wata
- 化蘇沼稲荷の由来
- 白狐の伝説
- 御朱印のいただき方
多くの信仰を集める寺社には不思議な伝説がつきもの。。特に稲荷神社では多く耳にする気がしますね。今回もいいネタ仕入れてきました。
この記事では行方市の化蘇沼に鎮座する化蘇沼稲荷をご紹介します!かつては笠間稲荷よりも人気だったといいますので、ぜひ覚えて帰ってください!
化蘇沼稲荷神社とは
由緒
ご祭神は倉稲魂命(宇迦之御魂)です。
化蘇沼は神社の鎮座する住所ですが、かつて同名の沼があったそうです。約五畝歩といいますから、いまの単位になおすと500㎡くらいでしょうか。あんまり大きくないですね。
化蘇沼は神が姿を見せる場所とされていたとか。稲荷神社だから狐?と思いましたが、どうも違うようですね。たしかに狐の伝説もあるのですが。。
神社は大掾氏によって創建されましたが、戦国時代に(北浦)武田氏、江戸時代は水戸藩の支藩である守山藩(一時的に松川藩)へと領主が代わっています。
北浦武田氏は甲斐武田氏が拠点を移したとのことですが、甲斐武田氏は常陸国の発祥ですから、先祖の地に帰ってきたことになります。
武田九ヵ郷(両宿・内宿・成田・帆津倉・金上・穴瀬・長野江・次木・小貫)の鎮守社です。かつては笠間稲荷よりも参拝者が多かったと言うから驚き!(笠間稲荷が人気を博したのは明治以降)
江戸にも溝中があって、船を使って参拝していたそうです!スゴッ!!
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【キツネの恩返し伝説】女化神社と奥の院|由緒・飛び地の理由・御朱印|龍ケ崎市
神社の鎮座する内宿には筑波から移動した遊郭ができたせいで人の行き来が増えたといわれています。
アクセス
駐車場は境内東側です。県道184号から入ってください。
駐車スペースは充分な広さが用意されています。
名称 | (化蘇沼)稲荷神社 |
---|---|
住所 | 茨城県行方市内宿1571-1 |
社務所連絡先 | 0291-35-3050 |
駐車場 | あり |
鳥居
わざわざ駐車場から戻らないと見れないこちらの大鳥居。東日本大震災で損傷したものを再建しました。
ふだんなら通り過ぎてしまうかと思いますが、春ならきっと注目するはず。
鳥居の先にある参道にはソメイヨシノの並木が続いています。年季が入っていて無事に花を咲かせるか心配なものもありましたが、ぜひとも春に訪れてみたいですね!
またこの参道は「桜馬場」と呼ばれていました。武田氏も馬を走らせて鍛錬していたのかな〜
拝殿
美しく朱色に彩られた拝殿。彫刻の細部まで丁寧に染められているので思わず目が止まります。
木鼻にあるのは獏と獅子。どちらも神道よりも仏教に関係が深い霊獣です。そう、神社建築ってじつは寺院建築と似ていることが多いんですよね。
古神道(古代の神道)は木や岩、あるいは依代と呼ばれる物質に神を降ろしていました。神事の際に祭壇を設けることはあったのですが、常設の社殿は必要としていなかったんです。
それが仏教に影響され寺院のような建物を築くようになりました。神社とお寺は別のものなんですが、お互いに影響を受け、ときに一体だったことは覚えておきたいですね。
正面の蟇股には亀。。いや、おそらく中国で北方の守り神とされる玄武です。南に位置する北浦武田氏の居城・神明城(武田城)を守護するという意味でしょうか。
こうした彫刻をふだんは何気なく見ていますが、これだけ強調されると色々語らずにはいられません!
本殿
由緒のところよく見ると北浦武田氏が再建した社殿は江戸時代に焼失しているんです。現在の社殿は豪商の河野涼谷が天明時代に再建したもの。
涼谷は屋号を「稲荷屋」とするほど稲荷信仰が篤く、そのおかげか涼谷の醤油は江戸でよく売れ飛ぶ鳥を落とす勢いで売れたとか。「亀甲正」(亀甲形に正の字)が目印だったそうです。
社殿の焼失は残念な出来事ですが、涼谷のおかげ再建できてなによりでしたね。そのときも真っ赤な社殿を建立したとのことで、いまも往年の姿といったところでしょうか。
俳人でもあった涼谷が残した句は境内の句碑に彫られています。しかも松尾芭蕉の句と一緒に。。芭蕉は文化14年(1817年)に化蘇沼稲荷に参拝をしていたそうです。詳しくはわかりませんが、そのときは涼谷と一緒だったと思います。
句碑には次のようにあります。
この道やゆく人なしに秋のくれ 翁(芭蕉)
名月も昨日になりぬ峰の松 洞海舎涼谷
わたしは文字すらよく読めなかったので、以下のブログが参考になりました。さらに詳しい解説がありますのでぜひご覧ください♪
土俵
社殿の後方には土俵がありました。「関取稲荷」の異名はここから取られたことは間違いありません!
化蘇沼稲荷神社では毎年8月25日の例祭で相撲を奉納しています。古くは豊作を占うための神事でした。
稲荷神社で奉納相撲は初めて耳しました。屋根付きの土俵に観覧席まで用意されているので、かなりしっかりした造りです。
前年は新型コロナ対策で中止になってしまったと思います。そのせいかちょっとお手入れがされていない様子ですね。
石碑には「第十二代 佐渡ヶ嶽慶兼 訓」「着々寸進 洋々萬里」と彫られていました。第53代横綱・琴櫻です。おお〜!!
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御神井
詳細はまったくわかりませんが、社殿東側に御神井と呼ばれる井戸があります。
情報をかき集めると、井戸に関係した次のようなことがわかりました。
- この井戸は文政元年(1818年)に成就薬師山の僧侶によって掘られた
- 文政の頃、この辺りに「井戸作」という地があって薬師如来を祀っていた
- 化蘇沼稲荷は明治の初年まで天台宗薬師山円長寺が奉仕していた
というわけで、どうやら別当を務めた円長寺と関係が深そうです。円長寺はいまもありますので、機会があればお話を伺ってみたいのですが。。
化蘇沼の白狐の伝説
最後になりましたが、『北浦の昔ばなし』にある白狐伝説をご紹介します♪
化蘇沼稲荷の社殿の裏の板には小さな穴があって、そこから白狐が出入りしていたそうです。狐は夜になると美女に化けて通りすがる人々に声をかけていました。
白狐は化蘇沼の子どもたちにも人気だったようで、子どもたちは白狐がお産をした頃に揃って次のように歌ったそうです。
小ちゃい口に 紅つけて
赤いべべ着た 白狐
姉さんかぶりの あで姿
子供ができた 飯たべた
子供ができた 可愛い子
お産が終わった後に「おぼたて」といって赤飯や油揚げをお供えしたといいます。だいぶ地元と仲良しな狐がいたんですね!
化蘇沼稲荷では安産・子育ての祈願をするのもよいかと思います♪
寸津毘古・寸津毘賣の像
参道の左手に見えるのは彫刻家の宮地久子さんによって作られた寸津毘古と寸津毘古の像です。二人は奈良時代に編纂された『常陸国風土記』に登場する人物ですね。
同風土記は『古事記』『日本書紀』に続く日本最古級の文献です。一部失われているものの当時の茨城県(常陸国)を示す貴重な史料といえるでしょう。じつは当地行方の言葉はその風土記に由来するんです。
寸津毘古と寸津毘賣はそんな行方地域の藝都里を治める土着の豪族として記されています。しかも東征の帰路にあったヤマトタケルと対立したことによって寸津毘古が征伐されたと伝わります。その後、寸津毘賣と一族は服従の意志を示したことで許され、祭主として生き残ります。
このように市内の由緒ある場所には風土記にちなんだ像が建てられて歴史を伝えています。行方に記紀で人気のヤマトタケルに関するエピソードがいくつもあるのは財産です。歴史に関心のある方に知られるといいですね!
平安時代の百科事典『和名類聚抄』に「藝都里」は「高家」に独立したと伝えています。
御朱印
化蘇沼稲荷神社の御朱印です。
催事の場合は境内の社務所でいただけるかもしれませんが、兼務社なのでふだんは宮司宅になるかと思います。宮司宅の住所は示せませんが、本務社の繁昌鹿嶋神社の近くです。
滞在されているかお電話で確認してから訪問しましょう。電話番号はフリーペーパーなどにも公開されているので『アクセス』に示しました。
まとめ
この記事のまとめ
- 「化蘇沼」は実在した沼に由来
- 境内の子供を連れた歌う白狐が美女の姿で現れたという伝説がある
- 御朱印は繁昌の鹿島神社近くの宮司宅でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
北浦の昔ばなし/小沼忠夫
この記事で紹介した本はこちら
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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