wata
中臣鎌足は言わずとしれた大化の改新の立役者。中大兄皇子と蘇我氏を滅ぼし、天皇を中心とした律令国家を誕生させました。645年のことです。
超重要人物なので学校の授業で習ったかと思います。皇子とけまりをきっかけにフレンズになったお話も有名。この人物、実は茨城県の鹿嶋市で生まれた説があります。
本当だとすれば誇らしいことですが、結論から申しますと・・・わかりません!
でも、生まれたとされる理由はいくつもあります。ちょうど鹿嶋市で関連した展示がありましたので、あわせてご紹介します。
中臣鎌足と藤原鎌足は同一人物。『藤原』は鎌足が亡くなる直前に天智天皇(中大兄皇子)から賜りました。
鹿嶋市どきどきセンター
鹿嶋市どきどきセンターは市内で発掘された『土器』を展示している施設。8月31日まで企画展『中臣の故郷!? 古代のユートピア鹿島郡』を開催。土器などの発掘品から鹿嶋と中臣氏の関係を紹介しています。
参考
中臣鎌足出生説を解説 鹿嶋3カ所で 出土品やパネル展示茨城新聞クロスアイ
センターには中臣氏と関係があるとされる発掘品がたくさんありますが、鎌足の出生を裏付けるものはありません。よく見ると企画展のタイトルに『鎌足』の文字はないですね。。
鎌足の出生地は鹿嶋市と奈良県高市郡大原の2つの説があります。藤原鎌足をご祭神とする談山神社の多武峯縁起にも2説あって、いまだに学会で論争されています。1,300年以上前ですから、出生をハッキリさせるのは難しいでしょう。
ただ、鹿嶋の地に中臣氏がいて強い影響力があったことは確か。企画展の内容を整理すると以下のようになります。
- 市内の遺跡(鍛冶台遺跡)から「中臣宅成」「中臣」とある土器が出土
- 常陸国風土記に鹿島郡の建郡申請者として中臣氏の名前がある
- 大化の改新後に誕生した鹿島神郡は郡司と神主を中臣氏から任官されている
鹿嶋を鎌足出生の地とするには大化の改新前に中臣氏が鹿嶋にいる必要があります。常陸国風土記は8世紀に編纂されましたから、そうはいえません。土器は使われた年代を特定できないのでなんとも。中臣鹿嶋連氏がいたことは確かなんですけどね。
wata
鎌足の出生地について『大織冠伝』は奈良県高市郡大原、『大鏡』は鹿嶋市としています。ただし、大鏡は物語性が強く、不比等の功績などに間違いが多いため信ぴょう性は高くないとされています。
ところで、藤原氏の氏神を祀る神社といえば奈良の春日大社。ご祭神のタケミカヅチは鹿島神宮から勧請されました。藤原氏のはじまりが鹿嶋だと考えられる理由のひとつです。
アクセス
名称 | 鹿嶋市どきどきセンター |
---|---|
住所 | 茨城県鹿嶋市大字粟生2242-1 |
営業時間 | 9:00-16:30 |
休業日 | 土、日、祝日、年末年始 |
駐車場 | あり |
連絡先 | TEL:0299-84-0778 FAX:0299-84-0799 |
Webサイト | かしまのざくざく!埋蔵文化財 |
鎌足神社
鹿嶋市どきどきセンターで鹿嶋と中臣氏の深い関係はわかりました。でも、あくまで中臣氏であって鎌足ではありません。鎌足に関係するものはないのでしょうか。
・・・あります!
潮来市と鹿嶋市をつなぐ神宮橋。橋を渡って鹿島神宮へいく途中に鎌足神社があるんです。住宅地にひっそり、という感じ。神社の境内地は市指定文化財になっています。
入口の看板から引用します。
鎌足神社境内地は、古来より藤原鎌足の誕生の地とする伝承が残っているところである。
藤原鎌足の生誕地には、当地と奈良県橿原市の二つの説がある。いつごろ建てられたのかは不明であるが、江戸時代から明治時代にかけてまとめられた、常陸国の歴史と地理の大著「新編常陸国誌」の鹿島郡・宮中の項に「鎌足社」があり、当社が鎌足の生誕地であるという説が紹介されており、この地域が江戸時代から鎌足ゆかりの地とされていることがうかがえるところである。境内には明治二十五年に建てられた「大織冠藤原公古宅址碑」という石碑もある。
鎌足神社境内地/鹿嶋市教育委員会
多武峯縁起の他に『新編常陸国誌』でも、鹿嶋が鎌足出生地である説を紹介しているんですね。いまの社殿はとても新しいので鎌足社とは違います。
先程の看板で紹介されていた『大織冠藤原公古宅址碑』です。明治25年に建てられました。文字が掘られていますが、漢文なので読めない。。。どなたか、解読をお願いします!
こちらが社殿。土台はコンクリート。頑丈で新しいです。市の文化財も『境内地』であって社殿ではありませんでしたね。ご祭神は藤原鎌足、藤原道真、宇賀御魂命です。
アクセス
名称 | 鎌足神社 |
---|---|
住所 | 茨城県鹿嶋市宮中(大字)3354 |
駐車場 | なし |
Webサイト | 鹿嶋市観光協会内 |
民話『鎌足と白狐』
鹿嶋市では鎌足に関する不思議な伝説が語られています。『鹿島町の昔ばなし』に以下のようなお話があります。
狐があやすと赤子はすぐに泣き止み、すやすやと眠りについた。しばらくして帰ってきた母親は我が子のそばにいる狐を見て驚いた。狐は90cmもある鎌を持っていたのだ。
「この子は成人したらお国のためになる人。心をかけて育てるのがよろしいですよ」
狐は母親に告げると、鎌を赤子の前に置いて去っていった。鎌は草にあてると一面をなぎ倒すような切れ味だった。赤子はその鎌の字をとって鎌子と名付けられた。
鎌子は鎌足の幼いときの名前。鎌子はみるみる成長していき、天皇を上回る権力を持った蘇我氏を問題視するようになります。そして考えた末、中大兄皇子とともに蘇我氏を討ち大化の改新を行います。
このお話は先程ご紹介した『多武峯縁起絵巻』にあります。つまり、鹿嶋市独自の物語ではありません。
鹿島神宮の社務所で販売していた『鹿島草子』にという絵本にも同様のお話があるそうです。描かれた藤臣柊子さんのブログにも少し情報があります。
参考
ご無沙汰しました。藤臣柊子です。本が出ます~♪もうじき、雑誌も出ます~♪♪♪藤臣柊子のあっという間にブログ
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まとめ
中臣鎌足は茨城県の鹿嶋市と奈良県で生まれた2つの説があります。学会で長く論争されていますが、いまだに明らかになっていません。
鹿嶋市に中臣氏がいたことは確か。大化の改新前からいたことがわかればさらに有力な説になると思います。新しい発見を待ちましょう!
参考文献
鹿島町の昔ばなし/著:中村ときを
図説鹿嶋の歴史 原始・古代編
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。