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若い人はほとんど聞いたことがないであろう「二十三夜尊」。月待講そのものが消滅しつつあるから知るはずありませんよね。でも50年もさかのぼればどの地域にもありました。
寺社巡りをしている方ならご存知かと思いますが、小さなコミュニティ(講)の信仰なので石碑などは残っているものの、決して目立つものではありません。なので改めて説明するとなると難しいかもしれませんね。
この記事では二十三夜尊のあるつくば市の解脱寺(浄土宗)をご紹介します。月と星に対する信仰が盛んだったお寺です。ぜひご参考に。茨城県民でしか知らないであろう『頭白上人の伝説』とあわせてどうぞ!
由緒
以下の由緒は主に『茨城の寺(一)』を参考としています。
開基は瓜連町(現在の那珂市)常福寺の五世弁誉上人。小田城主・小田讃岐守孝朝の加護があった。当初は小田橋にあり、前島山一心院解脱寺と称していた。
戦乱により寺が焼失するも団誉上人によって再建。
佐竹氏の寺領となり星宮大権現と妙見菩薩を安置する
*戦争により供出
弘法大師作といわれる阿弥陀如来像が本尊です。見事な造りと評判ですが、浄土宗寺院なので真言宗の開祖の名前は不思議。他にも恵心作の観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来像などの寺宝がありますが、こちらも別説あり。
佐竹領になってから現在に通じる星宮大権現と妙見菩薩が安置されたというので、それ以前は違った信仰だったとも考えられます。小田氏は真言宗への信仰が篤かったので、本尊の伝承も意外に古いのかもしれません。
創建には常福寺(現那珂市)のご住職が関わっています。当寺からずいぶん離れていますので、その影響力の高さがうかがえますね。布教に力を入れたこともあるのでしょう。
常福寺といえば「六夜さん」として親しまれ、例大祭は旧暦9月26日と27日(午前まで)です。月に対する信仰という意味では当寺に通じています。こちらの場合は二十三夜尊ですから23日が縁日となっております。
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アクセス
名称 | 勢至山 一心院 解脱寺(浄土宗) |
住所 | 茨城県つくば市小田3146 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
境内
お寺の入口は少々特殊。こちらの参道の奥が山門となっているのですが、車両では通過できません。突き当りを右に進み駐車スペースを見つけました。
昔ながらの電灯がなんとも味わい深い。山号は「勢至山」。勢至菩薩は二十三夜講の本尊とされることに由来するのでしょうか。どう見ても山寺ではありませんからね。
山門の手前には小さな橋がかけられておりましたので、昔は水路があったのかもしれません。
ちなみに当寺の宗派である浄土宗の開祖・法然上人は勢至菩薩の生まれ変わりという説が中世からありました。それが法然を師とする親鸞の妻・恵信尼の口から出たことがあるというのも面白い。
そのお話は恵信尼が娘の覚信尼にあてた手紙の中で、自分の見た夢でそのように感じたと語っています。じつはその夢を見た場所のは常陸国の下妻だったりするのです。詳しくは以下の坂井千勝神社の記事で。
勢至堂
山門をくぐった右手に手水舎。正面は勢至堂(二十三夜堂)です。むかしは三夜さんと呼ばれていたそう。二十はどこにいった。堂内に大勢至菩薩が安置されています。
二十三夜は月の満ち欠けを示していて、その夜には地域の人々が集まって月を拝みます。月待ち講には男女が分かれることもあるのですが、二十三夜の場合は特にそういったことはありません。
ご本尊は基本的には勢至菩薩、神道系では月読尊です。基本的には宴会を含む社交の場であり、信仰よりもそちらが優先される場合もあったとか。今となっては聞きかじりでしか説明できない古い慣習のひとつです。
屋根も独特です。手前の装飾は月のように見えませんか。上に乗っているのはシャチホコでしょうか。そういえば、潮来市の辻にある二十三夜尊も屋根にしゃちほこがありました。月と鯱はどんな関係なんでしょうね。
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本堂
なかなか素朴で味わいがありますね。わたしは薄い黄土色の部分が好きです。星宮と菩薩を一緒に安置することは神仏習合のあらわれ。 現代ではほとんど見られないでしょう。
解脱寺は佐竹氏の影響で星宮大権現と妙見菩薩を安置したと前述しました。妙見菩薩は北極星を神格化したもので特に武士から信仰されていました。
揺るがない不動の輝きがよいのだとか。解脱寺は二十三夜尊もありますから、昔から星に対する信仰が篤かったのでしょう。似た信仰として市内の北斗寺との関係も気になるところです。
ところで、星宮大権現についてはよくわかりません。名前からすると仏教よりも神道寄りでしょうか。妙見菩薩の化身といった見方ができるかもしれません。
埼玉県の円泉寺のブログによると星宮神社は栃木県に非常に多いそうです。星宮神社は明治の神仏分離以降の名前でそれ以前は星宮大権現と考えられますから、栃木の歴史を紐解くと大権現の正体に近づけるかも。。
その栃木県、じつは解脱寺に関係する民話にちょろっと登場します。なにか関係があったら面白いのですが。。
参考 栃木県の元虚空蔵菩薩・元日光修験関連ー星宮神社と磐裂神社円泉寺
頭白上人。知る人ぞ知る名前でしょう。生まれや育ち、すべてがミラクル。上人に関連した2つの伝説をご紹介します。
むかしむかし、下野国の名主の家におしのという美しい娘がおりました。おしのが年頃になると家のあとを継ぐために佐源次という婿をもらったのですが、どうも母親との関係がうまくありません。
ある日、母親は耐えかねて佐源次を追い出してしまいました。しかし、おしのにとっては大切な夫。このままではいけないと自分も家を出て夫を探す旅をはじめました。
長い旅の果て、佐源次は常陸国の山ノ荘(土浦市新治)にいるとわかりました。やっと夫に再会できると喜んだのもつかの間。おしのは山中で強盗に殺害されてしまったのです。
それからしばらくして小田の『さる子だんご』に夜な夜な奇妙な女が来るようになりました。疲れ切った顔をしてか細い声でだんごを求めると真っ白な手でお金を差し出します。若い店の者が気になって女のあとを追うとそこはお墓でした。
少しするとお墓の中から子どもの鳴き声が聞こえます。気味が悪くなった若者は近くの村人を集めて鳴き声のもとを探しました。
やはり墓の下でした。中を掘ると赤ん坊が母親の死体にすがって泣いました。女はおしので佐源次の子を亡霊となって育てていたのです。
この赤ん坊は生まれたときから髪が真っ白だったので頭白と呼ばれるようになりました。頭白は近くの解脱寺に預けられ、やがて高僧へと成長していきました。
ちょっと怖いお話ですが、母親の愛情があらわれていると思います。これは全国的に耳にする物語なのでしょうか。鉾田市の無量壽寺にも似た伝説があります。あと『地獄先生ぬ~べ~』でも現代風に書かれていました。
さらにこの伝説は続きがあるのです。しかも小田氏の滅亡や佐竹氏にも関係しています!
母の菩提を弔うため、全国を巡礼した頭白上人は永正12年(1515年)にふるさとに戻ってきました。そして母のお墓に五輪の塔を建て供養を行いました。
ところが、その当日、小田城主の小田左京大夫が多くの家臣を連れて鷹狩にやってきたのです。左京大夫と家臣は馬で墓所を荒らし回ったので、頭白上人は激怒しました。
「わたしは次の世で武人となって生まれるであろう。そして小田氏を決して許しはしない」
頭白上人は数年後に亡くなりました。
それから数年後、常陸国の北部で佐竹義重に長男が生まれました。成人して『義宣』を名乗ると父の後を継ぎ、破竹の勢いで常陸国を平定していきました。
そして小田氏も義宣の勢いに押され、ついには滅ぼされてしまったのです。人々は小田氏を滅ぼした義宣を予言を残した頭白上人の生まれ変わりと信じるようになりました。
小田氏が頭白上人のリベンジによって滅ぼされるショッキングな結末。頭白上人が実在したかどうかはわかりませんが、伝説の五輪塔はいまでも旧新治村の金嶽神社の境内にあります。
頭白は「とうはく」ともいわれます。
伝説の語り手はだれか
頭白上人が生まれ変わって母のかたきを討った物語。筋としてはわかるのですが、だれがこの伝説を語ったか興味がありませんか。
小田氏と佐竹氏のうち、どちらも積極的に語りたがらない内容ですし、一般の村人はそもそも事件があっても知らない可能性が高い。
この民話はバリエーションが豊富で上人の両親ははじめから山ノ荘に住んでいたともいわれます。その場所は東成寺(東城寺)のすぐ近くだったとか。このお寺は真言宗で小田氏に数百年も保護されていました。
でも、小田氏の前は(桓武)平氏に保護された天台宗のお寺だったのです。小田氏にお墓を荒らされて怒った頭白上人。平氏や山ノ荘の村人とシンクロするものがあるんですよね。
今回、解脱寺や小田氏と関係するのでつくば市のお話としてご紹介しましたが、本当は山ノ荘(土浦)で語り継がれていたのかもしれませんね。
・つくば市の解脱寺は星に対する篤い信仰があった
・頭白上人の伝説があることから、僧侶の教育の場としても活躍していたのかもしれない
・上人の伝説は亡霊や恨みといったおどろおどろしい内容となっている
茨城の寺(一)|今瀬文也
いばらきのむかし話|編:藤田稔
茨城の伝説|編:茨城新聞社
茨城の伝説|編:茨城民族学会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
寺院巡りにどうぞ