wata
先日阿見町の中郷に鎮座する阿彌神社を紹介しました。そこで阿見町には阿彌神社が二社あり、それぞれ式内社であるとする者たちの間で論争があったこともお伝えしました。
そこで今回は竹来の阿彌神社をご紹介し、改めて式内社について検討していただければと思います。神社をめぐるときには何かテーマがあるとより楽しめますので、この記事が調味料のような役割に慣れば幸いです!
この記事でわかること
- 由緒と御祭神
- 楯縫神社との関係
- 式内社と考えられる理由について
由緒
不詳
ご祭神は武甕槌命です。それに経津主神命と天児屋根命を配祀しています。この組み合わせは春日大社を思い起こさせますね。
当社が「二宮明神」と呼ばれるのは、「一宮」にあたる楯縫神社との関係によります。楯縫神社のご祭神は経津主命であり、当社と楯縫は鹿島と香取の神のような密接な関係なのです。
式内社の阿彌神社は当社と中郷、それに今はなき熊野権現の間で論争がありました。しかしその中でもっとも有力とされているのが当社です。それは社格が物語っています。
ただし、式内社に数えられたのは千年以上前のことですから、実際のところはよく分かりません。当社の由緒についても様々な文献が残っているわけでないので、だれも確証は持てないのではないでしょうか。
そこで重視されるのが、式内社に比定される楯縫神社との関係です。共同で催す例祭や似た境内などから、同格と考えるのはさほどおかしいとは思えません。
また、『常陸国風土記』に当地の地名「たかく」が見えることから、式内社の時代よりもさらに古い時代からあるという見方もされております。県内最古級の可能性があるのです。
wata
鳥居
こちらが阿彌神社の鳥居です。鳥居の前に駐車が出来るように見えるのですが、駐車禁止の立て札がありましたので、ここに止めるのはやめておきましょう。
近くの運動場に駐車場があるので、そちらを利用したほうが安全かと思います。ただし、神社公式の駐車場ではないはずなので、自己責任でお願いします。
鳥居の前の石柱には「県社延喜式内二宮阿弥神社」あります。県社は特別に高い社格です。ほぼ最上級ですから、のどかな村落にあるのは若干の違和感さえ覚えます。
中郷阿彌神社の境内は開発が進んだことによって少しずつ縮小してきたと見受けられます。開発の波に押される中郷に対して竹来は昔ながらの雰囲気。ずいぶんと雰囲気が違っているような印象を受けました。
参道
巨木に囲まれており、参道はかなり暗くなっています。面白いのは参道の左手にいくつもの石祠が見られることです。興味深いことにはそれは楯縫神社と同じなのです。
道の先に進むと、このように小さな石祠がいくつも並んでいます。よほど興味のある方でなければ近づくことはないでしょうね。楯縫に似ているのは何らかの意図があってのことでしょう。
ちなみに楯縫とは祭事において次のような関係があります。
祭祀は、古くは年七五度の祭事が行われていたとのことであるが、鹿島の神の御着ということで神がかりの氏子が武甕槌の神。経津主命の神輿を二の宮である竹来の阿弥神社へ移すということが行われていた。江戸時代になると祭事の数は減少したが、次のような祭祀が引き続き行われていた。
美浦村誌 P98|美浦村史編さん委員会
竹来の阿彌神社が式内社と考えられるのは、『常陸国風土記』にもある地名「たかく」と式内社(に比定される)の楯縫神社との関係からです。
それにしても「神がかりの氏子」はなかなかのパワーワード。鹿島神宮の「物忌」が当地にもいらっしゃったのでしょうか。物忌は生涯を神に捧げた女性ですが、明治になってその制度自体が廃止されました。
境内社
こちらは神楽殿でしょうか。方形の建物に彫刻がいくつも見えます。屋根の部分には穴が開いてしまっているので、状態はあまり良くない様子。屋根の中心は尖ったものが天に向かって突き上げられています。
阿見町の端間にある不動堂もこれに似ています。そちらは不動明王が持つという剣でした。もしかしたらこちらの建物もかつては不動堂で不動明王が祀られていたのかもしれませんね。
拝殿
拝殿にはほとんど装飾らしいものがありません。県内の神社でよく目にする神社庁のポスターなども一切張られておらず、土着の信仰のみが今に伝わるという感じ。
ただ、このサイズは並の神社とは違います。地域の人々が大勢来るからこそなのでしょう。当社は奇妙なほど社伝が残っていませんが、火災などによるもので実際には膨大な記録があったのではないかと思います。
狛犬は向き合っています。近年の狛犬にはこのスタイルはほとんどありません。拝殿と反対側、体を境内の外に向けているはずです。向き合うタイプは県西地域によく見られます。江戸時代に流行したのかも。
拝殿の扁額には「県社阿弥神社」。暗くて読みにくいのですが、これを揮毫したのは鹿島神宮の大宮司の鹿島則文です。鹿島神宮との関係が強固であることがうかがえますね。
拝殿の中で扁額が掲げられていたので撮影してみました。内容は分かりかねるのですが、2人が左上のほうの何かに目を向けています。右側の人物は髪が長いのですが、よく見るとヒゲが生えているので男性のよう。
2人が見ているものには何か顔のようなものが付いているのですが、形は人間よりもかなり小さいので、まるで妖怪のような姿です。
本殿
本殿はかなり立派なものでした。中郷のブログを書いたときに、二社の社殿はそれほど大きくないと書いてしまったのですが、竹来はそれには当たらない見事なものです。
流造りの屋根の軒下の部分は赤く染められているようでかっこいい。大棟にあるのは男千木で鰹木は五本。脇障子と同羽目板には特に彫刻らしきものは見えませんでした。かなりシンプルな作りですね。
サイズや雰囲気は楯縫に似ているのですが、楯縫の場合は『二十四孝』や脇障子の彫物が印象的でした。竹来はそうしたものがなく無骨な雰囲気ですね。
石祠
本殿周辺には石祠がいくつも並べられており、丁寧に御幣が捧げられておりました。マニアにはたまらない。たいていは山岳信仰系なのですが、たまに見たことがない社号に出会えるのが密かな楽しみです。
中には少し変わったものも見かけました。左は皇産霊神社と書いてあると思います。おそらく古くは第六天を祀っていたと思われます。香取市に本営がある「魔王」の異名を持つ神ですね。
右は山王大権現です。山王は比叡山の守護神としての意味合いもありますから、もしかしたら周辺に天台宗のお寺があり、明治時代以前は当社の別当としてあったのかもしれません。楯縫神社も別当は天台です。
その中で特に珍しいと思ったのがこちらの「大洗」とある小祠です。それに続く文字は「酒列」でしょうか。大洗磯前神社と酒列磯前神社は二社一体とされる県内有数の古社です。
ただそれらが小祠として祀られることは聞いたことがありません。これがどういう経緯で遠い阿見の地にあるのかはたいへん興味深いところです。
当社はじつに奥深いと思います。郷土史を眺めていると、どうも周辺の神社との関係も面白いものがありそう。今後はもうちょっと範囲を拡大しながら掘り下げていきたいと思います。
これをご覧になって散策した方も、なにか気づいたことがあったら教えて下さいね。
・竹来阿彌神社の創建はタケミカヅチを御祭神とする
・楯縫神社に対して二宮明神とも呼ばれる
・中郷の阿彌神社、熊野権現とともに式内社論争があった
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。