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神社は江戸、明治と統合を繰り返しているので社格のある神社が一箇所に集中することはほとんどありません。
ところが、笠間の中心地は村社が連立しているんですよね。例えば、笠間稲荷、三所神社、八坂神社は同じ笠間市笠間に鎮座する旧村社です。
歴史的な背景があるわけですが、そうした地域が茨城を代表する観光地として今もあるのはなんとも興味深いことです。今回はそんな八坂神社についてシェア。稲荷、三所とあわせて参拝をお楽しみいただければと思います♪
由緒
下野国小貫郷に創建
初代笠間城主・笠間時朝が移住に伴い城下である石井の里天王塚に遷座
笠間領内の総鎮守・三所神社の境内へ仮遷座
笠間城主・浅野内匠頭長直が神輿を奉献
笠間城主・井上河内守正利が現在地に遷座。10石の除地を与える
京都烏丸の磯貝勘三郎に天王神輿を作らせ諸道具と合わせて奉献
新嘗大祭の日に行っていた稲田神社への神輿渡御を中止する
参道の御影石敷き詰めなどの境内整備
境内社・三日月神社の再建
ご祭神は素戔嗚命です。江戸時代までは牛頭天王社と称し牛頭天王を祭神としました。
牛頭天王は災厄を振りまく一方でそれを治める力を持っているとされます。治めるといっても何か念力を使うのではなく、災厄をその身にまとい体ごと清めることで祓います。清めは水場、特に川で行われるので祗園祭では祭神を乘せた神輿を川まで渡御することが多いのです。
当社の社伝によれば、そんな牛頭天王を笠間城主の笠間時朝が遷座したとあります。しかし、『笠間城記』と『聚成笠間誌』には違った内容が。。要約を『笠間市の昔ばなし』から引用します。
42 牛頭天王のいわれ
牛頭天王とは、大町にある天王様のことで、この天王様が祀られるようになったのは、次のような物語がある。
むかし、牛頭天王は下野国小貫村(栃木県茂木町)にあったといわれる。この天王は神の威光がきびしくて、ちょっとしたことにも神の祟りがあるので、里人はついに新しいこもにご神体を包み、これを川に流してしまった。そのこもづつみが流れ流れて、古町川(片庭川)に浮かび、石井村付近まで来た。これを見つけた古町の人が川辺で見ているうちに、光り輝きをまし、おそろしいほどの明るさとなった。ふしぎに思ってこのこもづつみをすくい上げ、居酒やの前におまつりした。
ところが、この神様のふしぎな力を身に感じた付近の人びとは、心身を清めて、この神様にお参りするようになった。しかし、この神様を長くお預かりすることは、どこの家でもなかなか困難なことであった。そこで、人びとは相談のすえ、毎年くじを作って、当った家で一年間ずつおまつりすることにきめた。天王様は、毎年一回ずつ旅をするかたちで、当番の家をまわることになり、その家を「当家」というようになった。
というわけで、県内の他の八坂神社(あるいは天王社)と同じく、流れ着いたご神体を祀ることに始まったとする説です。この場合は、遷座というより勧請や分霊に近いですね。
ただ、そうであっても社伝にある笠間時朝は創建にあたり関係していたかもしれません。時朝が笠間の地を治めるようになったのは正福寺(笠間)と徳蔵寺(城里町)の法戦に乗じてのことなので、その後ろめたさから成仏できない霊魂や怨霊と呼ばれる存在に無関心ではなかったと思います。そのため怨霊のように災厄を振りまく牛頭天王も無下にはしなかったのではないでしょうか。
余談ですが、いまも佐白山が心霊スポット扱いされるのは、法戦で亡くなった僧兵が成仏できずに彷徨っているという話があるからです。古い文献にもあることなので、リバイバル的に取り上げられているんですね。
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アクセス
常磐道の友部ICを下りて約10分。北関東自動車道の笠間西ICを下りても同じくらいです。
駐車場は一の鳥居をくぐった先です。通常は問題なく駐車できるかと思いますが、お正月は三所神社の方を開放して八坂を閉めていました。祈祷などで神職が偏るので封鎖したのかもしれません。
名称 | 八坂神社 |
住所 | 茨城県笠間市笠間345 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居と参道
境内の作りは兼務社の三所神社と似ていて通り沿いの鳥居は車でくぐれます。
参道は100mほど。途中、左右に駐車場があります。充分すぎる広さですが、ロープで封鎖していることも多いようです。
石段を登って社殿へ。社殿周辺は神輿殿や境内社の三日月神社、社務所などがあります。
社殿
入母屋造の拝殿。トタン屋根が鮮やかに変色していますね。
ご祭神の素戔嗚命は高天原追放後に「根の堅州国」に住んでいますので、植物との関係が深く緑の配色がふさわしく感じます。
スラリとしたフォルムの狛犬。これ阿吽になっているかな?向かって右側のほうは微妙に口を開けているように見えます。
拝殿の中を覗いてみると命の「八岐の大蛇退治」が画となっていました。皇紀二千六百年記念、つまり昭和15年に奉納されたようです。
泣いているのは奇稲田姫命ですね。その手前にいるのは両親の足名椎(父)、手名椎(母)でしょう。八俣の大蛇に娘を差し出さねばならず、悲しみに暮れているところ。それをスサノヲが救おうというのです。
両親の名は娘の手足を撫でる(撫づる)ことに由来するという説がありますが、わたしはそれに肯定しかねます。そして「名」を「無」の意味でとる説に関心を持っています。
つまり、クシナダの両親は手足がない。そしてアシナヅチはスサノヲが大蛇を退治してから稲田の祭主を任されている。田の守護をして手足がないといえば、それは蛇以外にありえない、と。
大蛇の存在からも分かるように蛇は古代において強くて恐ろしい存在です。クシナダもそうした血を受け継いてでおり、スサノヲと夫婦になることで強い子孫を残したのではないでしょうか。そしてそれは数代後になってオオクニヌシという国造りをした出雲の王の誕生へと繋がっていきます。
ところで、当社は明治2年まで新嘗大祭の日に稲田の稲田神社(祭神:奇稲田姫)まで神輿渡御をしていました。神話に習った伝統行事があったんですね。
覆屋のある本殿です。
本殿は小ぶりながら精巧な彫刻がありますね。板の隙間からになりますが、ぜひご覧ください!
社殿は最北西向き。一般的には東か南なので何かしら理由があるはず。三所神社も同じなので、同社の分霊元の二荒山神社の方角を意味するのかもしれませんね。
サイズはさほどではありませんが、じつは立派な本です。特に向拝の辺りが造り込まれています。虹梁に丸彫りの龍、手挟にあるのは鳳凰でしょうか。腰組のあたりも余計に木鼻で飾っております。
脇障子の前に見えるのは大黒さまの像だったかと思います。反対側にはもちろん恵比寿。金鯱に乗ってなんとも景気が良さそうなお姿でした。
スサノオの活躍はこちら
神輿殿と三日月神社
社殿の左手には神輿殿などが並びます。やはり八坂神社といえば夏の祇園祭。各町内で神輿を持っているかと思いますが、こちらでも管理されているわけですね。
ちなみに、神輿は単に担いで歩くのではなく、上下に揺さぶりながらですよね。あれはそうすることで祭神にエネルギーを与えているのです。漢字で書くと振るうではなく奮う。そして祭神は溜まったエネルギーで疫病などの災厄を祓うのです。
神様なら人間にとって良いことだけして欲しいと思うかもしれませんが、神に善悪はありませんので人間は畏れながらも祈り導くだけなんですね。
八坂神社の境内社は二社。月読命を祭神とする三日月神社と宇迦之御魂神を祭神とする三沢坊稲荷神社です。
写真は三日月神社でして眼の神として信仰されています。境内には月待講の記念碑もありますし、この辺りでは月読命を本尊とする二十三夜講が盛んだったようです。
月読命は素戔嗚命の兄(姉とも)で二柱は『日本書紀』と『古事記』で同じような神話を持っていることから、民間信仰においてもなにか関係性があったのかもしれませんね。
ただし、社殿に添えられているのは恵比寿と大黒の像です。この像はどこにでもある。しかし他社と違ってこちらの木造はかなり精巧ですし、メッキを施された像も置かれています。熱がこもっているのですね。
しだれ桜
社殿の右手前に非常に立派なしだれ桜があります。樹齢400年ともいわれますが、当地に遷座された時代を考えると350年ほどかもしれません。
幹には空洞がありやや弱々しいですが、「しだれ」の名にふさわしい美しい姿をしています。枝ぶりが仏堂の洛陽に似ているせいか、お寺の境内に植えられることが多い品種ですね。
そういえば、牛頭天王は神仏習合の色濃い存在です。明治以前は別当が祭祀を担っていたかと思いますが、その記録が見つからないんです。
別当寺はどこなのでしょう。そんなに立派なものではなく現在の社務所の場所に位置にあったりして。だとすれば、この桜は寺の桜だったかもしれませんね。樹齢400年ならほぼ確実に。
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御朱印
八坂神社の御朱印です。この日はお正月だったので三所神社の拝殿でいただきましたが、通常は八坂神社の社務所でいただけます。
兼務している同字の三所神社の御朱印もあわせていただけます。
・創建は笠間時朝による遷座と流れ着いたご神体を祀ったとする2説ある
・境内には樹齢400年といわれる立派なしだれ桜がある
・御朱印は拝殿となりの社務所でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城の地名|編:平凡社
笠間市の昔ばなし|編:笠間市文化財愛護協会
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誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。