wata
お盆休みでのんびりしていると興味深い情報を入手しました。
「小川の天妃尊が開帳される」
もう少し詳しくすると天妃尊の尊像が公開される、ということなんですが、そもそも天妃尊をご存知でしょうか。
天妃尊とは中国の土着の信仰である道教の女神のことです。でも、そんなものがなぜ小川に?それには「水戸黄門」としておなじみの徳川光圀公(義公)が関係しているんです。
この記事では小川の天妃尊についてシェアします。お盆とお彼岸の時期だけ開帳となりますので、興味のある方は足を運んでみましょう♪
天妃尊とは
まずは天妃尊についてご紹介します。
「天妃」とは、千年ほど前に中国の沿岸部で航海安全の守護神として信仰が始まり、一般的には「媽祖」と呼ばれています。江戸時代になると、船玉信仰とも結びつき、日本各地に伝えられました。日中交流の関わりのなかで沖縄、鹿児島、茨城、青森などに五〇体ほどの「天妃」像が残されています。近年には横浜中華街にも横濱媽祖廟が建立されています。
小美玉市の歴史を知ろう43/小美玉市(公式)
媽祖は実在の人物で生前は漁村で暮らし不思議な力で村人を癒やしたという伝説があります。死後は航海安全の守護神とされるようになり、貿易を通じて信仰が日本に渡ったといわれています。
特に沖縄(当寺は琉球)には多くの天妃廟が建立されて航海安全が祈願されました。沖縄は薩摩藩の領土ですが、清の冊封体制に組み込まれていて多くの冊封使が海を渡っていたためですね。(那覇には「天妃小学校」がある!)
ただ、「天妃」とは元から明王朝にかけての呼び方。清王朝では「天后」というのだとか。そうすると日本の天妃信仰は明王朝が残っていた江戸時代前半に伝わったものが多いのかもしれませんね。
さて、そんな天妃信仰がなぜ海のない小美玉市に残っているのでしょうか。
じつは江戸時代に義公の招きで水戸藩を訪れた禅僧の東皐心越に由来します。心越は明の出身。もちろん海を渡ってきましたので航海安全を媽祖(天妃尊)に祈願していたのです。
それを知った義公は心越の天妃尊像をもとに新たに三像を作り、藩内で舟運が栄えていた北茨城市磯原(天妃山)と大洗町祝町(天妃山神社)に下賜しました。
そして最後の一体は心越が開山した水戸祇園寺の三世(住職)・蘭山が小川の天聖寺に渡る際に持たせました。そして代々の住職が檀家と共に尊崇したといいます。
小川は他の二所と違い海のない場所です。しかし、水戸ー江戸間の舟運の要衝として栄えていたので天妃尊を祀るにふさわしかったのでしょう。
天聖寺は宝承4年(1707年)に開山。明治3年(1870年)に火災により焼失。廃寺となります。火災の際、天妃尊は檀徒の家に避難されていました。その後、昭和51年(1976年)に天聖寺斎場が竣工したことを機に境内に戻されました。
アクセス
最寄りICは常磐道の石岡小美玉スマートIC(ETCのみ)。下りて約15分ほどです。
御朱印で有名な素鵞神社のすぐ近く。小川の横丁の信号を東に曲がり、ひとつめの信号を左折すると左手にあります。画像の入り口を進んでいくと右手が駐車場です。
開帳はお盆かお彼岸の時期なので駐車場はお墓参りの方々で混雑する可能性が高いです。運転にはご注意ください。
名称 | 小川の天妃尊 |
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住所 | 茨城県小美玉市小川1488 |
駐車場 | あり |
表参道
駐車場があるのは裏参道。表参道は境内南です。せっかくなのでこちらから参拝。
石垣の上に石仏や供養塔が密集して並べられています。現在、天聖寺跡は墓地として利用されていますが、古いものはこちらに分けているのかもしれませんね。
石段を登り切ると須弥壇のある建物。本堂の役割を果たしているようです。中には墓地の管理をされている方々がいらっしゃいました。
その正面左手前にあるのが天妃尊の安置された石祠。建立されてから40〜50年ですが、色合い、苔の具合から実際よりも年代を感じさせます。
ふだんは扉が閉じられており、お盆とお彼岸の時期だけ開帳され参拝者を迎えます。
天妃尊
扇子を持ち豪奢な衣装を身にまとった天妃尊。うっすら朱色を残していて優美な姿です。顔立ちは仏像のように穏やか。口元が細やかで上品な印象です。全長30cmほどの寄木造りです。
小美玉市(旧小川町)の指定有形文化財。立て札には「海上安全、家内安全、守護神」とありました。
天妃尊は渡来の神ですからそうそうお目にかかれません。日本では船玉信仰と結びついて広まったといわれますが、こうして確認できるものは数えるほどでしょう。
そういえば、以前小美玉の貴布禰神社について調べた時、旧美野里町にやたら「船」とつく神社があることに気づきました。そしてなぜか本営と異なり日本武尊を祭神としていることも。。じつは天妃尊を信仰していたところは多かったのかもしれません。
また、興味深いことに天妃尊は日本で弟橘姫と習合しました。詳しい経緯は不明ですが、『記紀』の弟橘姫が東征に向かう日本武尊のため海に身を投げたことに関係するのでしょう。そのおかげで尊は海を渡れました。
日本武尊と弟橘姫の夫妻、そして天妃信仰と船玉信仰。小美玉地域にはこの辺りが複雑に関係した信仰があったような気がします。
ところで、天妃尊は烈公(徳川斉昭)の時代になると「弟橘姫命」に改められていきます。当時の水戸藩は儒家神道の流れをくむ垂加神道の影響を強く受けており、廃仏思想が強かったせいでしょう。
習合とは本地垂迹説などの思想に基づき同一視するということです。主に神仏を結びつけることで儒家神道や廃仏思想の立場からすれば「神」でない天妃は無くしてしまいたい存在です。
とはいえ、いきなり天妃から弟橘姫へ切り替えろと言われても信者は納得できません。磯原と祝町では社殿を建立して弟橘姫を祀ることになりましたが、みんな心の中では天妃として信仰を続けていたそうです。
小川でそのような思想的攻防があったかは不明ですが、特殊な信仰でありながら水戸藩の寺院改革や明治のいわゆる廃仏毀釈を乗り越えたことは事実なので今後も大切にしたい尊像ですね。
弟橘姫に知るならこちら
まとめ
この記事のまとめ
- 天妃尊とは道教由来の女神。中国大陸から渡来した
- 小川の天妃尊は義公により誕生。磯原と祝町にもある
- 尊像はお盆とお彼岸の時期に見ることができる
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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