wata
明治以前は神仏習合といってお寺と神社は密接な関係だったんですよね。独特の神を祀っていたり、お寺が神社の祭事を任されていたり。
複雑でわかりにくい関係ともいえますが、もともと人間が分類しましたからね。神仏側からしたらそちら考え方の方が自然なのかもしれません。
この記事では水戸市の神応寺(神應寺)をご紹介します。以前ご紹介した別雷皇太神とふか〜い関係。神仏習合を感じ取れる不思議なお話が伝わっているんです。
神応寺は水戸市の元山町にある時宗のお寺。水戸駅の北口から徒歩10分ほど。最寄りの水戸ICからだと車で15分ほどですが、混雑するのでもっとかかると思います。
ちょっと長めですが由緒をご紹介します。
創建は天正19年(1591年)。開基は遊行三十二世晋光上人です。
上人は天文11年(1542年)に常陸小野平(現在の常陸太田市)の城主・小野義高の次男として誕生。11歳のとき引接山 浄光寺へ弟子入り。やがて住職を継ぎました。
その後の天正11年(1584年)、時宗特有の遊行へ。6年ほど諸国を回った後、相模(神奈川県藤沢市)の清浄光寺の住職になりました。
しかし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原攻め(小田原征伐)を行い、小田原城は落城。清浄光寺も焼失しました。上人は生まれ育った小野平へ戻ります。
天正19年(1591年)、水戸城主の佐竹義宣に招かれ水戸の神生平(現在の梅香町)に藤澤道場を建立。大坂(田見小路、現北見町)の雷神宮(大坂大明神)を境内に移して鎮守としました。
寛永10年(1632年)に現在の寺号に改め、延宝8年(1680年)に現在の地へ。一緒に移った雷神宮が別雷皇太神です。
御本尊は阿弥陀如来です。一時は時宗の総本山になりました。そのため全国から多くの信仰を集めたといいます。
小野氏は佐竹氏の一族です。藤沢道場の開基も佐竹氏と考えられますので、佐竹氏ゆかりのお寺といえるでしょう。寺紋は佐竹氏の家紋と同じ月丸扇になっています。
明治の神仏分離までは雷神宮(別雷皇太神)の別当でした。こんなにわかりやすい関係ないですよね。
それにしても諸国漫遊したご住職が創建とは面白い!遊行は開祖の一遍上人がはじめたことに由来するのでしょう。
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藤沢の清浄光寺は慶長年間(1596-1615)に再興しており、晋光上人は晩年に戻っています。
アクセス
名称 | 藤澤山 神応寺(時宗) |
住所 | 茨城県水戸市元山町1-2-64 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 水戸商工会議所 |
年中行事 | 1月1日…元旦修正会 2月3日…節分会 3月21日…春彼岸会 4月8日…花まつり 7月10日…大施餓鬼法要 7月13日-16日…盂蘭盆会 8月13日-16日…月遅れ盂蘭盆会 9月20日…秋彼岸会 |
境内
駐車場は写真の鳥居のような山門の先にあります。
山号の藤澤山は開基の晋光上人が以前住職をしていた地(現在の藤沢市)に由来するそうです。寺号の神應寺は神生平の地名と雷神の『神慮感應』を合わせて名付けられました。
駐車して本堂へ。右手に見えるのは時宗の開祖・一遍上人です。面長のユニークなお顔。。
お寺でいただいたパンフレットには上人と時宗についてありました。一言にまとめると「仏の救いを信じていまを一生懸命生きる」が時宗の教えであり、上人のしてきたこと。。まとめ過ぎかな。
本堂は昭和31年(1956年)に再建されました。それまであったものは昭和20年(1945年)8月1日に空襲によって焼失してしまったんです。
本堂は閉まっていますが、庫裏でお声掛けすれば中でお参りできます。御本尊の他に伝説の『蹴上観音』を直に見ることができますよ。
本堂の大棟には佐竹扇が時宗でよく目にする引き紋と並んで掲げられていました。水戸の中心地でなぜ佐竹?は前述の由緒を知れば納得ですね!
『蹴上観音』の伝説
神応寺の観音様に伝わる伝説がこちらです。
むかし、九州に秋太郎という札付きの悪人がいました。秋太郎は大酒飲みで博打、喧嘩に明け暮れる毎日。秋太郎を知るものは影で悪太郎と呼んでいたほどです。
秋太郎にはひとつだけ大切なものがありました。それは年老いた母です。母は悪行を繰り返す我が子を心配し、いつも家の観音さまに「どうか息子が真人間になりますように」とお祈りをしていました。
ある夏の日、突然の豪雨から雷が落ち、秋太郎の家は焼失してしまいました。いつものように家を出ていた秋太郎でしたが、家が焼けた知らせを聞くと母のことが心配で大急ぎで家に帰りました。
母はどうかと近くの者に尋ねると、驚くことにまったく怪我もなく無事だというのです。母はいつも祈りを捧げていた観音様と一緒でした。しかし、観音さまはそれまでと少し違っていて足を少し上げているのです。
秋太郎は観音さまが雷を蹴り上げて母を救ってくれたと信じ、これまでの行いを悔い改め真面目に働くようになりました。それから母が他界すると観音さまを背負い、諸国巡礼の旅をはじめました。その中でもっとも長く滞在したのが水戸の藤澤道場(神応寺)でした。
秋太郎は再び旅立つ時、大切な観音像をお世話になった神応寺に置いていき、やがて蹴上観音と呼ばれるようになりました。
観音像は本堂内で見ることができますが、パンフレットのお写真から引用しました。高さは13cmほど。ちょこんという感じですね。
わかりにくいですが、たしかに左足をひょこっと上げています。サッカーのリフティングしてるみたいです。
このお話はいまから350年以上前の出来事といわれます。秋太郎がいたのは九州の港のあるドイロという場所とか。一般の方が観音さまをお参りできるようになったのは現在のご住職になってからだそう。
和田平助正勝の墓
実際にお参りした際に気づかなかったものをひとつ。和田平助正勝のお墓です。墓石は神社の形式となっており、鳥居をくぐって参拝できます。
正勝は水戸黄門(徳川光圀)の家臣。居合(田宮流居合立会派)の達人だったので、黄門さまがお出かけの際にはいつも傍にいたとか。
非常に信頼されていたのですが、それを同輩に妬まれて「謀反を企てている」とウソの報告をされてしまいました。それをきっかけに役職を奪われ(改易)水戸を離れることに。
そのとき独り言で「水戸にばかり陽は照るまい」といったところ、それを咎められ加倉井の中根寺で自刃に追い込まれました。
自刃をしたのですが。。すぐに息を引き取らなかったので大工町まで連れてこられたのかだとか。。正勝が亡くなったのは天和3年(1683年)。59歳でした。お墓が中根寺と神応寺の2箇所にあるのはそのためです。
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境内には水戸藩士のお墓がいくつもあります。争いのあった天狗党と諸生党は双方とも同じように供養されています。
御朱印
神応寺の御朱印です。本堂の右手にある庫裏でお声掛けください。
庫裏でお声掛けすれば本堂内でお参りすることもできますよ。実際に蹴上観音にお参りできるチャンス!
・水戸市の元山町の神応寺は時宗のお寺。諸国巡礼した晋光上人が開山
・本堂には雷を蹴り飛ばしたといわれる『蹴上観音』が安置
・御朱印は庫裏でいただける
いばらきのむかし話|編:藤田稔
茨城の伝説|編:茨城新聞社
茨城の寺|著:今瀬文也
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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