【龍ケ崎の由来?】下河辺氏と頼政神社の伝説|龍ケ崎市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 龍ケ崎の頼政神社の伝説
  • 神社の場所
  • 地名「龍ケ崎」との関係

「龍ケ崎」という名前は人気があるようです。

アンケートに答えたのは20〜40代の男女。わたしと同じドラゴンボール、ドラクエ(ダイの大冒険含む)に親しんだ世代なので当然の結果ですね!

ところで、この「龍ケ崎」はだれがどんな理由でつけたのでしょうか。ハッキリしたことはわかりませんが、おそらく同市の中心地にある頼政よりまさ神社が関係していると思うんですよね。

というわけで、この記事では龍ケ崎市の頼政神社をご紹介します。「龍ケ崎」の発祥についても考えてみました!

頼政神社とは

細い山道の先にある祠

細い山道の先にある祠

頼政神社は龍ケ崎市の横町(もしくは寺後)に鎮座しています。神社というより祠なので、教えてもらわないと気づかないと思います。

場所は市役所から徒歩5分ほどです。「市役所前」交差点を警察署方向へ進み、ミニストップのある1つ目の信号を右に。そしてすぐ左手の細い通路を進むと右手に見えてきます。

細い通路は車では通れませんし参拝者用の駐車場もありませんから、車でお越しなら市役所に停めて歩いてください。

ご祭神は源三位頼政げんざんみ よりまさ公(みなもとの頼政)です。源三位は通称で従三位じゅさんみという位に由来します。

頼政公(1104-1180年)は平安時代の武将。名前の通り源氏ですが、平氏とも通じていました。平清盛の信頼が篤かったのですが、平氏の政治が公家寄りになったことを危惧し、以仁王と共に平氏打倒を計画。しかし、計画は漏洩してしまい自害に追い込まれることになります。

非業の死を遂げた頼政公をお祀りしているのはなぜか。それが神社の縁起につながります。

頼政公は自害の前、2人の家臣に次のような遺言を残しました。

「お前たちはわたしの首をもって東国へ行け。そして途中で首が重くなったらその地に埋めてくれ。もし50日経ってもなにも起きなければどこでもいいから捨ててくれ」

2人が言いつけどおり東国に馬を走らせると、本当に首が重くなったように感じたのでその場に埋めることにしました。それが頼政公の墓であり、頼政神社のはじまりです。

800年以上前のなんとも不思議なお話です。この由緒は社伝などの文書の記録が一切ありません。すべて口伝です。

古河市にも頼政神社があり同様に口伝による由緒なのですが、別の古文書が頼政神社の由緒を引用していることから実在した可能性があります。もちろん内容が事実かどうかは不明です。

wata

「頼政公の墓」は『佐倉風土記』などで各地に残されているんです。『平家物語』や『源平盛衰記』にもよく似た記述があるのがポイント。
MEMO

源頼政は弓の達人で歌も一流。文武両道で『鵺退治』の伝説を持っています。

アクセス

名称 頼政神社
住所 茨城県龍ケ崎市寺後
駐車場 なし
※市役所(茨城県龍ケ崎市3710)に駐車して徒歩可
Webサイト 龍ケ崎市観光物産協会

神社(祠)

神社入口は簡単な立て札のみ

神社入口は簡単な立て札のみ

神社は市役所から本当にすぐに到着します。場所がわかればですけどね。

頼政通り

頼政通り

あとで知ったことですが、神社の近くに「頼政通り」がありました。地元では意外と知名度あるのでしょうか。

頼政神社

頼政神社

こちらが頼政神社。簡素な祠です。高さは50cmほど。小さいながら榊が供えられおり地域から親しまれていると感じられます。

以前の頼政公の墓は別の場所にあったようです。ここから離れてはいないと思いますが、水田の中の小さな丘の上だったとか。そこの大きな松の根元にお祀りしていたそうです。

祠の後ろにあるヤマハゼ

祠の後ろにあるヤマハゼ

現在、祠の後ろにある大木は松ではなくヤマハゼです。どんな意味があるのでしょうね。

境内は猫の庭?

境内は猫の庭?

住宅地の中の空き地でよく猫ちゃんたちがやってくるようです。参拝したときには祠の前でお昼寝する子が。。脅かしてしまったようでスゴイ勢いで逃げていきました。ごめんよー。

wata

龍ケ崎の頼政の墓は『新編常陸国誌』にも書かれています。土浦の国学者・色川三中は自分の常陸国誌に墓の画を描いていましたので江戸時代に実在したのは確かでしょう

龍ケ崎市の由来?

日本一かっこいい地名といわれる『龍ケ崎市』。どうしてそんな名前になったのでしょうか。

市の観光物産協会でそれらしい説がいくつか紹介されているのですが。。わたしは後ほどご紹介する『頼政神社由来説』を推したいですね。

この説は物産協会の次の説と関係があります。

龍崎氏が治めていたから

龍崎氏(読みが「りゅうざき」なのか「りゅうがさき」なのかは不明)は、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫です。
龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395年・室町中期)の文献にその名前が記されています。
鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に属していました。
龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが文献から明らかになっています。
この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説です。
一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。
「龍ケ崎」という地名の由来/龍ケ崎市観光物産協会

注目は最後の一文です。地名「龍ケ崎」と「龍崎氏」は前後関係がハッキリしないとのことですが、もしかしたら同時だったのではないでしょうか。

というのは、古河市史に次のようにあるからです。

茨城県竜ヶ崎市新町頼政神社 頼政の首桶をもち帰った下河辺清恒が祀ったものという。大木のもとに、近代に立てられた高さ40センチばかりの小祠がある。近くに「しぶくりらんとう」と称する下河辺氏の墓地と伝えられるところもあり、竜ヶ崎の地名は古河の竜崎(立崎)に由来し、戦国期の竜ヶ崎氏は、下河辺氏の流れといわれ、下河辺氏の古城跡に比定されるところが、竜ヶ崎二高をはじめとして何カ所もある。
古河市史P124

龍ケ崎市の下河辺氏は古河の下河辺氏の流れ(子孫)。そして竜崎(立崎)は古河の頼政神社の鎮座地です。いろいろ繋がってきました。

古河と龍ケ崎には興味深い3つの共通点があります。

  1. 同様の由緒を持つ頼政神社(墓)がある
  2. 頼政神社が龍崎(立崎)の地にある
  3. 神社を守護する下河辺氏がいた

古河の頼政神社は、立崎という地に頼政公の首が埋められ下河辺氏が弔ったので②→①→③の流れです。

一方、龍ケ崎は室町以降に龍崎氏(下河辺氏)が現れ、それ以降に龍ケ崎の地名が使われるようになりました。頼政公の墓についてはいつからあるかわかりません。

わたしが考えているのは①②③がほぼ同時期だったのでは、ということです。

下河辺氏は当地を支配するにあたって、自分たちとその土地を関係付ける「なにか」が欲しかった。それが頼政公の墓、そして頼政神社です。

古河の頼政神社と似たような由緒を伝えたと思いますが、往来が簡単でない上に古河も別の由緒を元にしている可能性が高く、信憑性を比較できなかったはずです。

また、古河が先であろうと龍崎氏が祖先の主君である頼政公を弔っていることにはなんの問題もありません。龍崎氏に地頭を命じた源頼朝はむしろ喜んだでしょう。同じ源氏でしかも先駆けて平氏と戦ったのですから。

由来のまとめ

まとめると。。

「龍ケ崎」は下河辺氏によって名付けられた。当初は下河辺氏の先祖にゆかりのある「龍崎」だったかもしれない。それから下河辺氏は地名と同じ龍崎を名乗ることにした。龍崎は頼政神社の鎮座地であり、それを守る龍崎氏の正統性を意味している。

龍崎氏の読み方は古河の地名と同じ「たつざき」だったかも。龍崎から龍ケ崎への転化は龍崎氏を滅ぼした土岐氏が旧領主の影響力を奪おうとした結果。。だったりして。そうなると龍ケ崎の名付け親は土岐氏?

wata

もう少しで真実にたどり着ける気がするのですが。。いまはこれが限界。これ、読んだ方も調べてみてくださーい!

補足:下河辺氏が龍ケ崎にやってきた経緯

下河辺氏が龍ケ崎地域にきた理由は前述の通り源頼朝に地頭職を命じられたからです。大変立派な役職ですが、どのように信頼を得たのでしょうか。

それは養和元年(1181年)のこと。頼朝を襲おうとした信太義広を下河辺氏(下河辺政義)が撃退したからです。信太義広は頼朝の叔父にあたる人物で保元の乱で破れた後、常陸国の信太に逃れていました。

それから頼朝に対してなんらかの恨み(私怨?)を抱き、3万の軍を率いて下野経由で鎌倉に進軍したのです。困惑する頼朝は下総古河の下河辺氏と下野の小山氏を主力として対抗。そして勝利しました。

下河辺氏は褒美として信太義広の持っていた領地を得ました。それが龍ケ崎なんです。

wata

下河辺政義自身はほとんど龍ケ崎に来ていません。頼朝の信頼が篤かったため鎌倉にいるのが常でした。平家追討の軍にも参加していますよ♪




まとめ

この記事のまとめ

  • 龍ケ崎の頼政神社は古河の同神社と同様の由緒
  • 頼政神社は龍崎という地名と下河辺氏と深い関係がある
  • 龍ケ崎の下河辺氏は頼政公を祀り、地名「龍崎」を使い、自らも名乗ったと考えられる

参考文献

龍ケ崎郷土史
龍ケ崎市史(中世)
古河市史/古河市編さん委員会