伝説の親鸞居住地 小島草庵|下妻市

記事内に広告を含みます

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

茨城県といえば浄土真宗の開祖にあたる親鸞しんらん布教の地!まずは拠点となった稲田(現在の笠間市稲田)があがります。しかし、いきなり稲田に行くことは不可能。当然、道中に何箇所か立ち寄ったと考えるのが妥当です。

そのひとつが今回ご紹介する下妻市の小島です。小島おじま草庵」と呼ばれる場所に妻の恵信尼とともに三年間ほど滞在したといわれるのです。

あまり記録が残っていないので不確かではあるのですが、県民であれば知っておいて損はありません。本当なのかな?と伝承を疑いながらも真相を探ってみるのも面白いと思いますよ!

下妻市があるのは旧常陸国ではなく下総国にあたります。

草庵について下妻市教育委員会が非常に分かりやすい説明をしておりますので引用させていただきます。

市指定史跡 小島草庵跡

指定年月日 昭和52年3月22日

 親鸞しんらんは、その生い立ちから、配流はいる妻帯さいたい、当国移住の動機、小島居住説をはじめ、その生涯について、いろいろな論がなされており、親鸞伝の決定版はまだ見られないが、当地には次のような伝承が残されている

 越後流罪るざい滞留たいりゅう7年の後、親鸞は建保2年(1214)妻子を伴って上野国こうずけのくに佐貫を経て、常陸国ひたちのくにに入り、最初に居住したのが、ここ小島草庵である。小島郡司の武弘が親鸞の徳を慕い、この地に草庵を設けて迎えた。ここに3年間滞留し、越後で果たせなかった真宗念仏の伝道に積極的に乗り出した。いわばこの草庵(三月寺)こそ真宗開祖の親鸞が関東において真価を発揮した最初の土地である。

 親鸞の高弟蓮位坊は当地出身といわれ、子孫は下間しもつま氏と称して、鎌倉時代から現代に至るまで、東・西本願寺の坊官ぼうかんを勤めている。

 草庵跡には「親鸞聖人御旧蹟」、「三歳御住居」とした古碑、欽明きんめい天皇、用明ようめい天皇、聖徳太子の墓に、後に親鸞の墓を加えて「四体仏したいぼとけ」と呼ぶ五輪塔と、親鸞を慕ったという「稲田恋しの銀杏いちょう」の大樹がある。

令和3年8月2日 下妻市教育委員会

 私は最近まで知らなかったのですが、浄土真宗開祖とされる親鸞は明治になってしばらくの間は実在が疑われていたそうです。存在を示す文献が朝廷の記録には見られず、本願寺に集中していたためだったとか。 

現在は実在することはもちろん常陸国(現在の茨城県)で居住・布教したことが証明されています。小島草庵については「伝承」ということですが、いきなり稲田には行けないので道中どこかに滞在したのは間違いありません。

そういう意味では当地にいた可能性はけっこう高いのではないでしょうか。ただ、稲田のように布教について伝わっていないことから、確度としてはやや弱めなのかも。

wata

浄土真宗寺院の伝承とうことなら小島草庵は何度も登場します!

アクセス

名称小島草庵跡
住所茨城県下妻市小島498
駐車場あり
Webサイト下妻市観光協会

駐車場

駐車場の看板
駐車場の看板

草庵の裏側(東側)に草庵よりも広い敷地の駐車場があります。道中の道路も広いしまったく問題なくたどり着けるでしょう。ナビを使うならお隣の「野村住設工業」で検索すると行きやすいかと思います。

跡地

草庵は800年近く前のことですから、当時の建物等は一切残っていません。後年建立された石柱と五輪塔、それに銀杏の大木がそびえているのみです。

銀杏は「稲田恋しの銀杏」と呼ばれ、稲田に渡った親鸞を想い、枝が北向きに伸びるのだとか。色づいたときの様子は『茨城県大銀杏番付』からどうぞ。

文化財を示す柱
文化財を示す柱

市指定文化財(史跡)を示す柱には「親鸞聖人関東最初の居住地」。そう言えるのは、永禄10年(1567年)の『反故裏書』(著:顕誓)に常陸国へ来た親鸞はまず下妻の小島に三年住んだとあるためでしょう。

なお、『恵信尼文書』の第三通には「ひたちのしもつまと申し候ところに、さかいのがうと申ところに候しとき」とあって、下妻の幸井の郷(現在の下妻市坂井)に居住していたことになっています。

さらに同文書で恵信尼が語る霊夢の鳥居(のようなもの)は坂井の千勝神社のものではないか、とする説があります。下妻滞在は確定的と想いますが、いかがなものでしょう。

石柱にあるのは「親鸞聖人御舊蹟」。宝暦五年(1755年)の旧2月28日に建立されたとあります。その向かって右側には「彰如上人御参拝紀念碑」とありました。真宗大谷派の管長でしょうか。

遺徳碑
遺徳碑

さらにその右手に置かれているのが、親鸞聖人の遺徳碑です。建立委員会には名誉会長として茨城県知事岩上二郎、委員長で下妻市長加藤俊介、そして同じく副委員長に新いばらきタイム社長鈴木正樹です。

錚々たる面々の芳名が並んでいるのを見ると、当地の「伝承」の信憑性の高さがうかがえます。ただ、本格的な布教をはじめたのは、やはり稲田に落ち着いてからではないかと個人的には思います。

四体仏

四体仏
四体仏

こちらが立て札で紹介されていた四体仏です。欽明天皇、用明天皇、聖徳太子、そして親鸞です。「墓」とされていますが、実際に遺骨がおさまっているわけではありませんから、「供養塔」にあたるかと思います。

供養されているのは仏教の守護者として知られる面々ですね。『日本書紀』には欽明天皇の代に仏教が伝来したとあります。仏教を受け入れた天皇はこれ以上ないほど尊重されるのでしょう。

聖徳太子は言わずと知れた十七条憲法によって仏教を尊むことを説きました。用明天皇は蘇我氏と物部氏の崇仏論争の際に蘇我氏と同じ崇仏派でした。皇子の聖徳太子の存在もあって特筆されてしかるべきですね。

少し話がそれますが、小島草庵は「三月寺」とも呼ばれます。それは次のような伝承に由来します。

 四体仏には、親鸞にまつわる伝承がある。むかし、ここに欽明天皇、用明天皇、聖徳太子の墓があり、そこへ寺を建てて三皇院と呼んでいた。後に、親鸞の墓を加えて四体仏と呼ぶようになったのである。
 この三皇院で、建保元年(一二一三)の春三月の間、親鸞が法談を続けたので、寺号を三月寺と改めた。

下妻市史 P96

旧暦の春は一月から三月までなので、「春三月」が三ヶ月なのか三月のみを指すのかわかりません。東福寺(神奈川県横浜市)は親鸞が三ヶ月滞在したとして「三月院」と称しているので当地も三ヶ月が有力でしょうか。

まとめ

・小島の草庵は、親鸞聖人の関東最初の居住地

・恵信尼の書状から下妻にいたことは事実

・小島の草庵跡は顕彰碑が建てられ、市指定文化財(史跡)に選定されている

稲田の草庵を知っていても小島の知名度は低めだと思います。しかし、下妻に居住していたことは事実の可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。

また、小島にいたことを前提とした民話も残っておりますので、それらとあわせて覚えておきたいことですね。

参考文献

浄土真宗とは何か|小山 聡子
親鸞聖人史跡伝説伝承|東京教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌推進委員会、親鸞聖人伝説伝承部会、東京教区親鸞聖人伝説伝承調査委員会
下妻市史|下妻市史編さん委員会