安定で瓦が落下する危険があるようです。青や緑といったカラフルな彫刻が見え、龍や松、波、風などが彫られていました。

旧社殿?
旧社殿?

もうひとつは旧社殿のようです。おそらく平成10年以前はこちらを利用していたのでしょう。

中を覗いてみると「八龍神社」の扁額がいくつも掛けられており、大きな縦書きの扁額には「陸軍大将岸本綾夫」の名が見えます。

御朱印

八龍神社の御朱印
八龍神社の御朱印

八龍神社の御朱印です。宮司の本務である沓掛香取神社にていただけます。

頒布はおそらく近年に始まりました。大変立派な社殿ですし、広く知られるといいですね!

まとめ

・高闇龗命は高龗神と闇龗神を意味すると思われる
・八龍は水神であり農耕神とされたと思われる
・御朱印は本務の沓掛香取神社でいただける

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城の地名|編:平凡社