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- 土浦花火大会のはじまり
- 神龍寺の秋元梅峰和尚の社会貢献
- 和尚の花火以外の功績
もうすぐ土浦の花火大会。土浦市民には恒例のことですが、やはり楽しみです。
正式名称は土浦全国花火競技大会。全国の花火職人が内閣総理大臣賞を目指して腕を競います。職人の来年の仕事を左右するので採算を度外視した豪華な花火が見れますよ。
2017年は10月7日(土)に開催予定。天気が心配ですが、過去自粛以外で中止はありません。少々の雨は決行しますので、今年も予定通りでしょう。
大会は今年で86回目。長い歴史があって、その起源についてもよく紹介されています。市内の神龍寺の秋元梅峯和尚が中心となってはじまりました。
花火に詳しい方は多くても、神龍寺や和尚のことはあまり知られていないのではないでしょうか。今回は土浦の花火をより楽しむため、起源について詳しく紹介します。
神龍寺とは
神龍寺は土浦市の文京町にある曹洞宗のお寺。享禄5年(1532年)に当時の土浦城主菅谷勝貞が創立したと伝えられています。
菅谷氏や江戸時代の土浦城主土屋氏の菩提寺としても有名。土浦城のそばにあったことで土浦の歴史と深く関わってきました。(土浦城は現在の亀城公園の敷地にあった)
江戸時代に活躍した商人兼町人学者色川三中の日記にもよく出てきます。交友関係の広い三中は冠婚葬祭のたびに神龍寺を訪れました。
土浦の奇才沼尻墨僊は旧本堂の天井画を描きました。1.6m四方の板に水墨で描いた雲龍図は市の指定文化財。当時、住職だった大寅和尚と親しかった証でしょう。
現在の立派な本堂は1998年に新築されたもの
梵鐘
梵鐘は小田部鋳造の製造です。小田部鋳造は創業800年!関東で唯一梵鐘を製造している会社です。
梵鐘には昭和46年に製造とありますので、かつての梵鐘はなくなってしまったのですね。戦中に失ったと聞いたことがあります。
神龍寺の梵鐘は土浦八景にも登場。八景はその地方で優れた景色を8つ集めて俳句や漢詩・和歌にしたもの。近江八景や金沢八景が有名ですが土浦にもあるんですよ。
見どころは他にもありますが、花火に関することをご紹介します。
2つの慰霊塔
神龍寺の正面の駐車場付近に2つの塔があります。
1つはとび職の慰霊塔。土浦の発展はとびなしで考えられません。石碑には土浦若鳶会、土浦鳶職組合、そして歴代市長の名前が続いています。
そして、もう1つは霞ヶ浦海軍航空隊の航空殉職者供養塔です。現在の阿見町にあった航空隊の殉職者を供養をしています。
航空隊ができたのは1922年。当時の航空隊には大きな悩みがありました。飛行機事故です。その頃の日本は飛行機の製造も運転技術も不十分なもの。霞ヶ浦航空隊は発足してから3年ほどで25名の殉職者を出しています。全国で約60名いた内の25名なので指揮官はかなり悩んだと思います。
悩んでいた指揮官は当時海軍大佐だった山本五十六です。ほとんど説明不要の人物だと思いますが・・・山本はのちに連合艦隊司令長官としてアメリカの真珠湾を攻撃。ブーゲンビルで戦死したあとは、海軍元帥の称号が贈られています。
山本は1924年に霞ヶ浦海軍航空隊にやってきて翌25年まで副長と教頭職に就きました。かなり悩んでいたようで心理学を用いた適性試験まで導入して、事故をなくそうとしていました。しかし、事故は一向になくならず、神龍寺の梅峯和尚を頼ったのだと思います。
秋元梅峯和尚
お堂のすぐそばにある梅峯和尚の石像です。細かく彫刻されていて、優しい人柄が伝わってきます。
山本五十六は阿見の霞ヶ浦海軍航空隊にやってきたとき40歳でした。神龍寺の山門の近くにある民家に下宿していたので、和尚とも交流があったのでしょう。当時の和尚は42歳。年が近く親しめたのかもしれません。
それから殉職者の供養を相談し、花火大会へと繋がるわけですが。。。寄り道して、梅峯和尚について知りましょう。民話100話土浦ものがたりからかいつまんで紹介します。
本の中では梅峰という文字が出ますが、梅峯に統一します
和尚になるまで
梅峯和尚は1882年(明治15年)に神龍寺の第23代和尚の次男として誕生。もともとは峰之助という名前です。
お兄さんがいましたので住職を継ぐ予定ではありませんでした。お父さんは住職を長男に継がせて、峰之助を軍人か学者にしたかったそうです。
峰之助少年は利発でした。7歳ですでにお坊さんになろうとしていて、自らの意志で梅峯と改名しました・・・!?
「僕の理想は、雪を割って咲く梅のように、香ばしい人になりたいんだ、そして将来偉いお坊さんになるんだから、梅峯として下さい」
民話100話土浦ものがたり/本堂清著
以来、名前を梅峯とし、勉強に運動に励みました。
中学校を卒業したあとは東京の曹洞宗の学校へ。しかし、宗教界が堕落していると感じ、医術を学んでお寺に役立てようと考えます。ところが、その頃にお兄さんが病気で逝去。お父さんはすでに亡くなっていましたので、寺に戻り住職を継ぐことに。
和尚になったとき(1904年)は日露戦争のさなか。そのため、和尚は看護手として戦地に送られました。戦地での活躍はめざましいもので二等看護長に抜擢。(まだ22歳!)そのあと無事に帰国し、勲章(勲七等青色桐葉章)を受けています。戦地での活躍は医術への志があったせいかもしれませんね。
土浦に戻ってからは名寺の主人として人々から尊敬を受けました。
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大日本仏教護国団を組織
住職となった頃、人々の仏教に対する考えは良くありませんでした。明治はじめにおきた廃仏毀釈が土浦にも影響していたからです。全国的なできごとでしたが、茨城は特に激しかったといいます。
和尚はそんな時代からこそ、み仏の教えを広めようとあえて厳しい道を進みます。1912年(大正元年)に筑南慈済会を結成。刑務所を出た方をお寺で預かり、更生させてから社会復帰させる取り組みです。(20年以上続け、数百人を社会復帰)
翌年1913年には大日本仏教保護団を組織。ここで和尚は団長として本格的に布教、貧民救済、産業の振興などに力を注ぎはじめます。
1915年、行方郡に欠食児童がいると新聞報道。それを知った和尚は土浦警察署と各寺院に協力してもらい問題解決にあたります。そして政府と交渉し、外国のお米を安く手に入れることに成功。お米は無料配布されたり、安く販売されて人々を救いました。(4月8日。お釈迦様の誕生日のことでした)
同じ年、日露戦争で傷ついた元兵隊と政府の間に入って交渉を成功。
当時、物価の上昇によって生活に困る廃兵が大勢いました。廃兵とは戦争によって手足を失うなどした兵のこと。働けませんので政府から与えられるお金が頼りでした。
しかし、物価が上がると受け取る金額が同じままでは貧しくなってしまいます。一般の家庭でも困窮者がでていましたので、働けないとさらに苦しい。そこで廃兵たちは明治神宮の前で絶食をして訴えていました。
和尚は兵と警官が衝突しないように、政府や各政党にお願いをしてまわりました。そのこともあって兵たちへの一時下賜金の願いが政府に受け入れられたのです。
貧しい人が増えた原因はお米の価格が高くなったため(インフレーション)
関東大震災の避難民の救済
1923年9月。関東大震災が発生。土浦の被害は大きくありませんでしたが、東京周辺は多くの犠牲者がいました。東京の家や建物は激しく壊れて人の住める状況でないため、土浦の大勢の避難民がやってきました。
神龍寺は境内にテントを張り、1日300人を宿泊させました。避難民は9月から12月までで2000人以上。護国団と青年団の救済活動により、たくさんの人が救われています。
2年後に開催される花火大会は、この震災の犠牲者の冥福を祈るためでもありました。
花火大会の誕生
震災から2年後の1925年(大正14年)。土浦ではじめて花火大会が開催されました。初代主催者は梅峯和尚個人とも大日本仏教護国団ともいわれます。正確にはわかりませんがどちらも深く関わっています。
花火大会の目的はいくつもありました。
国家に命を捧げた英霊たちを慰めるため。不況に苦しむ土浦の町を救うため。護国団でなくなった者に対しての追善供養。そして、関東大震災で犠牲となった方の魂の冥福を祈るため。
しかし、花火大会の案はすぐに理解を得られませんでした。和尚が少しずつ説得してまわり、やっと1回目を迎えたのです。
ただし、その頃の花火大会は専門職の方が集まるようなものでありませんでした。花火は農民の手作りで、いまと比べるとかなり未熟・・・ところが、たくさんの方が呼びかけに応じたので、回を重ねるごとに規模が大きくなっていきました。
はじめの頃は霞ヶ浦の湖畔で開催。会場が桜川の方に移ってから名前を競技大会に変えて、いまのようになりました。
先週の花火大会の桟敷席です。多くの職人が設営していました。完成までもう少しといったところ。先が見えないほど立派ですが、この席に座れるのはほんの一部。ほとんどの方はシートを敷いて座ったり、立ち見です。
花火大会がはじめて開催された大正時代は激動でした。
国の経済は不安定。人々は食べ物に困ることさえありました。また、関東大震災によってたくさんの命が失われ、国土は大きく破壊。海の向こうでは世界大戦が起きていて日本も徐々に戦争へ関わっていきます。だれも明るい未来を描くのが難しかった時代です。
そんな時代だからこそ立ち上がった人たちがいて、今につながる見事な花火大会が生まれました。どんなときでも希望を持っていたいですね。
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一般的な花火大会より遅い時期なのは、農家の繁忙期を避けたからです。
アクセス
名称 | 宝珠山 神龍寺 |
---|---|
住所 | 茨城県土浦市文京町1-27 |
Webサイト | 曹洞禅ナビ内 |
電話番号 | 029-821-0231 |
駐車場 | あり |
イラスト『神龍』
神龍寺という名前、とてもいいですよね。ドラゴンボールが好きなこともありますが・・・神と寺の文字が一緒にあるって面白い。
神龍寺はやはり龍に守られているのんじゃないか。神の龍だから、もっとも格上の黄色で・・・そんなことを想像しながら、熊井さんに描いていただきました。とても神々しい龍が境内を飛び回っています。
ところで、イラストの龍は炎をまとっているように見えます。龍は川や水に関わりのある存在なので、火との組み合わせは珍しいですね。でも、花火とゆかりのある神龍寺らしくて、とっても気に入っています!
それに、神龍寺は土浦の火葬の歴史にも関わっているんですよ。
火葬場の建設
土浦市民なら火葬場の建設に和尚が関わったことを覚えておきましょう。
土浦の市営斎場は花火大会の会場のすぐそば。その場所に初めてできた火葬場はもともと和尚率いる護国団のものでした。
土浦は大正時代まできちんとした火葬場がありませんでした。そのため伝染病でなくなった方は山などで焼いていたんです。また、土浦は大雨や利根川の逆流によって霞ヶ浦が氾濫し、たびたび水害のある町でした。水害で亡くなった方はたいへん悲しい姿だったので、和尚は火葬場の必要性を訴えていました。
1918年、そうした経緯から和尚は土浦の有力者の後援を得て、火葬場の建設を行いました。お金を集めて、敷地を購入し、最新の火葬場を建設できたのは和尚の活躍あってのこと。
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火葬場の管理は1928年まで護国団が行いました。以降は土浦町に譲られて、後に市営斎場となります。
まとめ
この記事のまとめ
- 土浦の花火大会は戦没者の慰霊・震災復興・地域活性化・護国団の追善供養などの目的があった
- 神龍寺は被災者の避難地域となったり、貧しい方を救済する場にもなった
- 和尚は火葬場の建設にも重要な役目を果たした
参考文献
民話100話土浦ものがたり/本堂清
土浦全国花火競技大会公式パンフレット/土浦全国花火競技大会実行委員会
沼尻墨僊/土浦市文化財愛護の会
爺さんの立ち話/阿見町
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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