佐竹義宣と車斯忠|水戸市

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

来年(2019年)5月1日から、新しい年号(元号)になります。4月30日に天皇陛下が譲位されて、翌日に皇太子さまが即位されます。平成が終わると思うと少々さびしいですが、気持ちを新たにしなくてはいけませんね!

世の中の変化といえば、武士のいた時代はスゴかったと思います。将軍や領主が変わるたびに、人々は「次はどんな世の中になるのか」とハラハラしていたのではないでしょうか。自分たちとの関係がよくなかったら命に関わりますよね。

今回はそんな時代の変化に逆らった武将をご紹介します。いまの北茨城市にあった車城の城主車斯忠くるま つなただです。左せんされた主君に代わって徳川家と戦ったことが記録に残っています。

佐竹氏と車斯忠

車斯忠。猛虎たけとらとも呼ばれるそうです。せっかくなのでこの強そうな名前で紹介します。

猛虎は戦国時代に常陸国(いまの茨城県)を統一した大名佐竹氏の家臣。名前のとおり勇猛果敢で数々の戦に参加しました。ときには殿様の命令で別働隊として活動したともいわれます。信用されていたということでしょう。

茨城県民でも佐竹氏の家臣まではご存じないと思いますが、猛虎が最期を迎えた水戸市に逸話が残っていますのでご紹介します。(ただし、当時の史料はなく、江戸時代の伝聞による文献にもとづいています)

逸話とは水戸城乗っ取り計画です。水戸城はもともと佐竹氏の城。関ヶ原の戦いのあと佐竹氏に代わって入城した徳川頼房よりふさを暗殺しようとしたんです。猛虎の独断でした。

結論をお話してしまうと、計画は失敗。城に乗り込む前に捕まってしまい、はりつけの刑となりました。刑が執行された場所やお墓はいまでも市内に残っています。

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暗殺は明らかに無茶。ちなみに頼房は水戸黄門(光圀)のお父さん。暗殺されていたら大変な歴史になったでしょう。

どうして猛虎はこんな無茶をしたのでしょうか。『殿様のため』とか『武士の意地』などと考えられますが。。佐竹氏が常陸国を去った経緯から振り返ってみましょう。ときは天下分け目の関ヶ原の合戦までさかのぼります。

MEMO

猛虎はいまの北茨城市にあった車城の城主ですが、もともといた車氏ではありません。車氏を滅ぼした岩城氏が同じ名を使いました。ややこしいですね。出典付きのサイトがありましたのでご覧ください。


参考
車城ぶらり重兵衛の歴史探訪

猛虎の主君・佐竹義宣とは

佐竹氏は常陸国で大きな勢力を持っていた大名。先祖をたどれば天皇で、はじめて『佐竹』を名乗った佐竹昌義は、それまでみなもとの昌義でした。昌義は平安時代の頃にいまの常陸太田市に住み、勢力の拡大をはじめます。

佐竹氏がもっとも強大になったのは、19代目の佐竹義宣さたけ よしのぶのとき。常陸国を統一し、石高は54万石にもなりました!

その背景には豊臣秀吉。関東には秀吉を脅かす大名がいたため、佐竹氏を味方にし、大きな勢力の誕生を防ぐ狙いがありました。

佐竹氏としては生き残りに秀吉の力が必要だったので、利害が一致して主従の関係となりました。

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佐竹氏が支配していたのは常陸国。南には北条氏直、北には伊達政宗がいました。佐竹氏はどちらとも戦っていますが、秀吉の加護なしでは息の根を止められていたかも

秀吉のおかげで領地と勢力を拡大して順風満帆ともいえる佐竹氏でしたが、慶長3年(1598年)に秀吉が死に大きな転機を迎えます。秀吉の死後、家督は秀頼(息子)が継ぎました。しかし、後見人となった徳川家康は存在感を増していき、のちの関ヶ原に続く動きをみせます。

佐竹氏が仕えていたのは『豊臣家』。しかし、豊臣家は家督を継いだ秀頼の後見人『徳川家康』と対立。佐竹の殿様は非常に難しい立場に立たされます。

関ヶ原の戦いでの態度

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」。秀吉亡き後、対立を強めた徳川家康と石田三成(豊臣家側)は天下分け目の合戦にまで発展。日本中の武士が東西にわかれて戦い、その勝敗は武士たちの将来を決めるものでした。西の総大将は毛利輝元。東の総大将は徳川家康です。

常陸国の佐竹義宣も参加するはずでしたが、西にも東にも属さない中立な態度をとりました。事実上の不参加です。合戦はわずか1日で東軍の勝利となりましたが、家康は義宣の態度を重く見たのか慶長7年(1602年)に秋田への移封を命じます。54万石から20万石へ大幅に石高を減らされましたので制裁の意味が強かったと思われます。

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中立は双方の味方ではなく敵とされる可能性が高いです。味方だったら助けてくれるはずですし、敵だったら気付いてからでは遅いので。。

制裁を受ける理由はわかるのですが。。義宣の考えもよくわかります。佐竹氏にとって絶対的な存在は豊臣秀吉。本来は豊臣家の西軍に味方するでしょう。しかし、秀吉は遺言で秀頼の後見人として家康を選んでいますので東軍に味方するのも筋が通ります。

さらにややこしいことに西軍の石田三成は佐竹氏と義宣にとって恩人。三成は秀吉との仲介人であり、義宣が秀吉から懲罰を受ける際にもかばってくれました。義宣も秀吉の死後、命を狙われることになった三成を救出しています。極めて良好な関係で戦えません。

MEMO

佐竹氏の54万石の石高は太閤検地(土地調査)によって決まりました。検地の責任者は石田三成。佐竹氏の重要な場面にはいつも三成がいました。

家康との関係も悪くありません。家康が指揮した会津征伐に参加していますし、相手が豊臣家でなければ徳川家のために戦ったでしょう。なんといっても秀吉の遺言がありますから。ちなみに佐竹氏の家臣の意見は「東軍(家康側)につくべき」でした。

関ヶ原での佐竹義宣の態度は『日和った(都合のいい方につこうとした)』といわれますが、どちらを選んでも大きな問題が残ります。むしろこの状況で勝てそうな方につくのが『日和った』態度。義宣はだれよりも律儀だったと思います。

猛虎、はりつけの地

話は戻りまして佐竹義宣の家臣猛虎です。猛虎が水戸城に潜入しようとして捕まったあと、処刑されたのは水戸の元吉田、あるいは青柳村という説があります。

香取鹿島神社

青柳村はいまの青柳町でしょうか。青柳町の香取鹿島神社の石碑には村社とありますので、かつて村があったと思います。青柳町は水戸市役所の北。万代橋で那珂川を渡ったあたりです。

市役所の近くに水戸城があったのですが、城のそばに川があるというのは重要なことですよね。馬などで一斉に攻められにくいですから。猛虎が処刑された場所ということですが、城に渡るために一時的に滞在していたのかもしれません。

稲荷塚

もうひとつの処刑地として、元吉田の稲荷とうか塚があります。こちらの説は『常陽芸文(2007年8月号)』と『水府巷談 網代茂著』が紹介しています。

塚はブロック石でつくられた簡素なもの。まったく説明がありません。ゆかりはわかるようにして欲しいものですね。

アクセス

名称 稲荷塚(きつね塚)
住所 茨城県水戸市元吉田町2316-13
駐車場 1〜2台であれば塚のとなりに駐車可

車塚(車丹波守憤恨の地)

車丹波守憤恨の地

はりつけになった後、猛虎が葬られた場所は車塚として残されています。稲荷塚と同じ元吉田にあります。稲荷塚から歩いて10分ほど。抜かれてしまっていますが、お墓を示す看板がありますので間違いありません。

車塚

こちらも稲荷塚同様にブロック石を重ねてつくられています。中にはちゃんとお供えがされていますが、少々さびしい気も。

この場所にはかつて水戸を訪れた吉田松陰も足を運んだそうです。(『吉田松陰来拝之地』という看板もありました)『ぶらっと水戸』さんがご紹介されているので引用します。

 幕末に水戸を訪れた吉田松陰が「千波湖の西を過ぎ高陵に登る、平原あり、蓋(けだ)し操場(磔の地という意味でしょう)なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封(しほう)の時、壁(とりで)を要(まも)り戦死すと云ふ」と東北遊日記にあります。あとから追って来た安芸五蔵の母は丹波の末裔だそうですから、それで行ったのでしょう。
水戸の車丹波遺跡/ぶらっと水戸

常陽藝文によれば、松蔭が訪れたのは1851年の12月26日。水戸城下で会沢正志斎らと会ったときだそうです。松蔭の旅日記にもあります。

猛虎のしたことは私闘。確実に失敗しますし、成功しても主君の佐竹氏が常陸国に戻ることは考えられません。ですから、義宣は決して猛虎に命じなかったと思います。

猛虎の考えは理解しにくいですが、吉田松陰の名前がでたとき少し見方が変わりました。

松陰は自分の信じたことを行動する人。自分や周りの立場も身分も関係なし。ときにはテロリストにもなりかけました。歴史上に名が残る人は、みんな松蔭のように徹底的にやる人たちばかり。。猛虎は無謀なことをしたかもしれませんが、英雄と呼ばれる人たちと同じくらい信じた道を突き進んだのだと思います。

猛虎は吉田松陰のようにひたむきで、主君・佐竹義宣のように義理堅かった。スーパーヒーローではありませんが、もう少し知られて欲しい人物ですね。

MEMO

猛虎は追手から逃れている際、せきをして見つかったといわれます。そのため、せきに悩む者が猛虎の霊に願えば、せきが止まると信じられているそうです。

アクセス

名称 車丹波守憤恨の地
住所 茨城県水戸市元吉田町2461
駐車場 なし。
近くの中沢池公園は駐車可(元吉田町2732)

まとめ

いまも昔も時代の変化についていけずに苦労する方はたくさんいます。『猛虎』こと車斯忠もその一人でした。

斯忠が仕える佐竹義宣は徳川家康から移封を命じられて秋田に移り住むことになりました。斯忠はそれに納得できず、徳川家との私闘に挑みます。ですが、計画は事前にバレてしまい、悲しくもはりつけの刑に課せられました。

斯忠にとってはただの復讐ではなく義を信じて臨んだ闘いだったのでしょう。そのことは後世に語り継がれ、吉田松陰の耳にも届いたとされます。

参考文献

鹿島灘風土記/著:中村ときを
金砂郷村史/金砂郷村史編さん委員会編
常陽藝文 2007年8月号/財団法人常陽藝文センター