親鸞 関東の拠点『稲田の草庵』と西念寺(笠間市)

浄土真宗の開祖といえば親鸞しんらん聖人。当時の仏教界の問題に正面から立ち向かった僧侶です。仏道のエリートがあえて戒律を破った理由。気になったらぜひ調べてみてください。

そんな親鸞聖人の伝説が茨城各地にあります。このブログでは願牛寺の創建や無量壽寺で母親の幽霊を成仏させたことを紹介しました。県内に数ある理由は約20年も滞在して布教したためでしょう。

拠点としたのは通称『稲田の草庵』。いまの笠間市稲田にありました。草庵はなくなりましたが、後に浄土真宗の聖地として西念寺が建てられました。西念寺は立派なお堂を構えていることでも有名ですが一体どんなお寺なのでしょうか。

先日、現地を訪れましたので境内に残るお話と併せてご紹介します。

注意
『浄土真宗』は親鸞聖人が亡くなった後に誕生した言葉です。聖人自身に開宗の意思はなかったといわれます。

西念寺とは

西念寺山門

西念寺は笠間市の稲田にある浄土真宗のお寺です。山門前の石柱に書かれているのは「浄土真宗別格本山」。宗派はありません。

『別格』は親鸞聖人と特別な関係だからでしょう。聖人が越後(いまの新潟県のあたり)への流罪を許されたあと、妻(恵信尼公)や子どもたちと一緒に過ごした場所です。それではどうして稲田を選んだのか。笠間観光協会と観光いばらきが参考になるので引用します。

関東の中にも親鸞聖人が住んだとされる場所はいくつかあります。しかしその中でも長く住んでいたのが笠間の稲田草庵(現在の西念寺)でした。親鸞聖人が笠間を選んだのは、文化も栄えており、「教行信証」を執筆する上で稲田神社に様々な資料があったことによります。
親鸞聖人研究家 筑波大学名誉教授 今井雅晴さんに聞きました/観光いばらき

この地に聖人を招き入信した稲田頼重は、厚く仏教に帰依した初代笠間城主の笠間時朝の叔父に当たる人物で、宇都宮氏の一門です。
笠間観光協会

つまり、執筆に必要なものが揃っていたこと、布教しやすい環境であったこと、土地の有力者に招かれたことなどが考えられます。

MEMO
関東に移住した理由は、常陸(いまの茨城県)を中心に勢力圏を持っていた性信しょうしん坊が招いたためともいわれます。性信坊は親鸞より年下で同じく法然聖人を師事していました。

本堂

西念寺本堂

山門をくぐった正面にはとても立派な本堂。1995年に現在の住職によって建てられました。旧本堂は1721年に建てられましたが、天狗党の乱の”余波”で1871年(明治4年)に焼失。天狗党がいたのは幕末ですから、余波とはなにか少し気になります。

ご本尊は阿弥陀如来像。宇都宮市が断絶するとき(1597年)にお城から持ち出されたものです。

境内の立て札によれば、県指定文化財の『唐本一切経』があります。(五千巻以上ある仏教の書物のうち1巻だけ)西念寺にある理由はわからないのですが、笠間城主 笠間時朝ときともが鹿島神社に奉納したものです。

MEMO
唐はいまの中国のこと。当時は宋という王朝でしたが、たびたび王朝が交代するので総称として使われていたようです。

稲田禅房のお葉付きイチョウ

お葉付きイチョウ

西念寺のお葉付きイチョウは親鸞聖人のお手植えとされています。高さ35m、幹の太さは7.5mほど、そして樹齢は800年超。いまも生き生きしている素晴らしい巨樹です!

1871年の大火によって一部が損傷しましたが、そのあと生気を取り戻したそうです。この年は本堂が焼失した年と同じです。イチョウだけ残ったのは奇跡的ですね。。。

なお、お葉付きイチョウとはイチョウの変種で葉の上縁に雌花がつき結実するものです。

弁円回心の桜

弁円回心の桜

本堂左手に『弁円べんねん回心えしんの桜』があります。桜といっても幹が残っているだけですが。そばの立て札より詳しくご紹介します。

弁円とはもと山伏(山で厳しい修行をする僧侶)です。稲田の草庵から少し離れた板敷山で修行をしていました。いわゆる『ご利益』を期待する祈祷を勧めていましたので、そうでない念仏を広める親鸞聖人は都合の悪かったんです。

そこで、祈祷で聖人を殺そうとしたり、山で待ち伏せするなどしていました。でも、どちらもうまくいかなかったので、最後には聖人の草庵に押しかけたのです。驚くこともなく現れた聖人の姿を見た弁円は後悔の涙を流し、その場で弟子になったといいます。

この桜は一連の出来事を喜んだ(またも登場)笠間時朝が植えたものです。回心は心を改めるという意味です。

wata

聖人は他にも結婚したり肉を食べたり、それまでの仏教の決まりをやぶっていました。もちろん明確な理由があるのですが、弁円の件のように大きな危険を伴うことです。決まりよりも大切なことがあったのですね。

御頂骨堂

御頂骨堂

親鸞聖人は京都で亡くなりました。火葬されて大谷に埋葬された後、遺骨の一部は稲田に戻って納められています。西念寺の御頂骨堂がそれです。

西念寺によれば、恵信尼公(妻)が京都で聖人と一緒だった覚信尼公(末娘)に墓を暴かれる心配を伝えたことがきっかけになったそうです。

いまのお堂は1925年に立教開宗七百年を記念して建てられました。

wata

聖人が京都に帰った理由はいくつか考えられます。有力なのは著書である教行信証きょうぎょうしんしょうを完成させるため。人生の学びをまとめようとしたんですね。

親鸞聖人の人生は激動でした。自らの意志で厳しい道を歩みましたが、稲田では家族揃って穏やかな生活をしたように感じます。聖人の考えを辿るにも良い場所だと思います。

その他聖人のゆかり

見返り橋

田んぼの中の見返り橋

西念寺の西の田んぼの中に橋がかかっています。『見返り橋』といって聖人が京都に帰る際、家族との別れを惜しんだとされる場所です。橋自体は新しいので模造だと思います。(一応水路の上にかかっています)

稲田では約20年も過ごしました。聖人は稲田の人たちと農作業をしたとも伝えられていますから、とても親しかったのでしょう。別れにはさまざまな想いがあったと想像できます。

wata

それにしても60歳を超えて帰京とは・・・稲田では健康的な生活を送っていたのでしょう。

玉日姫廟

玉日姫廟入り口

西念寺から800mほど東に『玉日姫廟たまひひめびょう』があります。玉日姫は聖人の妻。。。「妻は恵信尼公じゃなかったの?」と思いますよね。ご説明は市発行のパンフレットから抜粋します。

親鸞聖人の妻は、恵信尼説、玉日姫説など諸説ありますが、恵信尼=玉日姫と考える説から「玉日姫廟」と呼ばれているお墓。
お散歩マップ笠間市稲田ほっこり日和

当時、どちらの名前で呼ばれていたかわかればスッキリしますが。。。とにかく、聖人の妻の墓ということなのでしょう。公式サイトには次のようにあります

玉日姫と恵信尼公の関係・ご消息については諸説あるが、稲田禅房の東 800mの丘にご本廟が遺されている。終生お仕えした池田権頭是貞により、この地に葬られたと伝えられる。ご遺徳を偲ぶために全国に玉日講が結成されている。境内のご案内&Photos/稲田禅房西念寺

玉日姫廟の門

御廟はかなりしっかり造られています、屋根のある休憩スペースや、きれいな草花、『玉日の君顕彰歌』なるものも。顕彰歌には『全国玉日講総本部 稲田禅房西念寺』とあります。そう、ここは西念寺の飛び地。西念寺は恵信尼=玉日姫と捉えているんですね。

大変厳かな場所です。静かにお参りしましょう。

MEMO
玉日姫廟の住所は『笠間市稲田2245』です。駐車場はありません。ただ、近くにある太古山集落センター(住所:茨城県笠間市稲田2257)なら一時的に停められるかもしれません。自己責任でお願いします。

アクセス

名称 稲田禅房 西念寺
住所 〒309-1635 茨城県笠間市稲田469
駐車場 あり
TEL・予約 0296-74-2042
Webサイト 公式サイト
笠間観光協会内観光いばらき内
常陽リビング内

まとめ

西念寺お参り

西念寺は親鸞聖人が布教の拠点とした『稲田の草庵』のあとに建てられました。

聖人のご遺骨もあって数ある親鸞伝説や教えについて考えるにもよい場所です。

自然に囲まれた美しい境内ですので、心穏やかにお参りしてみてはいかがでしょうか。


参考図書
高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ/小池秀章

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