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常陸国の二の宮にして名神大社。明治期には県社に列した静神社は多くの方がご存知かと思います。しかしながら知られている内容は画一的になっていないでしょうか。
この記事では主に静周辺の蛇信仰や氏族などあまり知られていない事柄を紹介します。なるべく根拠となる文献を示すようにしますが、わたしの主観が多々含まれていることはご了承ください。
あやしいけれど面白い。そんなネタを揃えてみました。神社に関する基本的な情報は公式サイトか当ブログの以下の記事をご参照ください。
目次
蛇の話
実際に参拝した方なら知っているはず。ところがネット上ではなかなか話題にならないのが静神社の「蛇」について。この蛇は単なる伝説を超えて周辺地域に至るまで大きな影響を与えていたかもしれません。
知らないままではもったいのでじっくり深堀していくとしましょう。
白蛇について
神門の壁は社殿の周辺を囲むように続いています。ちょっとした保管庫になっていて過去に奉納された品々が展示されているのですが、その中の絵のほとんどは蛇に関するものです。
ざっと見ただけでも10点以上はありました。その姿かたちはさまざまで、色は緑か白、とぐろを巻いているものもあれば進んでいるものもあります。また、卵を咥えている蛇を何体か目にしました。
多くは昭和期に奉納されていますので歴史を物語るものとは言いにくいのですが、現代で忌むべき存在とされる蛇がこれだけ並んでいるのは極めて興味深いことですよね。
こうしたことは神社の歴史と無関係なせいか紹介される機会は少ないようです。しかし、地元の者にとっては明白な事実であってこの蛇について語らずして静神社が伝わるのかさえ思います。
蛇について語られる文献はほとんどありませんが、当地の民話で次のように触れられています。
二 静神社のお使い神
常陸国風土記久慈郡の章に、「郡の西に静織の里がある。大昔絞を織る人がひとりもいなかったとき、この村が初めて絞を織り出した。それ以来この里を静織の里というようになった」とあるように、この土地の先祖たちは綾織りという特殊な技術を持っていました。古代の織物は、麻、カジ、コウゾ、タクといった木から取った繊維の糸がそのまま織物の原料となったところから、織物は帛でありそれは無地でした。この時代にあって、唯一最高の衣服生地生産にあたる司びとは特別扱いされていたに違いなく、またその製作にあたっては、村人が一生懸命の奉仕をしたようです。
白い糸から白い織物になっていく仕事振りを、遠くから見れば、それは静森の緑の丘を這っている白蛇のように見えたのかもしれません。ここから、静神社のお使いは白蛇だと言われるようになったのです。
瓜連町の昔ばなし/楠見松男
ここでは白蛇が神の使いとされています。お稲荷様として知られるウカノミタマとキツネのような関係ですね。
たしかに奉納された絵にも白蛇の姿があります。中には「オス」と明記されたものもありました。
もうひとつ『茨城・蛇の民俗と民話』からご紹介します。
ある農家の主婦が嫁いできて間もないころ見た夢で、郷里のお静様の近くを流れる川のほとりの松の木に寄りかかっていたところ、その川に金色に光る蛇が流れてきたので、初めは美しいので見とれていましたが、恐ろしい顔をしてこっちに来るのに驚き、目がさめました。あとでこのことを家人に話したら、「その蛇はお静様の蛇に違いない。とてもよい夢を見た」といわれましたが、事実このことがあってからは、ほんとうによいことがつづいたということです。因にお静様というのは、蛇除けのお守りを授けることでも知られている、瓜連町の静神社のことです。
茨城・蛇の民俗と民話|更科公護
「金色に光る」は興味深い記述です。日立市の大甕神社の民話では静神社の神が大岩に化けた香香背男を倒す場面で金色に光る靴で蹴ったとあることと無関係ではないでしょう。
白と金は五行説によって結びつくのですが、それはまた別の回に説明します。ここで重要なのは静神社の神が蛇体とされていること。そして上記の民話にある「蛇除守」は『茨城県神社誌』に次のような祭祀として書かれています。
旧五月五日(茅巻(ちまき)を献饌、殿上で古式による田植神事を行う)蛇除守はよく知られてゐる。
茨城県神社誌|茨城県神社庁
現在6月5日に催行される御田植え祭はかつてはこの蛇除守だったのでしょう。子どもの成長を祈願する端午の節句と同日であり、しかもちまきの献饌がありますから同様の願いが農業に向けられていると考えられます。どうやら蛇除守には神事とお守りの二種類があるようですね。
PHGCOM – Own work by uploader, photographed at Musee Guimet, CC 表示-継承 3.0
蛇は農作物を荒らさず、むしろ害獣であるネズミを捕食して人々を助けます。それゆえに宇賀神のような農耕神として讃えられておりますので「蛇除守」は蛇を田畑に近づけさせないといった意図にはとれません。個人的には田畑の守護神である蛇を農作業の過程で誤って殺めたりしないための蛇除けでないかと思います。
それでは先程の絵も含めて蛇が農耕神の位置づけかといえば。。それは周辺の蛇信仰を知ってから判断してはいかがでしょう。
周辺に見える「蛇」
静神社の蛇に関連してわたしが注意しているのは周辺地域にも見える「蛇」です。
特に気になっているのは2つの神社。ひとつ目は藤内神社(水戸市)。同社は静神社から見て西南に位置する式内社(論社)。静の西側を流れる那珂川の下流に鎮座しています。
藤内神社の蛇は由緒あるといえます。ご祭神としては経津主命ですが、『常陸国風土記』の「晡時臥山」にまつわる伝承にちなんだ蛇神とされています。詳しくは過去記事(参考:藤井町の藤内神社)をご覧ください。
晡時臥山の伝承には上毛野氏の先祖と思われる名があることから栃木(毛野国)方面から那珂川を経由して氏族やその伝承が伝播したと考えられます。藤内より上流に鎮座する静に伝わった可能性はあるでしょう。
なお、この場合の伝承とは大和国の三輪山信仰です。『古事記』や『日本書紀』によれば三輪山の神は蛇(にも化ける)。三輪山の神=蛇=大物主命は『日本書紀』等の文献に明示されているので周知のことかと思います。
その信仰が遥か東国まで伝わったのは、崇神天皇の代に皇子の豊城入彦命が東国統治のため派遣されたことによるといわれています。崇神天皇といえば疫病を鎮めるため太田田根子に先祖の大物主を祀らせたことも有名ですね。
三輪山の神を祀るのは現在の大神神社です。三輪山を御神体とする古社で大物主を主祭神に大己貴命と少彦名命を配祀しています。茨城県では県央から県北地域にかけてよく耳にするご祭神です。
そしてもうひとつは茨城と栃木の県境に鎮座する鷲子山上神社(常陸大宮市)。静神社から見て西北にあたり、静より那珂川上流に位置することになります。
まず興味深いのは鷲子山上神社のある地区が旧「美和村」であること。今も「道の駅みわ」など少しだけ名前が残っています。三輪山信仰を辿ろうとする者にとっては心強い限り。
そこで気になるのが鷲子山上神社の祭祀。現在11月の第3土曜日に催される夜祭はかつて旧暦10月16日の深夜でした。それには「三本杉祭典」や「本殿を3周駆ける」「鶏卵を食べる」など独特な神事が見られます。
同祭祀の詳しい内容については『常陸大宮市のたからもの』の「鷲子山上神社夜祭」をご覧ください。歴史民俗資料館が作成および管理しておりますので大変参考になります。
私見ですが、三本杉は大神神社の神紋であり、3周駆けるは三輪山の故事に基づいた「三輪」の意味。鶏卵は静神社でも見られる蛇のシンボル。「3周」は静神社の神事にもあるので二社は親しい存在だと思います。
鶏卵について青山延寿の『常北遊記』(1855年)には次のような記述があります。
矢又を経て、鷲子山へ行く。この道筋人の住まないあばら屋は全部で四軒だった。山いっぱいに杉がまっすぐ盛んに育っていて、東金砂山によく似ているが、あれほど高くはない。山上に社がある。屋根や肘木がきらびやかで、金砂の社より立派だ。社の下に宿屋が数軒ある。参詣者が多いのであろう。ここの神は鶏卵を好むと伝えられていて、参拝者はみんな鶏卵を奉納する。軒下にカゴがあって、それで受けている。
常北遊木|青山延寿 訳:大森林造|筑波書林
これによると鶏卵は祭神の好むところ。食すことで神徳を授かれるとする謂れもこのあたりにあるのでしょう。
那珂川沿いに見える蛇は三輪山信仰に通じており、静も例外ではないようです。ただし、蛇そのものを祭神としているのは藤内のみで静と鷲子山上は少し違っているようです。次はこの二社に共通する氏族についてご紹介します。
倭文氏と阿波国の忌部氏
静神社の現在のご祭神は建葉槌命。同神を祖神とする倭文氏は斎部氏に従う神祇氏族です。主な職分は日本古来の美しい模様の布を織ることで神話の時代から連綿と続いてきたとされています。
一方、鷲子山上神社のご祭神は天日鷲命です。『古語拾遺』によれば、同神は太玉命の直属の配下であり、阿波国の忌部氏の祖神とされています。天の岩戸神話ではカジを育てて祭祀に用いる白和幣を調達しました。
糸の調達は天日鷲命、文様のある機織りは天羽槌雄神(建葉槌命)の担当です。二神は天の岩戸神話で太玉命(斎部氏の祖神)の下で活躍しました。近隣に祀られているのは興味深いことですよね。
これまで倭文氏の機織りばかりが伝えられ、材料の調達までもが同氏によるところとされてきたのではないでしょうか。しかし、『古語拾遺』で古来の伝承に基づいた職分を訴えていたことを踏まえれば、倭文氏と忌部氏による分業はありえます。もし近隣に居住していたならその関係性から信仰や祭祀が似るのではないでしょうか。
ちなみに前回の記事で静神社と倭文氏を結ぶ文献は存在しないが、倭文氏はいたはずとしたのは上記の理由です。古代の神祇氏族は分業していたので倭文と称する織物の生産には倭文氏が関わっていたと考えられるのです。
さて、ここで少し疑問なのは「阿波国の忌部氏」について。阿波国は現在の徳島県ですから常陸国とはあまりにも遠い。それについて『古語拾遺』は太玉命の活躍を伝える文脈で次のように説明しています。
天日鷲命の子孫は木綿と布(古い言葉にアラタエといいます)を作りました。また、天富命に命じて、日鷲命の子孫に肥沃な土地を探させ、阿波国に派遣してカジノキ・麻を植えさせました。その子孫は今もその国に住み、大嘗祭の時、木綿・麻布の他さまざまの物を献上します。そのことから、居住している郡は「麻植」と呼ばれています。天富命はさらに肥沃な土地を求め、東国の関東の地に阿波国の斎部の一部を移住させ、麻・カジノキを植えました。それらがよく育ち、ふさふさと生え茂りました(古い言葉で麻を総といい、国の名を総国と名付けました。今は上総・下総の二国に分かれています)。カジノキの名前から結城という郡の名前を付けました。阿波の忌部が居住したところを、安房郡と名付けました(今は安房国になっています)。
神話のおへそ『古語拾遺』編/監:神社本庁
阿波国の忌部氏は関東に渡ったのですね。それで国の名になるほど麻(総)を育てたとしています。
引用文中の「結城」は現在の茨城県結城市のあたりです。古くは木綿を「ゆう」と読み、城は区画を意味しました。結城は木綿を植えた地であり、それが阿波国の忌部氏によるものとしています。
ただ、それでも常陸国北部の話ではありませんから、果たして静周辺に関係するのかという疑問が残ります。それを完全には解消できませんが、『常陽藝文』の次の記事は注目したいところです。
となると、次に生じる疑問は、倭文部の人々がどこからやって来たのか、あるいはもともと静地方に住んでいた人々であったのかということである。この点については、静神社宮司の斎藤隆さんの話が興味深い。
斎藤家は、時代の流れの中で多々変転はあったというが、長く静神社に関わってきた家で、古代にあって朝廷の祭祀に奉仕した斎部氏から出ている。斎部氏が勢力争いに敗れて朝廷における地位を失った後、阿波(今の徳島県)を本拠とした斎部系の人々が全国に散り、一部は安房(千葉県南部)に住み着き、一部は常陸の静地方に移り住んで織物を伝え、静神社を興した、という。
常陽藝文(1996/5月号)
文中の「斎部系」は阿波国の忌部氏を指すかと思います。『古語拾遺』の著者も「いんべ」ですが、一族の働きが認められた中央の忌部氏に限って「斎部」と改称が認められました。「忌」が好ましくなかったようです。
引用文が事実だとすれば「倭文」の地名の前に「静織」があったとする従来の説明の裏付けになるかと思います。もちろん倭文氏がいなかったことにはなりませんけどね。
名の起こりはともかくとして静神社と鷲子山上神社の鎮座地には斎部氏ゆかりの神祇氏族が居住していたとされるので、それぞれが奉仕する神社は類似するのではないかと思います。
なお、静に阿波国の忌部氏がいたとして祖神(天日鷲命)を祀らなかったのかという疑問もあるかと思います。静神社の境内社と御祭神の一覧をご覧ください。
- 押手神社(天日鷲命)
- 山親子神社(不明)
- 玉取神社(大山祗命・櫛明玉命)
- 富士神社(木花開耶姫命)
- 大杉神社(少彦名命)
- 鍬神社(大日霊貴命)
- 雷神社(別雷神命)
- 愛宕神社(軻遇突智命)
- 御祖社(大国主命)
天日鷲命は押手神社のご祭神とされています。どの社殿がそうなのかまでは分からないんですけどね。それと三輪山の神に数えられる大国主と少彦名が独特の社号で祭られていることにも注目です。
このようなことから、古代の常陸国では神祇氏族、特に阿波国の忌部氏が中心となって三輪山信仰を広めたと思うのですがいかがでしょう。少なくとも他の地域では見られませんから単なる偶然ではないはずです。
次回は「阿波」をテーマに古代の静神社を探ってみます。静神社自体には当時を伝える文献がありませんので相変わらず憶測満載のお届けとなります。ぜひご期待ください
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まとめ
この記事のまとめ
- 静神社には「白蛇」の伝説がある
- 静神社周辺にも「蛇」にまつわる伝説がある
- 古代、静周辺には阿波国の忌部氏がいたと考えられる
続きが気になった方はぜひ以下の記事をご覧ください。
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。