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龍ケ崎市の伝統芸能・撞舞は八坂神社の祭礼なのでしょうか。いや、それは間違いないんですけど、「はじめからそうだったか」が問題です。
わたしはずっとモヤモヤと疑問を持っていましたが、このたび「撞舞は市内の別雷神社が起源」と主張したいと思います!
この記事では龍ケ崎市の撞舞とふか〜い関係がありそうな高砂の別雷神社をご紹介します。信じるか信じないかはあなた次第!
別雷神社は別雷命をご祭神とする神社で龍ケ崎市の高砂に鎮座。最寄り駅の竜ヶ崎駅(竜ヶ崎線)から20分ほど歩きます。
住宅街の一角にちょっと窮屈な感じでありました。すぐ隣はアパート。土地開発があったようですが、おそらく神社は動かさなかったのでしょう。
茨城県神社誌に載っていない神社ですが、龍ケ崎西コミュニティ協議会文化体育委員会(長い。。)によってまとめられた龍ケ崎「西の風物語」に次のことがありました。
- 創建された年や経緯は不明
- 本社は京都の上賀茂神社
- はじめは上町の諸岡家の氏神だった。のちに高砂の総鎮守へ
「撞舞」は一言も出てきません。でも、やっぱりなにかあるんじゃないかと思うんですよね。じっくりと考えていきましょう。
別雷神社の特徴として稲荷神社が併設されています。写真だとひとつの建物に見えますが、中にはちゃんと2つの本殿があるんです。稲荷神社も同じくらいの年月が経っているようでした。
社殿の裏側にいくつか祠がありますが、それは後ほどご紹介します。
社殿の裏に駐車スペースがありますが、通路がとても狭いので注意してください。短時間のお参りなら北側の公民館に駐車してはいかがでしょう。徒歩1分ほどです。
アクセス
名称 | (高砂)別雷神社 |
住所 | 茨城県龍ケ崎市高砂 |
駐車場 | あり 社殿の後方の辺りに駐車スペースあり |
Webサイト | なし |
別雷神社と撞舞の関係
撞舞についておさらいです。あとで振り返りますのでざっくりした理解で大丈夫ですよ。
八坂神社祇園祭の最終日に、高い柱(つく柱)に登り様々な曲芸を演じる芸能で、19世紀前半以前から伝承されたものと考えられる。
撞舞が行われる柱は、14mの丸柱で、先端に横木をつけ、その上に円座を載せる。舞男と称する舞の演じ手は、筒袖襦袢(つつそでじゅばん)に裁着袴(たっつけばかま)の衣装と雨蛙の被り物を被り、囃子にあわせてつく柱に上る。途中で曲芸を見せながら頂上に達すると、円座の上に立ち上り東西南北に矢を射る。その後、様々な曲芸を演じ、最後に頭を下にして斜めに張った綱を滑り降りる。撞舞は、古代に中国から伝来した散楽の流れを汲む蜘蛛舞からきたものといわれ、疫病予防・雨乞い・豊作祈願などを祈って行われる。
龍ケ崎の撞舞/龍ケ崎市公式
以上を踏まえて別雷神社との関係をご紹介します。
雨乞い・豊作祈願
撞舞は、古代に中国から伝来した散楽の流れを汲む蜘蛛舞からきたものといわれ、疫病予防・雨乞い・豊作祈願などを祈って行われる。
龍ケ崎の撞舞/龍ケ崎市公式
なぜ撞舞をするのか。根本的なことなので大切ですよね。おそらくどの撞舞の紹介文であっても「疫病除・雨乞い・豊作祈願」が記載されているはずです。
医療や科学が発達していない時代ですから、「病気が治らない、雨がふらない、作物が育たない」は命に関わる重大なこと。いまよりもずっと強く祈願されたことでしょう。
このうち豊作祈願についてはどの神社でされると思いますが、雨乞いとなると少し限定されます。その中でも別雷神社に祀られる別雷命は適任。「雷」には雨と田の文字が含まれているくらいですからね。
別雷命は明治以降「電気の神様」とされるなど性質に変化がありましたが、それ以前は撞舞で祈願されるような雨乞い・豊作の神でした。
カエルに扮する
舞男と称する舞の演じ手は、筒袖襦袢(つつそでじゅばん)に裁着袴(たっつけばかま)の衣装と雨蛙の被り物を被り、囃子にあわせてつく柱に上る。
龍ケ崎の撞舞/龍ケ崎市公式
舞男の衣装はずいぶん変わってますよね。アマガエル姿だとわかるのは柱から下りてくるとき。あまり長い時間見れない貴重なシーンです。
どうしてカエルなんでしょう。八坂神社との関係は不明ですが。。龍ケ崎の「雨蛙のフク伝説」と関係があるといわれています。洪水を飲み込み、日照りのときに水を吐き出す人助けをするカエルです。
撞舞は「フク」をモデルにしていると考えられますが。。カエルは別雷命の使いなんです。稲荷神社でいうところのキツネのような存在ですね。
雨乞い、五穀豊穣、カエル。。別雷命と関係するキーワードが続きます。
矢を射る
途中で曲芸を見せながら頂上に達すると、円座の上に立ち上り東西南北に矢を射る。
龍ケ崎の撞舞/龍ケ崎市公式
撞舞の見せ場のひとつです。放たれた矢をゲットすると1年間災厄に遭わないといわれます。
矢を放つ神事と言えば流鏑馬ですよね。他には?わたしはピンと来ませんが、高砂の別雷神社には次のような慣習があったそうです。
別雷神社で毎年正月20日に行われていた祭りを「高砂おびしゃ」という。本来おびしゃは正月に徒歩で弓を射り、その結果で一年の豊凶を占う神事であるが現在は行っていない。
⑫別雷神社/龍ケ崎「西の風物語」
別雷神社にはもともと矢を放つ神事がありました。それが撞舞になったとまでは言えませんが、矢を使う共通点は貴重だと思います。
ただ、その行事は別雷神社というよりも境内社のこちらに関係あるかも。。社殿の後ろにある祠は八幡宮。八幡さまといえば弓の得意な神様ですよね。
はじまりの年代
撞舞はいつからはじまったのでしょうか。確認できる最古の資料は以下です。
撞舞の古い資料は,寛政4年(1792)の『天王社祭礼式録帳』の中に「上町半助」という舞男の装束に関する記載があるほか舞男が被った古い面に,「天王町 安政二年(1855)乙卯六月吉日 上辻中下組」と記された2点があります。
「龍ケ崎の撞舞」
400年以上の歴史といわれていますが、八坂神社の祇園と同時期と考えられるだけで記録はありません。わたしとしては同時期とされる理由もよくわかりませんが。。
はじめの紹介文にある「19世紀前半以前から伝承されたものと考えられる。」は資料から読み取れる正確な表現なんですね。
それでは別雷神社はいつ頃からあるのでしょうか。
雷神様をいつこの場所に祀ったかは不明であるが、境内には多くの祠や御堂があり、古い時代のものでは延享四年(1747)の道祖神、寛延四年(1751)の水神宮などが見られる。
⑫別雷神社/龍ケ崎「西の風物語」
こちらもハッキリしませんが、撞舞より古い可能性が出てきました。もし、別雷神社が寛政4年(1792年)以降の鎮座であれば撞舞とは無関係と考えて良いでしょう。
撞舞によく似たおまつりは千葉県の野田市、旭市、多古町にも見られます。いずれも八坂神社の祭礼です。それぞれの起源をさかのぼってみると、18世紀の後半にはあったことがわかります。
そのうちもっとも古い年代は、多古町のしいかご舞に使用する猿面にある天明元年(1781年)の記載です。つまり、各地の撞舞よりも別雷神社の創建の方が早いと考えられるのです。
また、歴史は途絶えてしまいましたが、龍ケ崎市のお隣の利根町にも尋橦がありました。赤松宗旦の利根川図志の画を見ると龍ケ崎とほぼ同じです。こちらは布川大明神(現:布川神社)の祭礼です。
利根川図志は安政2年(1855年)頃に執筆されましたが、利根町を訪れていた小林一茶が文化7年(1810年)に尋橦で一句詠んでいますのでやはり同年代です。元禄年間にはじまったという説もありますが、出典が不明なのでここでは控えておきます。
撞舞の歴史が別雷神社の創建以降にあるのは別雷神社の祭礼とするための絶対条件です。
鎮座地
撞舞会場は昔もいまと同じ場所かわかりませんが、八坂神社と般若院から遠く離れることはないでしょう。
だとすると会場は別雷神社から徒歩20分ほどの距離。極端に離れていないことから、別雷神社のおまつりだった可能性は考えられます。
それに。。別雷神社はもともと上町の師岡家の氏神でした。上町は現在八坂神社の鎮座する場所です。
氏神なので古くは高砂ではなく上町にある自宅の敷地内に祀られていたのではないでしょうか。年代は。。そうですね。。境内にある祠が置かれる前ですから18世紀の前半辺りまで。
この氏神だったというのはポイントです。
舞男について
撞舞の主人公ともいえる舞男。15m近くある柱を登り、矢を放ったり曲芸を見せたりします。各資料には江戸時代の初期に流行した蜘蛛舞によく似ているとあります。蜘蛛舞はいわゆるアクロバット。サーカス芸みたいなイメージでしょうか。
蜘蛛舞が原型だとして。。それを神事でするのはなぜでしょう。おそらく由緒正しき神社で催されません。実際に撞舞は非常に限定的に催されています。利根川周辺の八坂神社(+布川大明神)だけです。
それでは由緒正しくない場合は?語弊があるかもしれませんが、個人や一族が信仰する氏神であれば蜘蛛舞などの流行芸を奉納するのは自由です。もしかしたらはじめは浅草のように出初式の奉納だったとも考えられます。
撞舞は奇祭といわれ、一般的な神社では見られません。しかしそれは民間の自由な発想ではじまったからではないでしょうか。
わたしの想像で撞舞の起源と八坂神社と祭礼となった経緯を書きます。
撞舞の起源は高砂の別雷神社が上町にあった頃(18世紀前半よりも前)です。当時、別雷神社を氏神としていた師岡家が流行の蜘蛛舞(もしくは出初式)を奉納したことにはじまります。師岡家は鳶や火消しなどの職業と関係していたのではないでしょうか。
撞舞は次第に話題となり、大勢の人々が集まるようになっていきました。面をかぶったり、矢を放つのはその過程で追加されたと思います。多くの人が関わることで別の文化が加わっていったんです。
しかしそうなると師岡家だけでは運用が難しくなります。しかも撞舞と同町内の八坂神社の祇園は同時期。師岡家はどうしたら自分たちと町民の負担を減らせるか考えた結果、撞舞を八坂神社の祭礼に組み込むことを思いつきました。
師岡家にとって別雷神社は氏神で八坂神社(当時は天王社)は鎮守社ですから、両方に信仰があっておかしくありません。むしろ町民はその方が自然に足を運ぶことができたと思います。
その後、別雷神社がいまの場所に移設されました。師岡家が引っ越したり、多くの町民に知られたことで氏神ではなく鎮守社となったのかもしれません。
いかがでしょう?奇祭といえばそれまでですが、数ある神社の祭礼と違っているのはなにか理由があるはず。経緯まで考えるとその土地や歴史にリアリティが出て楽しいですよ!
今回の説をご紹介するにあたって気になっているのは、利根町の尋橦の存在です。
元禄年間(1688年〜1704年)にはじまったという説があり、もし事実なら別雷神社の起源説はひっくり返ります。
その可能性は否定できませんが、それだと奇祭といわれるような奇抜さを説明できないんですよね。だれかが突然思いついたのでしょうか。
どちらが先なのかはわかりません。でも、布川大明神と別雷神社は古くから関係があると思います。
別雷神社の境内に大師堂があります。中には弘法大師の像と「四郡大師」と書かれた紙。。四郡大師は利根町の徳満寺を中心に置かれた霊場でお遍路と同じ88ヶ所あるといいます。実際にはもっとたくさんあるそうですが。。
徳満寺は布川大明神の別当です。お寺ですが神社の運営をしておりました。その徳満寺にちなんだ太子堂があるのはなぜでしょうか。
龍ケ崎の撞舞が別雷神社ではじまったとすると撞舞と尋橦も深い関係がありそうですよね。この辺りは多くの記録を残していそうな徳満寺を調べるとわかるかもしれません。またなにかわかったら追記します。
利根川図志 第3巻/著:赤松宗旦 訳:阿部正路・浅野通有
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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