wata
お寺には住職がいて檀家が支えている。。一般的にはそうですよね。でないと経済的に厳しいです。ただ、土浦市にはそうともいえないお寺が。それが清滝寺です。
もちろん廃寺ではありません。長らく住職不在でしたが地元の方や信仰のある方々によって守られ続けてきました。今回は坂東三十三観音霊場に数えられる古刹である清瀧寺をご紹介します。
度々の火災により多くの寺宝が失われましたが、なんともミステリアスな民話は残されました。もしここでご紹介する「七不思議」についてご存知でしたら、ぜひご一報くださいね!
この記事でわかること
- お寺の由緒とご利益
- 清滝寺の「七不思議」
- 御朱印のいただき方
由緒
以下の由緒は境内の立て札と本堂再建の記念碑をもとにまとめました。
推古天皇勅願により聖徳太子作の聖観音像を竜ヶ峯に安置して創建されたという
徳一により古観音(山の中腹)に移されたという
小田氏と佐竹氏の兵火により七堂伽藍が焼失
現在地に再建
*『坂東観音巡礼(平幡 良雄)』より
不審火により本堂焼失
不審火により仮本堂焼失
8月竣工。昭和50年に檀徒による再建が決定。翌年再建委員会結成。同年に着工した。
笠間佐白山観世音寺住職により謹刻。入仏開眼法要が執り行われる
「茨城県真壁町 鋳物師 小田部庄右ェ門」の銘あり
ご本尊は聖観世音菩薩です。数ある観音の中で最古にしてすべての観音さまの元の姿ともいわれます。その御利益は多岐にわたって万能。そして現世利益であることが特徴です。
聖徳太子や行基菩薩作という伝説の菩薩像は昭和の火災によって焼失しました。現存する像は観世音寺(正福寺)のご住職が彫ったものです。
当寺は坂東三十三観音霊場の二十六番目の札所です。同霊場の歴史は養老年間(717-723年)まで遡るという伝説がありますが、実際には12世紀に三井寺の覚忠大僧正の頃といわれます。
極端に古い時代のことはともかくとして、江戸時代には多くの参拝者が訪れたことはたしかでしょう。度々の火災により寺宝が失われてしまったのは残念無念。
また、創建については次のような異説も有名です。
また『坂東霊場記』には「南明山清瀧寺は、筑波権現降遊の砌り、行基大士草創の地なり、本尊聖観世音菩薩(御長丈八)は、同じく開山大士の彫造、今の堂地中興の事は、花山法皇の御叡慮なり」ともある。筑波の二柱の神が小野山に遊幸された折「頻りに渇の心地し」天の鉾をもって地を突かれたら清水が滝の如く、南北二ヵ所から湧き出たので、南の清明なる滝口に僧行基が寺を建てられたというのがその梗概である。
坂東三十三所観音巡礼|P118-119
公式でないにも関わらずこの説が広まっているのは寺号の由来を説くためだからと思われます。ちなみに「筑波の二柱」はイザナギとイザナミと考えられているようです。「天の鉾」は「天の沼矛」なのでしょう。
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もとの本尊は行基菩薩作(あるいは聖徳太子)と伝わる聖観音。
残念ながら火事で焼失してしまいました。
アクセス
名称 | 南明山 清瀧寺(真言宗豊山派) |
住所 | 茨城県土浦市大字小野1151 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
仁王門
小さめの駐車場に車を停めていざ参拝。岩清水で清めたらやや歪んだ石段を登ります。すると目の前には立派な仁王門。1844年(天保15年)に建てられました。仁王像は1818年(文化15年)に信徒が再興したもの。
昭和44年の火災で本堂は燃えたものの仁王門と像は無事でした。ただ、近年損傷が激しかったので1998年(平成10年)から2年かけて修繕。1,348万円もの費用を小野の信徒が多くの働きかけをして集めましたそうです。
境内の石碑によると阿形は修繕の際に阿弥陀如来像を胎内仏としていることが分かりました。貴重な文化財を次の世代につなげることが出来てなによりですね。
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本堂
現在の本堂は鉄筋コンクリート製。何度も火災にあったことが理由でしょうか。木造ではありませんが信徒の方々の選んだ姿です。巡礼者としてはお参りできることに感謝です。
境内の石碑によると、かつてこの場所は官有地で伽藍は借地の上にありました。それを信徒が大蔵省(現在の財務省)と茨城県に陳情して無償譲渡を受けたそうです。
つまり、現在の土地がタダで清瀧寺のものとなりました。清瀧寺は住職不在でしたが、信徒の熱意がこのような特別な措置に繋がったと思います。
いまの境内には住職のお名前がありました(古幡章善氏)。つくば市の慶龍寺の住職と同名ですが兼務されているようですね。仁王像の開眼法要の儀もされたということで信徒にとって心強い存在でしょう。
令和6年に参拝したところ上のような木像がお賽銭箱の前に安置されていました。いわゆる御前立ですね。やはりなにか形があったほうが祈願しやすい方もいることでしょう。
炭化した獅子
本堂の右手に獅子の木像があります。一見それとはわからないですよね。昭和44年の火災の際、本堂にあったので炭化してしまったのです。火災の恐ろしさを物語っていますね。
ご詠歌
清瀧寺には次のようなご詠歌があります。ご詠歌は仏様の教えをわかりやすく歌にしたもの。坂東観音霊場にちなんだ地名などが盛り込まれているんですよ。
ご詠歌
わが心 今より後は にごらじな 清滝寺へ 詣る身なれば
お参りした上で詠んだらスッキリした気持ちです♪
御朱印
社務所で書いてくださる方は地元のボランティア。交代で参拝者に対応してくれています。とてもありがたいですね。
近年は限定の御朱印をいくつも頒布しております。こちらは新元号『令和』を前にした2019年4月限定の御朱印です。他にも小野小町の挿絵の入った御朱印などがありますので、授与所でチェックしてみてください♪
- 祭日が近づくと、里人は野良仕事が手につかなくなる。
- 境内にはあらゆる鳥類が近づかない。左甚五郎が彫った雌雄の龍が恐ろしいからという。
- 柳で作った下駄を履くことは禁止。履けば石段で必ず割れる。
- 謎の鏡「えんぼたごん」があった。小さくて重く、妙なる音色を発したという。
以上です。足りない?そうなんです。この民話は『新治村の昔ばなし(仲田安夫)』にあるのですが、それも4話しか紹介していないのです。というわけでこれ以外をご存知の方いれば教えてくださいね。
ちなみに2番目は観音さまが柳で作られた舟に乗って日本にやってきたという伝説に由来するといわれています。境内の席には元禄期の本尊と本堂正面の彫刻(龍)は柳で作られたそう。柳の神聖視は確実のようです。
当寺の本堂とご本尊は火災によって焼失してしまいましたが、『茨城の寺(三)』に写真がありましたので参考のため以下に引用させていただきます。
・清滝観音の創建は徳一。当初は法相宗と思われるが、現在は真言宗
・坂東三十三所観音霊場の巡礼地として古くから知られる
・御朱印の種類は豊富。御本尊以外にも複数ある
坂東観音巡礼|著:平幡良雄
茨城の寺(三)|今瀬文也
新治村の昔ばなし|著:伊藤三雄
民話100話 土浦ものがたり|著:本堂清
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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