【観音霊場】白羽町の清水寺|常陸太田市【天志良波神社】

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

お寺と神社はまったくの別物。しかし、江戸時代以前は神仏習合しており、その区別が明確ではありませんでした。神社には祭祀をする僧侶「社僧」がいることも少なくなかったのです。

明治初期に政府の神仏分離令によって寺社が完全に分離すると、それぞれの歴史で語られる事はほぼ無くなりました。そのため現代の人たちは神仏習合について知る機会がありません。

ですから、いまになってかつての寺社の関係を垣間見ることができると感動します。まるで本当の歴史に触れたような気分になるのです。

今回はそれをわずかながら感じられる常陸太田市の清水寺きよみずでら(天台宗)をご紹介いたします。清水寺は同地に鎮座する天志良波神社の別当として、とても密接な関係だった時代があるのです。

この記事でわかること

  • お寺の由緒とご本尊
  • 参拝方法
  • 坂上田村麻呂との関係
  • 御朱印のいただき方

清水寺は資料によっては「セイスイジ」と読みます。

清水寺
清水寺

由緒

清水寺の歴史はほとんど分かっていません。概ね次のように語られます。

寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると、天台宗江戸東叡山末寺の医王寺自羽山大聖院がある。「新編常陸国誌」では真壁郡黒子(現関城町)千妙寺末で自羽山清水寺とあるが、末寺門徒九ヵ寺、百姓旦那三一六人を有した。大聖院は天保年間に廃寺となり、現在は清水寺と俗称される観音堂が残る。

茨城県の地名 P147

ご本尊は常陸三十三観音に数えられる千手観音です。わたしは資料を含めて見たことがないので、どのようなお姿なのかまったく分かりません。機会があればぜひ拝観してみたいものです。

上記の由緒にある旧寺号「医王寺」からすると、かつての本尊は釈迦如来か薬師如来と考えられます。本寺の千妙寺を考慮すると釈迦如来のほうが有力でしょうか。

また、山号の「白羽山」は間違いなく天志良波神社が関係しています。同社は『三代実録』の貞観8年(866年)に祭神の「天之白羽神」が、『延喜式』には社号がみえる由緒ある神社です。

興味深いことに同社と「清水寺」には坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろという共通点があります。田村麻呂には天志良波神社を創建したとする伝承と、清水寺(京都)の僧侶の法力によって大願成就したという説話があるのです。

それに清水寺(京都)も田村麻呂による創建といわれます。県北でよく聞く田村麻呂伝説ですが、神社と別当の両方に伝わるのは珍しいと思います。もうちょっと史料が残っていればよかったですね。

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大聖院(清水寺)による神社への奉仕が廃されたのは元禄期の水戸藩主徳川光圀公の命によります。天保期の廃寺は同時代の藩主斉昭公によるものかと思います。

アクセス

名称松倉山 大聖院 清水寺
住所茨城県常陸太田市白羽町1670
駐車場なし
Webサイトなし

参道

境内入口
境内入口

清水寺は、天志良波神社の鬼門の方位(東北)にあります。入り口も同じなので、写真のように神社入口を目指しましょう。近年になって案内の柱が建てられましたが、道路からはかなり見づらい…

左が清水寺へ続く道
左が清水寺へ続く道

先に進むと道路が二手に分かれています。右に行くと神社、左に行くと清水寺です。車ではお寺まで進めないので、右折して神社の駐車場に駐車させていただいてから徒歩です。

道中は舗装されているので全く問題なく進むことができます。途中に畑があるので車とすれ違うことがあるかもしれませんね。

参道に馬力神
参道に馬力神

橋を越えるといよいよ境内。写真の左のほうに小さく見えるのは馬力神です。この石碑は馬の供養塔なので馬頭観音に近い存在かと思います。

馬力神の石碑
馬力神の石碑

馬力神は明治以降に建てられたものが非常に多いそうです。個人的には水戸藩の領地で見ることが多かったので、廃物思想の強かった幕末の頃からかと思ったのですが、そうでもないようですね。

両方とも参道
両方とも参道

左の石段が観音堂(清水寺)に続く参道です。おそらく本来はこちらを進みます。右側にも通路があって同じく観音堂に続きます。石段を登るのが大変な方は緩やかなスロープになっている右側がお勧め。

観音堂

石段の先に観音堂
石段の先に観音堂

数分進めば正面に観音堂が見えます。観音堂は清水寺の建物の一部でしたが、やがて寺そのものとされるようになりました。廃寺となっても信仰は根絶せず、あまり公にせず続いていたのでしょう。

羽黒山の札
羽黒山の札

建物の鈴には羽黒山の文字。もしかして羽黒信仰としてこちらに伝わったのでしょうか。羽黒は県内のあちこちに見えるのですが、山伏・修験が絡んでいるせいか体系的にはまとまっておらずよく分かりません。

御朱印の案内
御朱印の案内

建物の張り紙には御朱印のお知らせが書いてあります。令和6年の1月から始まったとあるので、つい最近のことのようですね。

建物の中を覗いたところ、千手観音の厨子が見えました。秘仏と言うわけでは無いようですが、扉は閉じられ一般の方は拝観できません。

どのようなお姿なのでしょう。ちなみに京都の清水寺のご本尊は十一面観音です。ただし、その写真を見る限りは腕が42本、つまり千手観音と同じ。当寺もじつは十一面あって京都と同じような姿だったりして。

石碑

開基の石碑
開基の石碑

少し気になるのがこちらの石碑。観音堂の手前に建てられています。草木が生い茂る季節になるとちょっと見つけにくいかも。

途中までしか読めないのですが、冒頭は「当山開基」だと思います。その後は「延暦」でしょうか。延暦は天台宗の総本山延暦寺が創建され、田村麻呂が征夷大将軍として派遣された元号です。

種字「アーンク」
種字「アーンク」

その上にある種字は大日如来(胎蔵界)をあらわす「アーンク」かと思います。大日如来は真言宗で御本尊とされます。延暦年間は盛んな信仰とはいえないので、当寺とどういう関係なのか気になりますね。

ところで中世に記された『元亨釈書』には、田村麻呂と清水寺(京都)の僧侶について次のように記されています

『元亨釈書』巻第九の清水寺の僧延鎮伝に、つぎのような話がみえる。延鎮が清水寺で、田村麻呂将軍に会った。将軍は勅を奉じて、奥州の逆賊高丸を征伐に行くことになっていた。そこで、延鎮に「私は天皇の詔をうけたまわり、夷賊を征伐に行くが、もし、法力をかりなければ、どうしてありがたく命を受けることができようか。どうか、そのための意を加えてほしい」といった。延鎮は承諾した。将軍は奥州で賊と鋒を交えたが、官軍は矢がつきてしまった。そのとき、小比丘と小男子が矢を拾って将軍にあたえたので、将軍は不思議に思った。やがて高丸をたおし、その首を都に献じた。将軍は延鎮に会い、どんな修法をしたのか、とたずねた。延鎮は「勝軍地蔵と勝敵吐舎門の二像を造って、祈っただけだ」と答えた。将軍は二人が矢を拾ったことを話し、仏殿に入って像を見ると、矢きずや刀きずが像についており、脚にも泥土がついていたので、将軍は大いに驚いた、というのである。

常陸五山の山岳信仰 P10|志田諄一

これが事実であるかはともかくとして、田村麻呂は僧侶の法力によって蝦夷討伐に成功したことになっています。

そしてその清水寺が平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて天台宗に属していた(興福寺末)ことを考慮すると、常陸国の天台寺院とその社僧が奉仕する神社で田村麻呂伝説が語られることはじつに興味深いです。

つまり、田村麻呂の功績は天台宗の法力によるもの、田村麻呂を顕彰すれば天台宗の株も上がるというもの。

また、県北のお寺は前身が法相宗だったことが多いようで、筑波山や磐梯山で布教したことで知られる徳一とくいつ(法相僧)の名をよく聞きます。常陸三十三観音霊場でも徳一作という仏像はひとつふたつではありません。

徳一による開基が確実視される慧日寺が開創を大同二年としたり田村麻呂との関係をうたうことと、元法相宗であった茨城県北の天台寺院が同様の由緒を語るのは無関係ではないと思いますがいかがでしょう。

石仏

石仏群
石仏群

観音堂の背後には、このように石仏が並べられていました。左から如意輪観音、地蔵菩薩が2体、1番右が子安観音でしょうか。両観音は特に女性に進行されていたのではないかと思います。

それらの手前には御幣が複数安置されています。お供え物の意味かと思いますが、色の具合からすると比較的近くに捧げられたのではないかと思います。

御朱印

清水寺の御朱印
清水寺の御朱印

清水寺の御朱印です。御朱印は観音堂の近くにはありません。天志良波神社の社務所でいただけます。原則的に書き置きとなり、社務所不在でもいただけるようになっています。

見たところ書体が神社のものとは違いますね。おそらくお寺の檀家の方などが書いているのだと思います。

フォトギャラリー

まとめ

・清水寺の由緒は不詳。千手観音を本尊とする常陸三十三観音霊場に数えられる

・元禄期まで天志良波神社の別当を務め、天保期に廃寺となる

・廃寺となったが、観音堂と観音信仰は残った

・令和6年から御朱印の頒布を開始した