wata
神社の楽しみ方は人それぞれ。歴史や御朱印巡り、神秘的なお話などに関心のある方がよく参拝するかと思います。しかし、わたしとしてはそうした楽しみ方のひとつに社殿の鑑賞を加えていただきたい!
じつは県内の寺社には豪華絢爛といえる素晴らしい社殿がたくさんあるんです。これまでもいくつか紹介しておりますので、それらと一緒に今回の大形鹿島神社にもお参りしてみてはいかがでしょう。
同社はつくば市の大形に鎮座する小田氏ゆかりの神社です。市の文化財に指定されている立派な社殿は専門誌に取り上げられることが多いので覚えておいて損はありません!
由緒
*日本武尊が東征のため大杉に立ち寄ったときに当地の者が尊に追従するようになり、甲斐国で賜った神宝を祀ったことにはじまると伝承される
*『いばらきの装飾社殿』によると、社伝には建久3年(1192年)に小田城の守護神として創建
10月、小田氏治が佐竹勢に敗戦した際に社殿を焼失。その後に再建 *『いばらきの装飾社殿』
暴風雨により倒壊 *『いばらきの装飾社殿』による
*『いばらきの装飾社殿』による
暴風により再び倒壊 *『いばらきの装飾社殿』による
元文2年(1737年)から斧始をした社殿が竣工 *『いばらきの装飾社殿』による
*4月
本殿が市の文化財に指定される
御祭神は武甕槌命です。常陸国の一宮のご祭神。武神としては茨城県でもっとも有名ではないでしょうか。御神体は石とされ、それを護る武将姿の神像が二体あるとのこと。さらに直刀一振と黒曜石一個も御神体に数えられています。黒曜石は由緒にある「甲斐国で賜った神宝」なのだとか。まさに伝説の、ですね。
県神社庁が編纂した『茨城県神社誌』は由緒についてほぼなにも書かれていません。しかし筑波書林から刊行された『いばらきの装飾社殿』(著:河野弘)によれば、前述のように社伝は残っており、社殿の変遷がわかるようになっています。また、現在の本殿は棟札によって詳細がわかるようになっています。
創建の伝承は「ヤマトタケルと岩崎山」などと呼ばれる当地の民話と関係しています。現在の鹿島神社が鎮座する場所は岩崎山といいます。古代、東征のため当地を訪れたヤマトタケルが腰につけていた剣で岩を切り裂いたところ、清らかな水が湧き出たのだとか。井戸は剣井戸と呼ばれましたが、現在では枯れてしまっています。
江戸時代は他社と同じように神仏習合していました。『大形村指出帳』によると「出雲」という祢祇(禰宜)によって、境内にあった念仏小屋は岩崎山室生寺によって管理されていたことが分かっています。岩崎山の伝説は僧侶によって檀家の人々に語り継がれていたのかもしれませんね。
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アクセス
名称 | (大形)鹿島神社 |
住所 | 茨城県つくば市大形1356 |
駐車場 | 一の鳥居の手前に数台駐車可 |
Webサイト | なし |
鳥居
駐車スペースはこちらの鳥居の向かって左手側。見ての通り、境内はさほど広くはありません。
鳥居の左側に見える石柱には「大形尋常小学校入口」。2008年に閉校した大形小学校は本殿の裏側の台地にありました。建物は今も残っていて研究所として利用されているようです。
鳥居を潜る前にご紹介したいものが鳥居の右手にあります。如意輪観音と地蔵菩薩の石仏、それに記念碑。奥にあるのは大師堂です。
大師堂の中にはもちろんお大師さま、すなわち弘法大師の異名を持つ空海の像が安置されています。江戸時代の指出帳によると、境内には念仏小屋と大日堂がありました。
それを管理していたのが岩崎山 無量寿院 室生寺。同寺は信太郡永国村(現在の土浦市永国)大聖寺の末寺でした。大聖寺は真言宗ですから、室生寺も同じ宗派で大日如来や空海に対する信仰があったと考えられます。
鳥居の前の五輪塔などもその時代の名残です。こうした関係を見つけながら参拝するのもひとつの楽しみですね。
拝殿
緩やかな参道は往時の名残のようで感慨深いものがあります。じつはすぐ左側は車道になっているので、それを見るとちょっと雰囲気が変わってしまうのですけどね。
二の鳥居の先に見える入母屋造の拝殿。短いながら石段があるので尊いものを少しでも高い位置に祀りたいという心意気を感じます。軒先の柱にはうっすら朱色が残っているように見えます。
拝殿向かって右側の草むらに目をやると二宮金次郎の像が。そういえば金次郎像は小学校でしか見たことがないような。この像は全国に置かれていますが、茨城県には尊徳(金次郎)が農政家として指導した地域がいくつか存在します。学校ではそのあたりのお話があったかも。
本殿
拝殿と本殿は幣殿によって繋がっていません。また、本殿は拝殿よりも一段高くなった場所にありますので、ちょっとした石段を昇ってから拝します。
頑丈な覆屋があるのは貴重な文化財であるためでしょう。柱の隙間から除けば一目瞭然かと思います。我々が一般的に見る本殿とは明らかに異なった装飾の数々。身近にこんな素晴らしいものがあったのかと驚かされます。
わたしでは説明しきれませんので、『いばらきの装飾社殿』より解説を引用いたします。
軒廻りは二手先の組物であるが、 一手目に禅宗様尾垂木を入れ、四隅ではそれが二段になっている。建物の随所に施された彫刻の中で、妻壁の「火焙太鼓」や向拝中備の「馬」、脇障子の「左大臣・右大臣」、身舎外壁後側の「膜隣」なども珍しい構図である。この他に正面の小脇羽目板は「昇竜と降竜」、側面の小脇羽目板は「梅に鳥」、手挟は「牡丹」内法長押と頭貫間小壁は「鳳凰、鶴亀、竜馬」など彫りは深くなかなかの傑作である。特に建物を支える力神の首を疎め眼をむいて歯を食い締った姿は力感に温れている。木鼻の獅子の頭部が小さく猛々しいのは、この時代の特色である。垂木が黒、妻壁が白、縁下が朱と彩色が施されているが、これは後年のものであろう。
いばらきの装飾社殿
番匠棟梁稲川平左衛門豊繁、彫工竹井吉左衛門、根本利助、塗師伊兵衛など本殿造営に携わった工匠の名前が記されている寛保元年(一七四一)遷宮の棟札には、「天下泰平、五穀成熟」と氏子達の達ての願いが込められている。
「力神」とあるのはこちらの像です。苦しい立場にあるのでいわゆる天邪鬼かと思いましたが、どちらかというと神に属する聖なる存在のようです。
わたしは腰組のあたりに見える龍の木鼻が非常に面白いと感じます。色彩が統一されているので、まるで雲(瑞雲)と一体となった龍が本殿を運んでいるよう。なんとも神々しく見えるのです。
また、脇障子が縁側に取り付けてあるのも特徴です。ふつうは建物の柱のあたりに接続しています。
現地で社殿をよく見ると欠けてしまっている箇所がいくつか目に止まります。これが修繕かなにかであれば良いのですが、優れた作品であるがゆえ盗難に遭っているように思います。
覆屋で保護されていて盗難防止用の設備もあるのでしょうが、周辺に人がいるわけでもないのでこうした文化財は常にリスクと隣り合わせです。社殿を見るために訪れる人が増えると防犯にも繋がるのかな。
当社はどなたでも気軽に参拝できます。彫刻も比較的見やすくなっておりますので、お近くの方はぜひ見物してみてください。実物をご覧になればきっと驚かれると思いますよ!
境内社
『茨城県神社誌』に記載された境内社は以下です。
- 愛宕神社:火具土命
- 稲荷神社(2祠):倉稲魂命
上の写真の社殿の中に安置されているのは地蔵です。それが勝軍地蔵(愛宕神社の本地仏)かどうかは定かではありません。
・大形鹿島神社はヤマトタケルにまつわる伝承がある
・社殿は個性的で豪奢。覆屋の隙間からよく見える
・石段も少なく、比較的参拝しやすい
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参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。