【二十四輩二十番】慈善創建 石沢の常弘寺|常陸大宮市

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

常陸大宮市で恒例の集中曝涼が無事に開催されました。しかも今年は新たな公開場所が3ヶ所も増加。曝涼ファンは大きな期待を寄せていたかと思います。

新規のひとつが石沢の常弘寺じょうこうじでした。浄土真宗の二十四輩の寺に数えられて有名なので、多くの方々が足を運んでおりました。この記事ではそのときの様子をご紹介させていただきます。

常弘寺
常弘寺

由緒

正治元年/1199年
開基参詣

後鳥羽院の朝臣・壺井大学頭橘重義、村田の太子堂に参詣し開基になったという。

太子堂は佐竹氏初代昌義と二代義隆が保護し、その子秀義が信仰したと伝わる

建保3年/1215年
法名を賜る

重義は稲田で布教する親鸞と出会い弟子となり、「慈善」の法名を賜る

嘉禄元年/1225年
創建

太子堂の地を寺とし、常弘寺と称する

昭和47年/1972年
文化財指定

阿弥陀如来像聖徳太子像、が県の文化財に指定される

昭和54年/1979年
本堂改修

*親鸞聖人御生誕八百年・改装七百五拾年記念事業

昭和60年/1985年
庫裏建立

*開基七百五十年記念事業

平成15年/2003年
鐘楼堂建立

*蓮如上人五百回忌遠忌記念事業

浄土真宗の寺院ですから御本尊はもちろん阿弥陀如来です。後ほどご紹介するように鎌倉から室町時代まで遡るという県指定文化財の仏像をお祀りしており、その歴史の深さは知られるところです。

由緒で少し分かりにくいのは創建の部分でしょうか。常弘寺はその前身となる太子堂と太子信仰があったようで、太子堂自体は隣接する村田村にありました。それとは別に常弘寺を創建したということかと思います。

御本尊の阿弥陀如来と仏教を保護した聖徳太子の両方を大切にするのは浄土真宗の特徴ですね。聖徳太子はあらゆる仏教宗派で尊敬されていますが、真宗は特別です。本堂と別に太子堂を設ける寺も少なくありません。

また、文化財とは別に玉川石を寺宝としています。当寺の西を流れる玉川石からとれたもので、参拝する門徒に撫でられていたそうです。山号の「玉川山ぎょくせんさん」もそうした地形に由来するのでしょう。

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開基の慈善は親鸞の有力な直弟子として二十四輩に数えられています!

『親鸞伝説と旧跡(著:釈了貞)』によると宝寿山 太子堂とも号するとあります。

アクセス

名称玉川山 常弘寺
住所茨城県常陸大宮市石沢1467
駐車場あり
Webサイトなし

本堂および鐘楼堂

駐車場から本堂通路
駐車場から本堂通路

集中曝涼は2日間。常弘寺はそのうち13時から15時まで極めて限定的な公開でしたので、非常に混雑すると予想できました。なので少しでも早く、と思っていたのですが。。やはり13時過ぎたら大混雑。

本堂
本堂

駐車場は停められましたが、本堂前にはずらりと靴が並んでいたのでちょっと時間を開けて上がることにしました。

鐘楼堂
鐘楼堂

そのときなんとなく鐘楼堂に目をやると、じつに立派ではありませんか!獅子の表面が非常に滑らかなので焼き物かな?と思いましたが、写真で見直したらしっかり木目がありました。

鐘楼堂の彫刻
鐘楼堂の彫刻

平成15年に建立したというので比較的新しいもの。蓮如上人の遠忌とのことでした。当寺は昭和から平成にかけてこのような記念事業を続けて境内を整備していったそうです。

本堂彫刻(龍)
本堂彫刻(龍)

それでは本堂へ。正面には後からはめこんだような立派な龍の彫刻が見えます。こちらはご住職でも詳細がわからないとのこと。せっかくなのでぜひご覧になってから御本尊の間に足を踏み入れて下さい。

寺宝

賑わう本堂
賑わう本堂

10分程したら少し空いてきたので本堂へ。縁側に受付があったので簡単なアンケートに応えて資料をいただいてから入場します。集中曝涼のスタンプラリーはたいていは受付のところでポチッと押すことになります。

まずは御本尊の阿弥陀如来にお参りです。南無阿弥陀仏。

集中曝涼の配布資料では本尊を次のように説明していました。

阿弥陀如来立像1躯【茨城県指定文化財】

鎌倉時代末期〜室町時代/檜材寄木造/像高76cm

常弘寺本尊の阿弥陀如来立像。下地に漆を塗り、その上から金箔を貼る「漆泊」という技法を用いています。

光背は48 条の光を表す放射光背で、宮殿(<うでん)に入ります。

造られた時代は700年近く前と考えられています。木製の像がそれだけの時代あり続けたのは奇跡です。ご住職のお話では、この像は東日本大震災の揺れにより、前方数mのところまで倒れてしまい首と手の部分を損傷してしまったとか。それ以前もそうした災難を乗り越えてきたのでしょう。

慈善像

慈善像
慈善像

続いて本尊の前に並べられていた慈善の像です。

慈善坐像1躯

江戸時代前半/杉材、一木造/像高27.9cm

親鸞の直弟で、常弘寺を開いたとされる慈善の像です。

肉身部・衣部ともに彩色されていますが、現在は剥落しています。

室町末期から江戸時代初めにかけて、親鸞に直接教えを受けた弟子たちの開いた寺を巡る「二十四輩巡拝」が盛んになると、それらの寺院では、開基(寺を開いた人物)の木像を作り、参拝者に公開しました。慈善坐像もそうした像のひとつと考えられ、鎌倉時代以来、親鸞直弟のゆかりの寺として、広く信仰を集めていたことがわかります。

慈善は常弘寺の開基とされている人物で、出家前は後鳥羽院の朝臣である壺井大学頭橘重義でした。讒言によってその立場を追われたといいますから、都ではいろいろあったようですね。

重義について、『親鸞聖人を訪ねて』から引用します。

寺伝によると、正治元(1199)年、壷井重義は京を下り諸国を巡る旅に出たという。武蔵国と相模国を経て常陸国に入り、玉川沿いの太子堂にたどり着いた重義は、ここで一夜を明かすことになった。夜半になって枕辺に聖徳太子が現れ、「これより西南に高僧がおられ説法をなさっている。そのかたは阿弥陀如来の化身である。汝よ、早く行って教法きょうぼうを聞くがよい」と夢告を受けたのである。重義はこの指示に従い、稲田の親鸞聖人を訪ね教えを聞き帰依し、慈善という法名を賜ったという。建保3(1215)年のことと伝えられている。

太子堂にて念仏の日々を過ごした慈善は、後に嘉禄元(1225)年、親鸞聖人より常弘寺の号を賜り、この地に仏閣を建立したと伝えられる。

慈善は、文学に秀で歌道を嗜んだという。

「大谷の清き教の名を残すこれぞ誠の法の玉川」

と、浄土真宗の教えを喜び、詠んだ歌が伝わっている。

親鸞聖人を訪ねて

上記は集中曝涼でご住職がされていたお話と同じです。興味深いのは聖徳太子の霊夢の部分で、これは親鸞聖人が見たという霊夢と酷似しています。太子は人を導く存在とも捉えられていたのかもしれませんね。

聖徳太子立像

聖徳太子立像
聖徳太子立像

聖徳太子立像1躯

室町時代(永禄6年・1563)以前/寄木造/像高140.0cm

 常弘寺の開創から伝来するとされる聖徳太子立像です。

髪を美豆良(みずら)に結い、左手に柄香炉、右手に笏を持ち、父である用明天皇の病床を見舞う姿を表した「孝養太子」像で、寺伝では13 歳の姿とされます。衣文にはよく彩色が残り、造像当時の姿をしのばせます。

 頭部の内刳の墨書から、永禄6 年に善重寺の「善超」という人物により像が塗り直されていることがわかり、造立はこれ以前にさかのぼることが明らかになりました。寺伝によれば、常弘寺が開創される以前にあった太子堂に安置されていた像といわれており、まだ善重寺(現水戸市酒門町)が一時期、常弘寺の一画に移ってきたという伝承があります。

 常陸国北部の浄土真宗寺院は、初期真宗の特徴をよく表す、聖徳太子木像が残されている地域です。親鸞が聖徳太子に深く帰依したため、初期の浄土真宗では、聖徳太子を信仰しました。もともとは、両手で柄香炉をもつ形態だったと思われますが、本願寺教団の統制により、現在のような形の太子像が多くなり、木像よりも絵像の残存が多くなります。

 常陸大宮市域には、確認されているだけで、9 躯の聖徳太子木像があり、その多くが中世にさかのぼるものです。これだけ濃厚に中世の聖徳太子信仰が残る地域は他に類を見ません。

やや高い位置に安置されていますので、像高140cmがそれ以上に感じます。13歳の姿と聞いて驚きました。

聖徳太子立像(アップ)
聖徳太子立像(アップ)

右手に笏、左手に柄香炉を持つ姿は初期浄土真宗の特徴があらわれた造形です。これを真俗二諦像しんぞくにたいぞうといいます。袈裟と柄香炉で真諦を、法衣と笏で俗諦をあらわすとされています。

なお、「諦」の字は「諦める」ではなく、「明らめる」の意味で用いられる仏教用語でしょう。

茨城の真俗二諦像は善重寺(水戸市)の聖徳太子像を代表としてぜんぶで7体あり、当寺の太子像もそのひとつに数えられています。なんともありがたいですね。

こうした造形は京都の広隆寺や四天王寺の太子像にさかのぼり、京都から常陸国へ渡った仏師によって広められたのではないかといわれています。

ちなみに頭の「みずら」は一般的なそれとは形が違っていて女性の「おさげ」のようになっています。修繕の際にこのようになったという説が。

そのときの修繕とは違うと思いますが、東日本大震災のとき太子像は修繕のために関東を離れていたので被災しなかったそうです。もしかしたら厄除けのご利益があるかもしれませんね!

連坐の御影

連坐の御影
連坐の御影

御本尊の向かって左手にあったのが連坐れんざ御影ごえいです。

連坐の御影 1幅

室町時代/絹本著色/縦77.8cm、横37.8cm

法然を中央に、両側に6 人ずつ浄土真宗の高僧を描いています。

常弘寺では、本図を「連坐の御影」と呼び、本尊の脇に掲げています。

右上段に描かれるのは、襟に巻いた帽子(もうす)から、親鸞と思われます。浄土真宗の先徳図には、浄土宗の開祖である法然を筆頭に描くものが少なくありません。これは、親鸞が終生、師の法然の教えを守り、深化させることに尽くしたからと言われています。

暗くなっていてほとんど判別できなくなっています。室町時代の作といわれますから仕方のないことでしょう。

親鸞存命の時代に「浄土真宗」はなく、親鸞自身に開祖の自覚はありませんでした。すべては法然上人の教えと違わないと独自の教えには否定的です。

親鸞が偉大な人物だけにそうしたことはあまり意識されないかもしれませんが、古くからあるこうした作品を見ると納得できるのではないでしょうか。

玉川石

玉川石(メノウ)
玉川石(メノウ)

寺宝の玉川石(メノウ)です。境内の西を流れる玉川から採取されたと思われるもので、門徒の方々に撫でられてきた歴史があります。当寺はメノウの採取とその加工をする多くの石工からも信仰されてきたといわれます。

本堂内の扁額
本堂内の扁額

石工に限らず、土地を持たない人々の苦労はいまの人たちには想像しにくいでしょうね。交換しないと食料が得られないという状況は、食料の供給そのものが不安定な時代では極めて厳しい環境といえるでしょう。

玉川石は聖徳太子像とあわせてそうした人々の心の支えとされたと考えられます。これからも末永くあり続けてほしいですね。

御朱印

常弘寺の御朱印
常弘寺の御朱印

常弘寺の御朱印です。集中曝涼のお忙しい中に書いていただきました。

要望した方は非常に多かったようで、記念になるとはいえ曝涼当日はいただけないかもしれないと思っていたほうが無難です。もしお時間がありそうでしたらお願いするとしましょう。

まとめ

・常弘寺は浄土真宗の二十四輩に数えられる慈善の寺。そのはじまりは村田村の太子堂だった

・聖徳太子立像は初期真宗の信仰をあらわす真俗二諦像の姿をしている

・御朱印がいただけるが、集中曝涼の日は難しいかもしれない

wata

近くの一色神社にも見事な彫刻がありますよ。ぜひあわせてご参拝ください!

参考文献

親鸞伝説と旧跡/釈了貞 解説:鈴木常光
茨城県の地名/編:平凡社