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茨城県内で千勝神社といえば、まずはつくば市の泊崎に鎮座する神社が思い浮かぶかもしれません。しかし同社は今回ご紹介する下妻市坂井の千勝神社から分霊して創建されたのです。
それでは本営ともいえる坂井千勝神社とはどんな神社なのでしょうか。分かっていることは少ないのですが、平将門公や恵信尼の伝説と関係するミステリアスな神社であることはたしか。
社号のとおり「勝利」の御神徳があるともいわれるので、なにかここ一番という時にお参りしておくといいかもです!なるべく詳しめにご紹介しますので参考になれば嬉しいです!
この記事でわかること
- 特別な御神徳について
- 御祭神の御神影
- 恵信尼が見た夢について
由緒
以下は『茨城県神社誌』をもとにまとめました。
武烈天皇壬午の年、常陸国筑波山の西、鳥羽湖の南岸下総との国境、高地原に奉斎と伝わる。
今の坂井の北部に遷される。その地域は今も境町という。
遷座した後に別当寺として法泉寺を建立。
法泉寺を下妻に移し、門徒の千勝院が別当になる。
千勝院は明治になって廃寺となった。
ご祭神は猿田彦命です。神話ではアマテラスの命を受けたニニギを導く役でした。それから道案内とか境の神とされています。「境」は高天原と葦原中津国の間にいたことに由来します。
もしかしたら、当地の「境」の性質がサルタヒコを招いたのかもしれません。『下妻市史 別編』によれば、昔当社があった土地は常陸国と下総国の国境にあったので「サカイ」と呼ばれるようになったとか。
さらにそこには「清冷の井戸」があって、湧き出る清水を飲めば「一日病治す」といわれていました。それが「幸井」と呼ばれ、「坂井」に転じていったとのことです。不思議な話ですね!
また、同書では『茨城県神社誌』よりも創建について詳しく伝えておりますのでご紹介します。
武烈天皇壬午の年中陽(陰暦二月)初三日、鳥羽の淡海で漁民が仕事をしていると、突如波起りあたり一面黒雲におおわれ恐れおののいていると、赤顔でひげづらの神が右手に鉾、左手に赤白糸を持ち白鶏に乗って現われ、何かものを言ったと思うと雲霞のなかに消えていったと伝える。これが猿田彦命であり千勝神社の祭神である。
下妻市史別編 P286-287
赤白糸や白鶏といった設定はここにだけ書かれています。なぜそのような異様な姿だったのでしょう。色々と具体的であるだけに気になりますね。
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当社は平将門公が参詣して祈願文を奉じたこと(秘蔵しているという)や、「幸井の水」の命名をしたという伝説があります。
アクセス
当社の駐車場の入口は少し分かりにくくなっております。鳥居の周辺にはなく、境内の西側から入ることができます。 それから参道の車に乗ったまま通過すると神社の駐車場です。
境内の北から入って駐車できるのですが、そちらは農村集落センター専用のものかもしれません。そちらに止められると安全なんですけどね。
名称 | (坂井)千勝神社 |
住所 | 茨城県下妻市坂井38 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
住宅街に突如そびえ立っている神名式鳥居です。昭和14年に建立されました。当社の歴史についてはあまり残されていないのですが、 明治から昭和にかけて非常に信仰が盛んであったように思います。
現在では、当社から分霊した泊崎(つくば市)の千勝神社が多くの参拝客を集めています。世の中は常に移り変わっているので、神社にも流行のようなものがあるのかもしれませんね。
ただ、左下の立て札を見たところ、 毎月23日に月次祭を催してご祈祷されているそうです。23日と決まっているのが面白いですね。旧暦であれば二十三夜講の日です。
講の石碑
参道沿いにいくつもの石碑が建てられています。いずれも◯◯講とあるので、講中によって建立されたことがわかります。講は信仰の集団です 。いずれも千勝神社の信仰をされていたということです。
写真にあるのは水戸のもの。どうやらずいぶん遠くからも当社を頼る方がいたようです。泊崎を参考にすると道案内の神として就職や受験なども含めて頼りになる存在だったのでしょうか。
それとも前述の由緒にあるように勝負師たちが御神徳を頼って建立したのか。サルタヒコに経済的な期待をしていたとするなら非常にユニークなのでそうあって欲しいなと思います。
拝殿
入母屋破風の拝殿。向かって右手に授与所らしきものが拡張されており、全体的にリッチな造りではないでしょうか。昔は多くの寄進を得ていたのでしょう。
神紋は千の字を反転させたような形。くちばしと羽で鳥のようにも見えます。御祭神のサルタヒコが乗ってきたのは白鶏とされていますが、泊崎の千勝神社では白鳥だといいます。神紋からは白鳥といえなくもない。。かな?
真一文字の注連縄が印象的です。ただ、一文字は筆を左から右へ動かしますが、神社などで用いる注連縄の場合は右に始まり左に終わる法則があります。
その理由は陰陽説。陰陽説では陽が先で陰が後。『日本書紀』の冒頭でもそう書かれています。ではなぜ神社の注連縄は右から始まるのか、といえば基点が御祭神だからです。
本殿の神様から見ると参拝者とは左右が逆転するのです。鏡で見る自分は左右が逆ですよね。神様の左は参拝者の右。だから注連縄が右から始まるのは陰陽説的に正しいのです。
本殿
本殿は流造。男千木で鰹木は五本です。拝殿との通路に屋根が出来ていますが、これは幣殿にあたる?
脇障子や縁の辺りは明らかに新しい色味。時々修繕しているようですね。それにしてもずいぶん高い本殿。造り自体は簡素なのに立派に見えます。
とはいえ妻飾りには立派。鳳凰なのでしょうか。ちょっと目が鋭くなっていて威嚇しているよう。背景には雲が渦巻いています。時に雨雲となって社殿の炎上を防いで欲しいといった願いが込められているでしょうか。
不動明王像
本殿の西側に小さな岩窟がありました。中にはミニチュアの不動明王像が安置されています。なんと矜羯羅童子と制多迦童子もちゃんと彫られています。
わざわざ岩窟まで用意してあるということは、当社と密接な関係なのでしょうか。主に密教で信仰されるので真言宗や天台宗、あるいはそれを取り入れた山岳信仰と考えられます。
かつて別当だった千勝院や法泉寺の影響が今も残っているのかもしれません。先にあった法泉寺が応永年間の創建ですから、約600年近くは僧侶(社僧)により祭祀が執り行われました。きっと切っても切れない関係です。
現存する法泉寺は天台宗。
ここでちょっとした余談をご紹介します。じつは当社には浄土真宗の開祖にあたる親鸞の妻・恵信尼にまつわるお話があるのです。由緒の建暦年間のところでも恵信尼が近くに住んでいたことが伝えられています。
これはまったく根拠がない話ではなく、本人が書いたとされている『恵信尼文書』に由来します。同文書で恵信尼は娘の覚信尼に下妻滞在中に見た夢について書いています。その夢では鳥居らしき横木に二枚の仏画が提げられており、それを見た恵信尼は法然が勢至菩薩であり、親鸞が観音菩薩の化身であることを確信したというのです。
夢の通り夫が菩薩であればありがたいことなのでしょうが、恵信尼は自分の夢を人に話すのはよくないと考えたらしく、親鸞には法然についてだけ伝えました。親鸞はそれを喜んだのですが、すべてを伝えられなかったことがずっと心に残っていたので親鸞が亡くなってからやっと娘に話せたのでした。
夢には「鳥居らしき横木」が出たわけですが、親鸞と恵信尼は下妻の小島に一時滞在したとされているので、近隣の神社といえば当社が候補に上がるというわけです。
わたしには恵信尼が当社を認知していたかどうかさえ分かりませんので、無くはないといったところでしょうか。
・坂井千勝神社は武烈天皇の御代に創建。ご祭神は猿田彦命
・親鸞聖人の妻である恵信尼が夢に見たという伝承がある
・何度か遷座しており、社僧がいたことが社伝にある
茨城県神社誌|茨城県神社庁
平将門伝説ハンドブック|村上春樹
下妻市史別編|下妻市史編さん委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。