阿彌神社の伝説|海神と大毒魚の伝説|阿見町

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 阿彌神社(中郷と竹来)の由緒
  • 大毒魚の伝説
  • 式内社論争について

今週、終戦の日(8月15日)を迎えました。そのせいか、阿見町の記事がたくさん読まれています。戦前、阿見は海軍のまちだったので、この時期に関心が高まったのだと思います。

現在の阿見町は昭和30年に旧阿見町、朝日村、君原村、舟島村が合併してできました。まだ60年ほどなので、とても新しい町だと思います。そんな阿見の歴史が伝わっているなら、お隣の市民としても嬉しいです。

阿見町は新しい町ですが、阿見という地名は古くからあります。合併60周年の際に発行したミニ要覧によれば、7世紀頃にもあったとか。由緒正しき言葉なんですね。

ただ、阿見町の由来には不思議な説があるんです。調べたネタをご紹介します!

大毒魚と海神の伝説

『阿見』の由来には不思議な伝説。。以下のような内容です。

持統帝の御代。霞ヶ浦の沖で夜な夜な怪しい光が「ピカーッ!ピカーッ!」と光るようになりました。漁師たちは「あの光はなんだろう」と恐れていましたが、自分たちではどうにもならないので、ただただ不安な日々を過ごしていました。

ある晴天の日のこと。漁師が「たくさんの魚がとれますように」と願いながら舟を出しました。沖まできて網を下ろすと、途端にいままでの空がうそのように暗くなりました。黒い雲がぐんぐん迫ってきて風が強くなり大つぶの雨が降り出しました。水面は波立ち、舟は激しく揺れて、いまにも転ぷくしそうです。

漁師は座り込み「神様、仏様、命だけは助けてください!」と祈りました。すると、目の前の水面に人の姿が見えました。漁師が「一体どなただろう」と考えていると、「我は少童しょうどうの神。この海原には悪い光を出す大毒魚おおどくぎょがいる。悪魚を退治しなければこの国がおさまらない」と言って波に沈んでいきました。しばらくすると、不思議と雲がはれて、荒れた海原がもとに戻りました。漁師は「海神様。危ないところをありがとうございました」と両手を合わせました。

このあと、漁師は海神を祀る神社を建て海神社と呼ぶことにしました。やがて他の村人たちも信仰するようになり、次第にその名が広がっていきました。そしていつからか、海の「う」は「あ」に変わり、あみ神社となりました。それが地名にも使われるようになったといいます。

霞ヶ浦の”海神”に違和感のある方は多いでしょう。霞ヶ浦は湖ですから。古代は海だったんです。常陸国風土記にもそう記述があります。自然環境の変化によって、15〜16世紀に汽水湖になりました。そのあと少しずつ淡水に近づいていき、現在はほぼ淡水です。

さて伝説の神社ですが、海神社からあみ神社になったとあります。じつはいまでもこの名前の神社があるんです。

少童の神(若い神)をお祀りしているのでしょうか。実際に訪ねてみました。

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「阿見」はもともと「海」だそうです。阿見の漢字があてられた理由はわかりません。阿弥陀佛あみだぶつのようにありがたい意味なのかもしれません。

中郷の阿弥神社

阿彌神社(中郷)の入り口

阿彌神社(中郷)の入り口

由緒

崇神天皇18年/紀元前80年
阿見郷と名付ける
勅命により東国を訪れた皇子・豊城入彦命が当地を阿見郷と名付ける
和銅元年/708年
社殿造営
皇子を鎮祭し阿彌神社と尊称する
明治6年/1873年
郷社列格
明治39年/1906年
合祀
同地内の熊野神社、香取神社、天照大神宮、皇産霊神社を合祀
明治41年/1908年
合祀
東村大岩田鹿島神社、烏山愛宕神社、同八坂神社、同八幡神社、阿見町内の熊野、鹿島、稲荷神社を合祀

ご祭神は豊城入彦とよきいりひこです。

この神社は以前に霞ヶ浦神社の社殿が移築されているということで訪ねたことがあります。住宅街の中に鎮座しているのでご存知のかたも多いでしょう。

阿彌神社(中郷)の拝殿

阿彌神社(中郷)の拝殿

茨城県神社誌によると創建は崇神天皇18年。西暦だと紀元前80年。。?

豊城入彦命が父・崇神天皇の勅命によって東国平定にやってきた際にこの地を阿見と名付けました。大毒魚とぜんぜん関係ない。。ご祭神も豊城入彦命となっていますね。

阿見町の公式サイトには次のようにありました。

当社の祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)ですが、この祭神も社名も近世から近代にかけて変更したもので、いくつかの説があります。さらに「延喜式神名帳」に載せられた神社かどうか(式内社問題)をめぐって論争が続きました。
明暦3年(1657)の棟札写しでは、当社の社名は大明神となっていて、祭神については、本地が十一面観音(じゅういちめんかんのん)なので、その垂迹である武甕槌命(たけみかづちのみこと)ということになります。
江戸中期の享保~明和期の資料では鹿島明神となっています。
式内社争いが始まったのは近世中期の安永の頃からで、竹来の二の宮明神が阿弥神社と社名を変えたのに始まり、天明元年(1781)には当社も阿弥神社を名乗っています。
また、村内の熊野権現も阿弥神社となっています。
多くの葛藤を経て、文政12年(1829)に「三社とも阿弥神社を名乗ってよい、ただし、式内社を称してはならぬ。」という寺社奉行の裁許で落着しました。
46 中郷の阿弥神社/阿見町公式

話をまとめますと元海神社かどうかとは別に式内社かどうかの論争があるということです。

式内社は平安時代から存在を認められる由緒ある神社。いくつか候補があってハッキリしない場合は論社と呼ばれます。

ただ、豊城入彦命は皇子ですし海神のイメージはありません。。ここで納得するのは難しいですよね。ご安心を。話は終わりません。もうひとつの阿弥神社についても調べてみました!

阿見大空襲と霞ヶ浦神社|阿見町・土浦市

アクセス

旧郷社の社格を持つ中郷の阿弥神社は町内のフードスクエアカスミから10分ほど歩いたところにあります。

専用の駐車場はないかと思います。

名称 阿弥神社(中郷)
住所 茨城県稲敷郡阿見町中郷2丁目25
駐車場 なし

竹来の阿弥神社(二宮明神)

高来の阿弥神社社殿

高来の阿弥神社社殿

和銅年間/708-715年
創建
詳細は不明
明治6年/1873年
県社列格

竹来の阿弥神社のご祭神は武御雷たけみかづち之男命です。海神らしき名前はありません。

ただ、興味深いのは配祀として経津主ふつぬし天兒屋根あめのこやねがあること。中央の中臣氏の祖神ですね。中臣、忌部、物部などの旧有力氏族の祖神を祀る神社は式内社とされる可能性が高いように思います。

竹来たかくにある旧県社の阿弥神社です。神社の概要はやはり阿見町の教育委員会がしっかり説明してます!

実は同じ阿弥神社でもこちらのほうが古いのではないか、という説があります。8世紀に編さんされた常陸国風土記に竹来の地名が登場することも理由のひとつです。

風土記によれば竹来は普都ふつの大神が降臨したとされる地。古くから地名があることは間違いないので伝説の神社といえそうですが。。

高来(阿彌神社)の扁額

高来(阿彌神社)の扁額

ちなみに茨城県神社誌にある社伝には式内小社と明記されています。

今回、伝説に名前のある2社を巡りましたが、結局のところそれらしいことは確認できませんでした。残念ですが、諦めざるを得ません。

もし、日本がいまから100年前に建国したならこのような伝説はないでしょう。歴史が古すぎて確認できないんです。ビデオもカメラもなく紙すら貴重な時代でしょうから。。

阿弥神社については個別に改めて調べてみるとして、ひとまず大毒魚に関する調査は終えたいと思います。

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信太郡の一の宮・楯縫神社(式内小社)の神事と古くから関係しています。
式内社として非常に有力ではないでしょうか。
MEMO

普都大神はこの地で朝廷に従わないものを征伐して高天原に戻っていきました。その際に身につけていた鎧や盾、剣などを置いていったという伝説も残されています。

アクセス

名称 阿弥神社(竹来)
住所 茨城県稲敷郡阿見町竹来1652
駐車場 なし

まとめ

この記事のまとめ

  • 阿彌神社のご祭神大毒魚を退治した
  • 阿彌神社は町内に二社ありどちらかが式内社とされる
  • いまなおどちらが式内社かはわからない

スペシャルサンクス

あみ観光ガイド 筧田聡(@kakehida) さん

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
爺さんの立ち話/阿見町
民話でつづる霞ヶ浦/仲田安夫

この記事で紹介した本はこちら

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