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『式内社』は平安時代に編纂された『延喜式』に記載された神社のことです。その部分は「延喜式神名帳」とも呼ばれ、神社巡りをする者たちにとって、大きなブランドのひとつとされています。
しかし式内社は千年以上も昔のことなので、その神社が現在どうなっているのかはほとんど分かりません。周辺の情報を踏まえつつ、たぶん式内社じゃないかということで語られているのです。
それくらい曖昧な存在ですから式内社論争は論が出ません。だけど面白い。今回はそんな式内社に触れてもらうべく、阿見町の阿彌神社(阿弥神社)を紹介します。町内にある同名の2社のうち中郷のほうです。
ぜひ式内社としての阿彌神社がどちらなのか考えてみてくださいね!
この記事でわかること
- 阿彌神社の創建の伝説について
- 式内社に関する論争
- 境内社の霞ヶ浦神社について
由緒
社殿を造営し、皇子を鎮祭し阿彌神社と称した。
同地内にあった熊野神社、香取神社、天照太神宮、皇産霊神社を合祀。(いずれも無格社)
東村大岩田に鎮座する鹿島、烏山愛宕、八坂、八幡神社x2、熊野x2、鈴、稲荷神社を合併。また同年5月に阿見町内の十握神社を合併。
ご祭神は豊城入彦命と経津主命です。前者は県内の神社では非常に珍しい御祭神です。わたしが記憶しているのは雀神社(古河市)くらいです。
どのようなご祭神かを考えるうえで欠かせないのは、やはり下野国(現在の栃木県)です。なぜなら下野国は崇神天皇の皇子であるトヨキイリヒコが渡った土地。
下野国には観音信仰と山岳信仰で知られる二荒山があり、それが常陸国まで広まった際にトヨキイリヒコ信仰も根付いたのではないかと考えられるのです。個人的には。
その一端として二荒山で修行した勝道が阿見町より南にある稲敷市の大杉神社を創建したという伝説があります。勝道は二荒山の修験道の祖とも言われています。
大杉神社のご祭神は三輪山の神々です。それもまた大和→下野→常陸と渡ってきたといわれ、じつは大変グローバルな展開をしたことをうかがわせる面白い神社なのです。
とはいえ、歴史的には武甕槌命を御祭神としていた時代が長いようです。その理由として明暦3年(1657年)の棟札の写しに社号が「大明神」とあり、本地仏が十一面観音であることからその垂迹神が妥当とされています。
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享保〜明和期(1716〜1772年)の史料では「鹿島明神」と称していた。
鳥居
阿彌神社の境内入口は写真のようになっております。駐車場はないので周辺の空いているスペースに安全に駐車するほかありません。
阿彌神社のかつての社格は郷社でした。格式として非常に高く少数です。たとえば阿見町よりずっと人口が多い土浦市には一社しかありません。阿見は神社が少ないからこそ信仰が集中しやすかったのかもしれませんね。
そんな高い社格ですが、じつは阿見町にはもう一社の阿彌神社が竹来にあり、そちらは郷社よりも格上の県社です。
わたしが知る限り阿見には御朱印を頒布している神社もなく、さほど神道の活動は活発ではないのですが、これだけの社格の神社があるのは面白いと思います。影響力も強かったのでしょう。
鳥居は神明式で扁額には屋根が付いています。この形はかなり珍しいのではないでしょうか。参道は特にお手入れがされているわけではないと思いますが、昔ながらの心落ち着く雰囲気があります。
その一方で神社周辺は開発が進んでおり、スーパーや公民館などがたくさんあります。近年発展が著しい地域でありながら、中心地の神社は鎮守の森を残しながら維持されているようです。
参道
参道沿いに伊勢太々神楽の石碑を見つけました。その前には御幣が捧げられており、しっかりと奉仕がされていることがわかります。
左の小さな石祠は「金毘羅大権現」です。モロに神仏習合時代の名称です。「権現」は仮の姿の意味で、本当の姿を本地仏といいます。仏の仮の姿が神であるというのが本地垂迹説です。
わたしは金毘羅の本地仏はオオモノヌシと理解していたのですが、それは明治以降のことでそれ以前は不動明王や千手観音、十一面観音を本地仏としていたそう。
金毘羅は山岳信仰の要素が強いので、山で祀られることが多い千手や十一面と結びつきやすかったのでしょうか。不動明王は修験道では本尊格なので納得ですね。
社殿
阿彌神社の拝殿は入母屋造りです。黒い建屋にやや朱色の屋根のコントラストがかっこいい。内部はたいへん暗くなっておりほとんど見れませんでした。すっごく見たいのに。
個人的にはかっこいいと思える社殿なのですが、少し前まではそうは言えない状況だったようです。平成2年に発行された『古社巡礼ー式内社を歩くー』によれば、板戸にスプレーで落書きされており痛ましかったのだとか。
いまはそんな光景を見たことはありませんが、土地に馴染みのない方が増えればそういうことも起こり得ると容易に想像できますね。
本殿は比較的シンプルな造り。流造で鰹木は六本、千木は男千木でした。二社の阿彌神社は、いずれも豪華絢爛な社殿とはいえません。なので高い社格を形から判断することは難しいのです。
中郷と竹来のどちらが式内社なのか。江戸時代の方々もかなり考えていたそうです。もし本当の阿彌神社が千年の時を超えてあるのならば、由緒としては大変素晴らしいことです。
そこで、わが神社こそ、ということでたびたび論争(訴訟)になったようですね。それは知っていたのですが、てっきり中郷と竹来の争いかと思っていました。じつは同地の熊野権現(別当:滝音院)も加わっていました。
安永年間に竹来の二の宮明神が阿彌神社と改称すると当社も続きます。(天明元年に当社が阿彌神社と称したことを確認)安政10年(1863年)には熊野権現別当が竹来の阿彌神社に対して訴訟を起こしました。
また文政3年(1820年)には逆に竹来の阿彌神社が中郷を訴えたのです。その後の文政12年(1829年)には寺社奉行がそれぞれの訴えの一部を認め、それぞれ阿彌神社と称することが認められました。
つまり結局のところどれが式内社かは不明、だけど自称するのは認めるから喧嘩は止めて、ということですね。高久は別の式内社に比定(確実視)される楯縫神社と共同で例祭をすることもあってそちらも有力です。
境内社
阿彌神社にはたくさんの境内社が建てられているのですが、その中で最も有名なのは、参道左に見える霞ヶ浦神社だと思います。じつは正式な境内社ではないのですが、阿見町にとっても意義深い神社なのです。
建てられたのは比較的新しく、始めは阿見町にあった霞ヶ浦航空隊の敷地に建立。航空隊員や予科練生、海軍関係者として亡くなった方を英霊として祀りました。かつての御神体は霊名録(殉職者の名簿)です。
戦没者といえば靖国神社ですが、霞ヶ浦航空隊と土浦航空隊は訓練中等の殉職者に対する供養と慰霊のために自分たちで建てたのです。海軍殉職者の靖国神社ともいえる神聖な神社でした。
大正14年(1925年)に建立のための建設調査委員会が発足。当時、霞ヶ浦航空隊に所属していた山本五十六(のちの海軍元帥)が委員長になりました。ただし、山本はそのあとすぐに阿見を離れてしまいます。
ちなみに毎年秋に開催される土浦の花火大会も山本が秋元梅峯和尚(神龍寺)に相談して始まりました。戦没者の慰霊を目的のひとつとしており、当時はそうした儀礼が重視されたのです。文字通り命をかけるわけですからね。
本殿のそばには、このようにいくつもの石が建てられていました。その中には地蔵菩薩と思われる彫りもあります。
その前にあるのは、おそらく恵比寿の像ですね。鯛らしきものを左手に抱えています。なぜ恵比寿と地蔵が関係するのか興味深いところではないでしょうか。考えてみると面白いですね。
・創建は豊城入彦命といわれ、ご祭神をタケミカヅチとした時代が長い
・式内社の阿彌神社の可能性があるが、江戸時代から竹来の阿彌神社と議論がある
・霞ヶ浦神社は海軍の殉職者を慰霊するために建てられ、当地に移設された
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
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