wata
神社の参拝になれていない方にとって社号を覚えるのは大変ですよね。大抵はご祭神によって決まり、あとは地名や由緒と関係するだけなんですけど。
そんな数ある社号の中で、わたしがもっとも覚えるのに苦労したのが筑西市の雲井宮郷造神社。「雲井宮」と「郷造神社」ですから、ふたつの神社を意味しているような…
謎の多い神社なのですが、この記事で五行説などを用いながらなるべくわかりやすくご紹介します。参拝の参考になれば幸いです!
由緒
『茨城県神社誌』に記述されている社伝を以下にまとめました。
国造・毗那良珠が武甕槌、大国主、事代主の三神を奉祀して当地の経営に当たる。
その後、子孫車持命が永く当地に留まり治績を挙げ祖神を配祀。俗に郷造の社と伝わる
※6月28日 「授常陸国正六位上郷造神従五位上」『三代実録』
小田城主八田四郎源知家、社殿・玉垣・神門を造営
知家の六代孫・宍戸四郎基貞、当地に築城および当社を厚く崇敬。(現宮司倉持宅はその跡)
小田城主・小田成治当社再建
朱印地31石を賜る
旗本大木長之助、毎年玄米一俵を祭祀料として寄進。明暦中には同川福勝之助より玄米二斗が寄進され維新まで続く
同年の変革により氏子が倉持と成井のみとなる。それ以前は二十ヶ村
ご祭神は次の通りです
本殿左(配祀):大国主命、建御名方命
本殿右(配祀):事代主命、毗那良珠命
注目はなんといっても毗那良珠。『先代旧事本紀』の国造本紀の項で新治国造(当地の長官)とされ『常陸国風土記』にも記述のある人物です。設定は微妙に違うんですけどね。
また、毗那良珠は元祖国譲りの使者である天穂日命の子孫で、天穂日命が出雲に定着したことから毗那良珠もいわゆる出雲系とされます。そう考えると出雲系の配祀には感慨深いものがあります。
混乱させたくないのでわたしの意見を先に書かせていただくと、当社は冒頭に書いた通り「雲井宮」と「郷造神社」の二社が合併して誕生したと思います。
根拠は『真壁郡郷土史』。怪しい記述も多いのですが、合併に関しては違和感少ないので事実なのでしょう。それを信じるなら元禄期以降(1704年〜)に衰退した郷造神社が雲井宮に吸収されました。
ご祭神については真壁郡史が発行された大正期の時点で武甕槌命のみとされています。大国主などは主祭神ではないので記載されなかったのかもしれません。
郷造神社は上記の社伝の通りで毗那良珠を郷造神として子孫が祀ったとされています。子孫は孝徳天皇の御代に新治氏として大領に任ぜられ、延暦9年(790年)には新治直大直が外従五位下に叙されています。そうした経緯から仁和年間の神階は理解できるところです。
一方、雲井宮の方は諸説あってよくわかりません。社伝にある創建の時代は国造の制度自体がなかったはずで「国造の毗那良珠」が実在するならば早くて6世紀頃でしょう。
ただ、この社号から察するにやはり毗那良珠は重要な存在。『風土記』の総記には倭武命が新治郡に駐屯して毗那良珠に井戸を掘らせたとあります。それにより素晴らしい水が湧き出たといい、その水に命が袖を漬したので漬の国から常陸国へと転化しました。
いわば毗那良珠の井戸によって「新治」が発祥しましたので、この地で毗那良珠の伝説を持ち「井」の付く神社が『風土記』と無関係なはずありません。それでは「雲」の方はどうか。
前述の『風土記』の記述には続きがあって、毗那良珠と倭武命の出来事を土地の人々は「筑波岳に黒雲挂り、衣袖漬の国」の歌で伝えているとあります。
それだと雨によって袖を濡らしたという意味になるので、井戸の件とは違ってきますよね。そこで当社の「雲井」に繋がるのではないかと思います。
倭武命が袖を濡らしのは湧き水あるいは雨とする異なった二説があります。しかしながら水に恵まれた土地であることはたしかなので雲(雨)と井の両方を社号に用いたのではないでしょうか。伝説由来の神社を意味しているわけです。
なお、わたしは実際に見たことはないのですが、境内の東側に神社ゆかりの神井「垂の井」があるそうです。毗那良珠の伝説と結びつける意図ではないでしょうか。
ところで、当社の周辺には龍雲寺(田宿)、龍泉院(松原)、金泉寺(寺上野)の寺号が見られ、泉(井)と龍を意識した土地であるとわかります。龍泉院の第6代に龍雲という住職がいて周辺のお寺を開山したとか。
白川静の『字通』によれば、古来雲の中には龍が潜んでいたと考えられていて、「雲」という漢字の「云」の部分は龍の尾を意味します。「雲井」と「龍泉」はほぼ同義ということですね。
そして雲が龍をも意味するとなれば、武甕槌命との関係も想起されます。こちらは歴史の話とは違うので後ほど改めてご紹介しますね。
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アクセス
県西地区にお住まいの方であれば問題ありませんが、そうでなければ辺鄙な場所だと感じるでしょう。
最寄りのICは北関東自動車道の桜川筑西インターチェンジ。下りて焼く20分ほど。
駐車場は一の鳥居そばの集会所を利用できるかと思います。ふだん車を止めている方はいないかと思います。
周辺に駅はありません。ほぼ車での参拝になるでしょう。
名称 | 雲井宮郷造神社 |
住所 | 茨城県筑西市倉持928番地 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
可能であればぜひ春にご参拝いただきたいですね。境内とその周辺にはソメイヨシノが何本も植えられていて大変美しい。
鳥居の先の参道は100m以上あって長め。車で進んでいけますよ。
途中、いくつか祠を目にしました。これがまた興味深い。写真は天之御中主神を中心に左(向かって右)に大己貴命、右に猿田彦命が彫られています。この三神は神話では関係しませんから独特な信仰があったのでしょう。
なお、こちらの鳥居および社殿は西南西を向いています。神社に詳しい方なら社殿の多くは南か東を向いていることをご存知のはず。
鹿島神宮は例外で北向きなのですが、当社はそれらと違う。それにはどういった理由があるのでしょう。西南西に何かあるのか、はたまた何もないのか。
ここでもいつもの五行説。五行説は紀元前まで遡る古代中国の思想です。万物を水、木、火、土、金の五気に分類して関係を示すので、昔の人はその関係を利用して「特別な力」を期待しました。
オカルトな一面があることは確かなのですが、聖徳太子の冠位十二階にも用いられていますし、日本人の民俗にもいまなお浸透しているんです。特に季節の行事に影響していますね。
話を戻して当社が西南西を向いている理由です。わたしは西南西が申の方角であることから、水の三合の法則を用いているのではないか思います。
水の三合とは強い水気を生むための法則です。当社(雲井宮)は水が湧き出たことをきっかけに創建されましたので、水気溢れる神社であるために呪術(五行説)に頼ったのではないでしょうか。
水の三合は「申に生じ、子に栄えて、辰に死す」このうち「子」を含んだ2つ以上の十二支が揃うことで発動します。今回の場合、申は申の方角から来る参拝者、子は当社の神井、辰はご祭神の武甕槌命かと思います。かつては井戸で禊をしてから参拝したかもしれませんね。
辰(龍)を武甕槌命に充てるのは前述したように社号の「雲」が龍の意味を含み、龍が武甕槌命と同じ木気に属すためです。武御雷命とも書かれる同祭神は古くから雷神とされており、雷のように振動(動く)するものは五気のうち木気とされます。
まとめると当社が西南西を向いているのは水気溢れる神社であるための呪術。新治国に相応しいように思いますがいかがでしょうか。
神門
当社の特徴でもある随神門。随臣(随神)とは天皇に仕える右大臣と左大臣のこと。
天皇から見ての配置なので、門を正面にした場合であれば向かって右が左大臣、左が右大臣となります。ちょっとややこしいですね。
左大臣の方が格上なので年配となっていますが、それにしてもずいぶん年齢差があるような…他の随身像も同じようになっていますのでぜひ注目してみてください!(ちょっと見づらいですけど)
拝殿
三方ガラス張りの拝殿。神社としては珍しいスタイルですが、わたしは好きですね。境内に神職は不在だったかと思いますが、明かりが灯っているので別の時間にいらしているようです。
写真左に移っているのは絵馬です。当社の絵馬の片面には大きな「雲」の字。ユニークな社号を活かしたデザインとなっています。
扁額には「光孝天皇勅願所」とありました。同天皇は在位が4年弱と短いのですが、当社が神階を授かった仁和年間に天皇の位にあったことが関係しているかもしれません。当社が三代実録に記載されたかどうかは異論があり、橘郷造神社(行方市)とする意見もあるんですけどね。
それよりわたしは「蝦夷鹿嶋」の方が気になります。『茨城県神社誌』にある「蝦夷鹿嶋大明神」の尊称に由来するのでしょう。鹿嶋は武甕槌命を意味するとして蝦夷はどういう意味なのか。おそらく鹿嶋に並ぶ祭神か「鹿嶋」を修飾する言葉かと思います。
蝦夷は「えびす」とも読むので、「ヱビス様」として知られる配祀の事代主命と考えられます。しかしながら当社の由緒では事代主命を重視しておらず祭祀にもそれらしさが見えません。それに『明野町史』によるとこの字は「えみし」と読むそう。
「えみし」というと『風土記』には新治の地に朝廷に従わない蝦夷がいたという記述があります。たださすがに尊称に対してそれはないでしょう。実際には「辺境の」程度の意味かと思います。
ちなみに古代の豪族である蘇我氏は名前に辺境の地(蘇我蝦夷)や動物(蘇我馬子)を用いることで子の健康を祈ったそうです。北方の蝦夷であるアイヌも「きれいなものを好む病魔」から子どもを守るためにあえて変な名前をつけますので捉え方は色々ですね。
おそらく「蝦夷」は神井「垂の井」に由来します。「垂」には「国のはて」とか「へんぴな土地」という意味があって蝦夷と結びついたのでしょう。垂の井の由来まではわかりませんが、「蝦夷鹿嶋」については神井の地に鎮座する大明神(武甕槌命)という意味ではないでしょうか。
社殿には「毘奈良珠講」に参加している方々のお名前が扁額としてかけられていました。五柱の御祭神の中でも特別な存在のようです。
本殿
一回り大きな覆屋で保護された本殿です。寛延4年(1751年)に造営されたものでしょう。
立派な龍の彫刻、そして柱には小田氏ゆかりの洲浜紋。これは当社の宮司が小田氏の出身であり小田氏に外護され崇敬していたこと意味するかと思います。
『明野町史』には天正18年(1590年)に小田守治(小田氏治の嫡子)が宮司に「治」の字を与えた文書が載せられていました。感慨深いですね。
カメラで撮るのが難しい脇障子。内容は分かりませんが、左側は鶏がいるように見えます。右はヒゲの生えた男性が反対側を見ているようなので、左右をあわせた物語なのかもしれません。
御朱印
雲井宮郷造神社の御朱印です。社殿近くの社務所に神職がいらっしゃればいただけます。いただけたらラッキーくらいの気持ちでどうぞ。
・二社がひとつになって誕生。『常陸国風土記』に由来することが多い
・蝦夷鹿嶋は神井の地に鎮座する祭神を意味するのではないか
・御朱印は社殿近くの社務所でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。