予科練平和記念館と特攻隊(阿見町)

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

特攻隊を知らない方は少ないでしょうが、阿見町でその訓練がされていたことはあまり知られていません。

私は阿見町のとなり、土浦市で育ちましたが学校で教わりませんでした。考えてみれば不思議ですよね。平和について考える大切なきっかけなのに。。本来は民間で身近な人が教えるべきなのかもしれません。

阿見町には、かつて霞ヶ浦かすみがうら飛行場予科練がありました。前者は戦闘機が飛び立つ場所。後者はそれを育てる機関です。

いずれも日本の敗戦後に解体されましたが、予科練の跡地に予科練平和記念館が建ち、その歴史を語り継いでいます。この記事では記念館で触れた予科練についてご紹介します。

予科練平和記念館とは

予科練平和記念館入り口

予科練平和記念館入り口

予科練は海軍飛行予科練習生かいぐんひこうよかれんしゅうせいを省略した呼び方(その制度を指すことも)。パイロットの養成機関です。

予科練生は卒業後に正式なパイロットとして航空隊に配属されて、飛行機(戦闘機含む)に乗る役割を担います。パイロットは偵察などさまざまな役目がありますが、戦況の悪化によって特攻隊として飛び立つようになりました。

予科練平和記念館は霞ヶ浦航空隊や予科練生について語り継ぐ場所。当時の出来事や人々の想いを伝えることで、現代の人々が平和について考える際の助けになります。

館内は7つのテーマにわかれていています。館内は撮影禁止なので、館外の写真を使いながら中にあったことを紹介します。

7つのテーマ
  1. 入隊
  2. 訓練
  3. 心情
  4. 飛翔
  5. 交流
  6. 窮迫
  7. 特攻

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各テーマは土門拳さんの凄まじい迫力の写真で紹介されています。予科練生の命が激しく燃えているようでした。実は展示されている写真はすべて抹消される予定でしたが、奇跡的に誰にも気づかれず残っていました
MEMO

現在、『特攻』とは戦闘機に火薬を積んで体当りすることにより相手に打撃を与えることとして使われます

予科練生

予科練制度は昭和5年(1930年)からはじまって、終戦まで15年間続きました。全国で14才半から17才の”少年”が試験によって選抜されて、約24万人が入隊。うち約2万4千人が飛行練習過程を経て戦地へ赴きました。特別攻撃隊として出撃したものが多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました。なお、阿見町の予科練は昭和14年に神奈川県横須賀から移転されて出来たもの。

館内では当時の少年たちがどのような気持ちでパイロットを希望したかがわかります。「かっこいいから」という少年らしい考えもありましたが、家庭の貧困など経済的な事情によるものも多くありました。当時の社会情勢や家族との関係を知ると、少年たちへの理解が深まるような気がします。ただ、終戦直前になると「国のため」という声が多かったです。国がなくては経済も家族もありませんから、同じことなのかもしれませんが。。

零戦(零式艦上戦闘機)

記念館の敷地には零戦の実物大模型があります。正式名称は『零式艦上戦闘機 二一型』といいます。『ゼロ』とつくのは、皇紀2600年に造られたので、その下二桁がゼロだったことに由来します。(皇紀は日本式の年の数え方)平成27年に記念館が5周年を迎えたので、その記念事業として造られました。

零戦の模型

零戦の模型

零戦が世に出たのは昭和15年(1940年)。まさに予科練生の憧れの機体でした。零戦に乗れるのは選ばれし者だけ。

予科練生が教育課程で飛行機に乗れるのはたったの一度でした。それはパイロットの適性があるかを判断する試験のとき。予科練生になるだけでも難しいのにさらに試験によって選抜され、正式なパイロットになってからさらに厳しい訓練を受けます。零戦のパイロットは能力だけでなく、強靭な精神の持ち主でした。

航空隊と霞ヶ浦

予科練平和記念公園から見る霞ヶ浦

予科練平和記念公園から見る霞ヶ浦

記念館のとなりに記念公園があります。遊具もあるので子どもたちがたくさん遊びに来ています。

公園の小高い場所にのぼると、すぐそばに霞ヶ浦があることがわかります。航空隊と予科練がこの地にある理由のひとつが霞ヶ浦です。陸上機と水上機の両方の訓練ができるからです。

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つくばに学園都市ができたのもの霞ヶ浦があったから。霞ヶ浦はこの地にたくさんのものを与え続けてきたのとつくづく感じます。

回天(回天一型)

回天

回天

人間魚雷・回天の実物大模型があります。人間魚雷とは、文字通り人が操縦して、そのまま爆弾となる兵器です。零戦が空の特攻とするなら、回天は水中の特攻。予科練からは回天の搭乗員の約7割以上を占める約1,000名が着任しました。そのうち40名が戦没されています。

特攻は九死に一生ではなく、100%命を落とす作戦です。作戦は生きるために立てるものですから、特攻を作戦といっていいかわかりません。でも、それを実際に行った当時の人たちの気持ちを理解する努力はしたいです。

阿見町は終戦の年である昭和20年(1945年)6月10日に大規模な空襲を受けました。それによって予科練生や近隣住民など、約300名が亡くなっています。予科練生はそうならないために特攻の道を選んだ。。のでしょうか?色々な考えがあって、結論は出ません。慎重に考えを巡らせて、今後に役立てていくしかないのでしょう。

予科練平和記念館は強い哀しみを感じますが、いまの私たちにとって重要な事を残しています。土浦と阿見の方々以外にも触れて欲しい場所です。

雄翔館への案内板

雄翔館への案内板

記念館のとなりには雄翔館と雄翔園があります。いずれも戦没者の慰霊のためのもので、雄翔館には遺品や遺書・遺影などがあります。遺書にはまさに『気持ち』があります。平和について丁寧に考えていくための参考にしてはいかがでしょうか。

アクセス

名称 予科練平和記念館
住所 茨城県稲敷郡阿見町廻戸5−1
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
駐車場 あり
休館日 毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、12月29日~1月3日
入場料 大人500円(団体400円)、小中高生300円(団体240円)
Webサイト http://www.yokaren-heiwa.jp

まとめ

予科練平和記念館はかつて予科練のあった敷地に建てられました。

霞ヶ浦航空隊と予科練生の想いを現代に伝え、平和について考えるきっかけになっています。

将来、同じ悲劇を起こさないためにも足を運んでみてはいかがでしょうか。