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- 由緒とご祭神
- 伊勢神道と伊勢の豊受大神宮について
- 御朱印のいただき方
日本人にもっとも知られた神様といえば「アマテラス」ではないでしょうか。高天原を統治する最高神なので多くの神々と関わっていますが、ある意味でもっとも親しい神といえば「トヨウケ」。
豊受大神とも尊称されるその神様は、じつは『古事記』『日本書紀』に事績がありません。詳しいことは記紀と別にまとめられた神宮の書物に記されているという謎の多い神様なのです。
茨城ではそんな豊受大神を東海村の白方に鎮座する豊受皇大神宮で立派にお祀りしています。いわゆる外宮と呼ばれるお宮で天照大神を祀る内宮と一体とされています。
豊受皇大神宮とは
由緒
ご祭神は豊受大神です。『古事記』では天孫降臨する瓊瓊杵命に同伴した止由気神と同一とされます。神宮(伊勢)の外宮に祀られ、内宮の天照大神を支える「御食津の神」として有名な神様です。
当社の社伝は『常州埴田五所大神宮縁起』(1702年成立)を中心に語られているようです。それより古いものとなると寛文3年(1663年)に水戸藩が編纂した『開基帳』があって、そこには大同元年の創建であり、半田大明神と称したとあります。つまり社号はたびたび変わっていますし、歴史は定かでありません。
古い時代のことは不詳ですが、水戸藩主の徳川光圀公が関わったことは事実。光圀公は村松の大神宮(内宮)を造営して伊勢から分霊を命じているので同時期に当社も外宮から豊受大神を分霊したと考えられています。やはり内宮と外宮は一体として考えられていたのでしょう。
それ以前の半田大明神が豊受大神と同一かは判断が難しいところですね。ちなみに光圀公の命により社号は「埴田神宮」に改められました。社号はその後も変化を続けています。
現在のご祭神は少なく見積もっても300年以上の歴史。しかも伊勢から分霊となれば由緒ある神社として間違いありません。ただし、社伝は現実的な歴史と照らし合わせて見ることでより実像に近づくのではと思います。
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アクセス
常磐道の東海スマートICを下りてから約10分。原電通りを北上して境内に入っていきます。ただし、県道284号からは入れません。284号の東側の細い道路をご利用ください。
駐車場はとても広いので問題なく駐車できるかと思います。参拝するならほぼ車一択になるでしょう。昨年、立派な社務所が建てられました。駐車場に隣接しておりますので目印になるかと思います。
名称 | 豊受皇大神宮 |
---|---|
住所 | 茨城県那珂郡東海村白方662 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 東海村観光協会 |
鳥居
一の鳥居は駐車場から少し離れたところ。わざわざ石段を下りていかないとこの光景は目にできません。つまり、この写真でどの神社か分かったらかなりの通ということですね。
鳥居の反対側(東側)は白方公園の池となっております。どうも当社および当地は古くから水辺にあったようで、そこから白方の地名が生じたという説もあります。「方」は「潟」と同じ意味で当地を「白潟」と表記した文献は実在します。それに中世に吉田氏が治めていた頃には港もあったとか。ということは意外に人の出入りの多い地域だったのかもしれませんね。
時代を遡ると同じ音であれば漢字を厳格に区別していませんでした。特に武士は漢字が苦手で画数が多い文字を書きたがらないことがあったんですよね。その気持ちは個人的によくわかります。
余談ですが、『東海村のむかし話と伝説』(発行:東海村教育委員会)には地元の方の声として、常陸国と呼ばれた時代の「平潟」の地名が「しらかた」になったという説が紹介されています。
文献上は室町期にすでに「白方」の表記が見えますので上記のような説は考えにくいのですが、「し」と「ひ」は人によっては区別できない音なので「ひらかた」の言葉というか発音は実在したかもしれませんね。
手水舎と二の鳥居
駐車場からふつうに参拝しようとしたらまず目にするのはこのような光景。境内は平成期に大きく整備されましたので非常に新鮮な印象です。この日は三が日でしたので地元の方で賑わっておりました。
二の鳥居もたいへん立派。シンプルな神明式の鳥居は古くから続く神道の雰囲気を醸し出していていいですね。鳥居の足元には2つの小さな祠が見えます。『延喜式』に見える「櫛石窓神」「豊石窓神」といった門神かもしれません。この二神は『古事記』では天岩戸別神の別名とされ、瓊瓊杵命や止由気神と一緒に降臨しました。
ところで、奥に見える社殿が東南を向いているのはとても興味深いです。東南向きはおそらく西北に位置することを意味します。基点無しで八方のいずれかにあることを示すには示したい方位を背にするしかありません。たとえば「西北の最果て」に位置するなら、向く必要がない西北を背にするといえば分かるでしょうか。
そのような工夫を凝らすのは伊勢の外宮が内宮に対して西北に位置しているためで、そこから分霊された当社にも同じ性質を持たせていると思うのです。(実際には村松の大神宮の西北になく微妙に北方に位置する)
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社殿
入母屋造の拝殿は平成6年に改築されました。築30年くらいなので神社としては新しい方ですね。神宮は20年ごとに再建(式年遷宮)しますから、神社は古ければいいというわけではありません。
屋根の正面や提灯には三つ葉葵の紋が見えます。水戸徳川家ゆかりの神社として貫禄あるお姿ではないでしょうか。
元禄期に当社を造営した光圀公はあわせて神仏分離をしています。その詳細は不明ながら。。境内社の稲荷神社の別当は石神白方村の宝泉院(真言宗)が務めたとか。水戸藩の寺社改革で廃寺になりましたけどね。このあたりは村松山(虚空蔵堂)の影響もあって真言宗が強かったようなので当社もあるいはと考えてしまいます。
本来の神宮であれば「仏教の忌避」が大原則のひとつ。そのため光圀公の命による分霊以前は別の祭神であったという考えも成り立つでしょうか。とはいえその神宮も中世以降はだいぶ原則が揺らいでいたようですが。
本殿は外宮らしい造り。千木は外削ぎ、鰹木はおそらく奇数。側面には棟持柱が見えますので単なる神明造ではなく唯一神明造りなのでしょう。外とか奇数は陰陽説では陽の気を示し、内宮と対の存在であるとわかります。
境内社
豊受皇大神宮の本殿を囲むように境内社が並んでいます。ご丁寧にそれぞれに鳥居を置いているようで神社が密集している印象です。
特に社号が明示されているわけではありませんので、ちょっと参拝しにくいかもしれませんね。こんなとき、わたしは土地の神様としてお参りしています。
東海村観光協会によれば、当社は二十六社、三十四柱をお祀りしています。その数と合致しませんが、参考までに『茨城県神社誌』にある境内社とそのご祭神を列挙します。
- 稲荷神社X3…倉稲魂命
- 御門神社X2(二の鳥居前?)…奇石窓神豊命、磐窓命
- 愛宕神社X2…軻遇突智神
- 素鵞神社…須佐之男命
- 鹿島神社…武甕槌命
- 雷神社…別雷皇大神
- 天満宮…菅原道真
- 多賀宮…伊吹戸主命
- 土宮…大歳神、宇賀魂命、埴山姫命
- 月読宮…月読宮、荒魂命
- 風宮…級長津彦命、級長津姫命
- 富士神社…木花開耶姫命
- 鷺森神社…月読命、大巳貴命、少彦名命
- 阿夫利神社…大山祇神
- 金刀比羅神社…大国主命
- 厳島神社…市杵島姫命
『東海村史 通史編』によれば、風宮はもともと当社の坤(西南)の方位の二町ほど離れた場所にあったそう。「風内所」と称して遥拝所の役割だったものをいつしか境内社としたのだとか。
また、乾(西北)の方位に八町ほど離れたところには八王子社があり、延宝年中(1673〜1680年)に当社の末社になったそう。現在の境内社に数えられていませんので、どれかの社に合祀されたのかもしれません。
社号からいまひとつご祭神が読み取れないような神社はきっと当時独特の信仰があったのでしょう。特に風や土といった五行や易の思想に通じるような文字は神仏習合時代の神道の様相を感じます。
御朱印
豊受皇大神宮の御朱印です。この日は三が日でしたので社殿そばの授与所でいただきましたが、ふだんは駐車場近くの社務所になるかと思います。非常に目立つので迷うことはないでしょう。
伊勢神道と豊受大神
ここから先は伊勢信仰に関するいくつかの情報をお伝えします。知っておけば内宮や外宮、そこでお祀りされている天照大神や豊受大神にお参りする際にきっと役立つはずです!
古すぎる社伝に注意?
伊勢信仰にはいくつかの特色があります。当記事内で触れた仏教の忌避もそのひとつでして、もうひとつ重要なのことに「私幣禁断」があります。つまり古くは皇祖神に対して財産を捧げたり個人的な願い事をすることを禁じていました。天皇との結びつきが極めて強い神に対して、第三者の介入を防ぐ狙いなどがあるのでしょう。
そうした神宮の方針は平安時代中期の頃に揺らぐまでは大原則でした。それが意味するところは古代から天照大神や豊受大神をお祀りしていたとする社伝や伝承は慎重に捉える必要があるということです。
こうした考えは単に歴史を疑ったり否定するためではなくて、現実的な目線をあわせ持つことで実像に近づけるとしてお役立ていただければと思います。それと事実でなくても重要なことはたくさんあるということも。
伊勢信仰の展開
伊勢信仰が古代から庶民の間にあったわけではないなら、いつ頃に普及したのか。個別の事案についてはなんとも言えませんが、大まかな流れは明らかになっています。
それを一言にまとめるなら平安末期以降。各地に荘園(私有地)が発達したことで神宮の神領(御厨)が不安定化し、経済的な基盤を再構築するために内宮・外宮の権禰宜層(祭主は中臣氏)がそれぞれ布教に動いたとされています。実際に動いたのは御師と呼ばれる伝道師で神宮大麻の頒布なども行っていました。
布教には教義が必要となり、そこで用いられたのが伊勢神道です。伊勢神道は仏教や儒教なども取り入れた神道で外宮の度会氏が中心となって成立したため度会神道とも呼ばれます。そうした経緯もあって外宮の主祭神である豊受大神は天照大神に並ぶほどの神格に高められました。
伊勢信仰が中世以降に普及したすると、次の指摘が興味深く思えるはずです。
伊勢神宮の神領を記した「神鳳抄」(しんぽうしょう)には、伊勢国度会郡に「村松御薗」(むらまつのみその)とあり、外宮(げくう)に「段別七升」の貢納をしている。度会郡村松御薗は伊勢湾に面した地で、「夫木和歌抄」にも、蟬の貝の声かときけば村松の岸うつなみのひびきなりけり とみえる。この外宮(豊受宮)の神領であった村松御薗と、村松の地名は関係があるのではないだろうか。
東海村の今昔|志田諄一
伊勢にも似たような地勢で「村松」と称する神領があるとのこと。『新編常陸国誌』では村松の地名が群生した松に由来としていますが、個人的には上記の説に信憑性を感じます。
東海村の「村松」の最古の記録は明応2年(1493年)に岩城氏家臣が残した文書。それ以降は続々と見えます。伊勢神道の大成者である度会家行(1256〜1356?)の元の姓が村松だったことも関係あるかも。。
茨城の地に伊勢信仰が伝わったのはどれくらいの時期なのでしょうか。室町から戦国期にかけては全国的に不穏な情勢でしたから、そうした混乱期に起きたことなのかなと推測しています。
「豊受皇大神宮」の誕生
東海村の豊受皇大神宮は伊勢の外宮から分霊したとされます。外宮も同名かと思いきや。。公式サイトを見ると「豊受大神宮」とあって「皇」の文字がありません。
じつはこの字を巡ってかつて内宮と外宮で次のような論争がありました。
永仁四(一二九六)のこと、伊勢国員弁郡石河にある外宮の御厨から、年貢米が送られてこなくなったため、神宮は訴訟を起こした。その際提出した両宮禰宜連署の注進状に、外宮側は先例を破って「豊受皇大神宮」と署名したのである。これが内宮側を大いに刺激した。なぜなら、それまで内宮は「皇大神宮」、外宮は「豊受大神宮」と呼称するのが通例だったからだ。内宮側は「皇」の字使用を取り消すよう申し入れたが、外宮側は反論、両宮の争論は、翌五年六月まで続いた(『皇字沙汰文』)。
中世神話|山本ひろ子
この論争の最中、「皇」の字が過去に使われた証拠として外宮側が提示したのがいわゆる神道五部書。五部書は奈良時代に編纂されたと主張されましたが、内容から推定するに早いものでも鎌倉時代初期とされます。伊勢神道のバイブルとされた五部書ですから、伊勢神道が度会神道と呼ばれるのも納得ではないでしょうか。
しかし、豊受大神はあくまで天照大神に従う存在であり単独による信仰は成立しにくい。伊勢神道が展開して豊受大神を祀る外宮を創建するとなれば必ず内宮が並立し、その細かな事情は曖昧にされる。単なる推測ですが、東海でもそのような出来事があったのではないかと思います。
実際のところはわかりません。社伝を信じるもよし、歴史から考察するもよし、あるいはその中間に真実があるのかもしれません。せっかく参拝するのであれば、自分なりの考えを探しながらが楽しいと思いますよ!
まとめ
この記事のまとめ
- ご祭神は伊勢から分霊した豊受大神
- 当地に伊勢信仰が伝わったのは室町から戦国期か
- 御朱印は社殿そばの授与所か新築された社務所でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
この記事で紹介した本はこちら
wataがいま読んでいる本
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。