【その1】じっくり知ろう静神社|那珂市

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

茨城県の由緒ある神社といえばとにもかくにも鹿島神宮。『延喜式』(905年成立)においては名神大社、そして常陸国の一の宮として古代から格式が高い神社です。

では、それに次ぐ神社といえば。。那珂市に鎮座するしず神社です。鹿島神宮と比較して規模と知名度では劣るものの独特の信仰を今に伝える貴重な神社といえるでしょう。

文章が長くなりますので記事はいくつかに分けました。ここでは歴史や境内など基本的な内容としますのでだれでもお楽しみいただけるかと思います。なるべく簡潔にまとめましたのでぜひご覧ください!

「基本的なことは知ってるぜ!」という方は以下の記事もお読みいただけたらと思います。

【その2】蛇と静神社|那珂市 【その3】静神社とアワの謎|那珂市

静神社とは

静神社

静神社

由緒

不詳
創建
※『北郡里程間数之記』によれば大同元年(806年)
仁和元年/885年
神階を賜る
5月22日、従五位下から従五位上に昇格 ※『三代実録』
永正15年/1518年
社殿修営
藤原盛頼により社殿修営 ※『北郡里程間数之記』
慶長7年/1602年
社領を賜る
将軍秀忠より社領150石を賜る
寛文7年/1667年
銅印の発見
檜の大木の根本から「静神宮印」とある銅印を発見 ※『北郡里程間数之記』
寛文8年/1668年
神仏分離および社殿造営
水戸藩主徳川光圀の命により神宮寺、静安寺、弘願寺の社僧を廃止。唯一宗源の神道に改める。
また、あわせて社殿の造営もり行われた。11月に近隣16ヶ村の神官が参列した遷宮式を催行。
この年より毎年4月7日に磯降祭が行われる
延宝2年/1674年
藩主参詣
水戸藩主徳川光圀、参詣 ※『静御社参式御用』
元文年間/1736-1741年
磯降祭の日程変更
磯降祭が3年に1度、4月1日に改められる
天保4年/1833年
藩主参詣
水戸藩主徳川斉昭、参詣 ※『常陸日記』
天保12年/1841年
火災に遭う
1月7日、火災により社記の一切を焼失する
天保15年/1844年
社殿再建の普請開始
弘化2年/1845年
社殿再建
3月に拝殿と本殿を再建
明治6年/1873年
県社列格
明治40年/1907年
供進指定
大正11年/1922年
大鳥居(旧一の鳥居)建立
昭和23年/1948年
社号標建立
昭和27年/1952年
宗教法人設立
昭和29年/1954年
文化財指定
銅印(附印笥)が国指定文化財とされる
昭和37年/1962年
文化財指定
紙本著色三十六歌仙が県指定文化財とされる
昭和50年/1975年
大鳥居建立(一の鳥居)
昭和60年/1985年
御神木の移設
御神木の千年杉を現在地に遷して建屋により保護する
平成15年/2003年
文化財指定
陣太鼓が市の文化財に指定される

主祭神は建葉槌たけはつち。それに手力雄たぢからお高皇産霊たかみむすひ思兼おもいかねを配祀しています。

建葉槌命は『日本書紀』において香香背男かがせおを討った神です。武甕槌命と経津主命を退けた香香背男だったので建葉槌命は強力な武神ともいわれますが、一般的には機織りの神や倭文氏の祖神という認識でしょう。倭文氏は麻などで日本古来の織物を作った氏族で建葉槌命との関係は斎部広成の『古語拾遺』(807年成立)に記されています。

同書によれば、いわゆる天の岩戸神話において祭具の調達を担ったのは斎部いんべ氏の祖神である太玉ふとたま命です。建葉槌命(同書では天羽槌雄神)は太玉命に従う神のひとりであり、こうした伝承を現実の氏族関係や祭祀に結びつけたいとするのが斎部広成の願いでした。当時の中臣氏を中心とした祭祀に対する異議が多々述べられています。

当社ご祭神の建葉槌命について、静神社の公式サイトでは次のように説明しています。

和銅六年(七一三)に撰進された『常陸風土記』久慈郡の項に「郡西口里氏静織里、上古之時、未識織綾之機、因名之」とあり、この地が静織里と呼ばれ、機織の技術を持っていたことが分かる。この技術をいち早く伝えたのが静神社の祭神建葉槌命であった。建葉槌命は文布(倭文)という綾を織って天照大神に仕えたので倭文の神といわれている。
由緒・沿革/静神社(公式)

静神社の鎮座地は古くは静織里しづおりのさとと呼ばれる織物の産地でした。それが後に『和名類聚抄』などで「倭文郷」と表記されたことなどから『日本書紀』や『古語拾遺』で倭文神とされる建葉槌命を祀っていたとしているようです。

ただし、江戸時代は天手力雄命を主祭神とし、建葉槌命は摂社に祀られていました。長い年月の中で神社の信仰には大きな揺らぎあったといえるでしょう。

社号および地名の「しず」は「静織しづおり」の音が「倭文しどり」に転化し、さらに短縮されてのことといわれます。ここで重要なのは静織→倭文の順序が事実なら建葉槌命を祖神とする倭文氏(あるいは倭文部)がいたとは限らないことです。「倭文」は織物自体を指す場合があるためです。優れた機織り技術を持つ集団がいたことはたしかですけどね。

当社は天保期の火災により社記のすべてを焼失しました。そのため不明点が多いものの由緒ある神社だけに『日本三代実録』や『延喜式』などの史料で存在を認められています。古い神社は論社を持つことが少なくありませんが、史料上の静神社は当社に比定されるため千年を超える歴史があるのは間違いありません。

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律令以降は常陸国の二の宮とされました。式内社よりそちらの方が聞き馴染みがあるかもしれませんね。古代から鹿島神宮に次ぐ社格の神社として多くの崇敬を集めてきました
注意
『北郡里程間数之記』は事実関係に疑義がありますので慎重な扱いが必要です。神社側は一部の内容を事実として認めていないように見えます。参考のためあえて掲載しました。
MEMO
建葉槌命は『古事記』には記述されていません。

アクセス

最寄りのICは常磐道の那珂IC。下りてから約15分です。国道118号を北進し、県道61号との交差点を左折すれば右手に見えてきます。

駐車場は二箇所。ひとつは鳥居前の道路を挟んだ向かい側。広くて停めやすいのですが、そこそこの石段を登っての参拝となります。もうひとつは石段の先。大鳥居を右手に見ながら進むと右手に登り口が見えてくると思います。

名称 静神社
住所 茨城県那珂市静2
駐車場 あり
Webサイト 公式サイト

鳥居

大鳥居

大鳥居

はじめて参拝したときは社殿近くの駐車場に停めました。しかし、せっかく参拝するならぜひこの大鳥居をくぐっていただきたいもの。昭和50年に建てられたそう。

そのサイズに目が行きますが、わたしはそれよりも色が印象的です。まさに驚きの白さ。後からご紹介しますが、当社と「白」はとても不思議な関係です。

現代で「白」といえば清純とか美しさを表す色ではないでしょうか。しかし、それは明治以降の西洋の価値観によるところ。日本では遺体や行者の衣装に用いられるなど特別な扱いがされました。

単なる素材の色と捉えることも可能かと思います。ただ、決して一般的ではありませんから当社のような由緒ある神社の場合、その意図が少々気になるところではあります。

写真の右側にある社号標は那珂湊の漁船の方々が奉納しました。当社から遠く離れた港町では漁業の神とされています。さすがにその信仰は古代まで遡れませんので磯降祭のはじまった江戸期以降のことでしょう。

MEMO
秋の例祭の日に参拝しました。ふだんと若干境内の装飾が異なります。

参道

石段と二の鳥居

石段と二の鳥居

一の鳥居を50mほど進むと石段が控えています。社殿が鎮座するこの小山は帝青山ていせいざん。少し前まではこの地の小字でした。弘願寺(市内の下大賀)は水戸藩の寺社改革まで当地にあったので同じ山号を称しています。

参拝しているときは気づかなかったのですが、帝青山を国道118号側から見ると神名備、つまり「山」の字のような円錐形のシルエットをしているそう。これは後に触れる三輪山信仰と関係しているかもしれません。

なお、古くは「青木山」という素朴な名称だったようです。明治期に出版された『新編常陸国誌』にもあることで当地に伝わる民話「四匹の狐」でも同名で語られています。(参考:那珂市観光協会

手水舎

手水舎

参道の左手に見える手水舎は薄く彫られた鉢にひたひたと水が溜められていました。大きさや高さなどシンプルながら存在感のある造りですね。

玄武の彫刻

玄武の彫刻

手水舎の屋根には亀印。しかもよく見ると親子になっています。北方の守護神たる玄武は水の象徴。ありがたい彫刻なのでぜひご覧ください。

参道

参道

えっちらおっちら登ってようやく山頂へ。この日は秋の大祭だったので参道の両脇には行灯型の御神燈が並べられているわけですが、これは単なる装飾なのでしょうか。

わたしは祭神や祭りと密接な関係があるように思います。この灯りがなければ成立しないような何かがあるからこそ、人びとは私財を投じられたと見ています。

織姫像

織姫像

織姫像

神門をご紹介する前に手前の織姫おりひめについて。こちらは東京織物卸商業組合が昭和57年に創立八十周年記念として奉納されました。

当社の祭神が織物の神様ということでこのような姿となっているわけですが、『古語拾遺』にある天羽槌雄神の神号から考えれば建葉槌命=男性神。しかし、この像のように女神とする考えは少なくありません

たしかに機織りといえば古くは女性の仕事。高天原でも天照大神が機織りをしたと伝えられます。そのせいか建葉槌命が香香背男を討てたのは男性にはない力を持った女神だったからという説もあるようです。

わたしには性別の判断はつきませんが、ひとつ言えるのは当地の信仰は神話だけでは説明できないということです。現実と神話は関係していても一致しないと捉えるのが妥当でしょう。

古くから語り継がれた神話などの伝承に人びとの想像力が加えられて現実を動かしているのではないでしょうか。だからこそ常に変化し捉えにくいのですけどね。

神門と佐竹七福神の恵比寿天

神門と御神燈

神門と御神燈

御神燈で少々見にくくなっていますね。ご容赦を。静神社の神門は屋根の正面部が弓なり。いわゆる唐門の形です。

静太神宮

「静太神宮」の扁額

扁額には「静太神宮」。単に「神宮」といえば伊勢神宮のこと。というか正式名称です。もっとも格式ある社号のため元来は極めて限定的に使われました。茨城の鹿島神宮はその古社のひとつですね。

静神社で発掘された銅印には「静神宮印」とありました。奈良時代の作とする鑑定がたしかならば当社もそれに並ぶ存在。ただし、この鑑定結果については個人的にいくつか疑義があって慎重に扱うべきと思います。

佐竹七福神の恵比寿像

佐竹七福神の恵比寿像

少し後戻りすることになりますが、神門を正面に見て右手に進むと佐竹七福神に数えられる恵比寿像があります。佐竹七福神は佐竹氏との縁が深い寺社に安置された像で一色史彦氏の尽力により平成4年に完成しました。

一色氏は文化財保護で大活躍した建築文化史家ですね。同氏はこの七福神に対する想いを『古社寺遍路 中』で次のように語っています。

私は十五年前の昭和五十七年に霞ケ浦と筑波山を巡る常陸七福神巡り、そして三年前の平成四年には茨城県北の山間部に佐竹七福神巡りを開設しました。いずれも目的は同じです。先人たちが力を合わせ汗を流して創り守ってきた貴重な文化財に直かに触れて戴いて、そこに先人のココロを感じ取って貰いたい、ただひたすらの願いからです。ナンデ観光業者になったのか、といわれる人がいても私には何の気にかける事もないのです。

七福神自体は日本で誕生しました。その中でも恵比寿は日本の神から転じたとされる特別な神です。元来の姿はコトシロヌシやヒルコといわれますが、定説はありません。

見て分かる通り釣り竿を掲げて鯛を釣ろうとしています。それ故に豊漁の神徳があるとされており、当社の祭神の神徳と重なる部分があるのではないでしょうか。

社殿

拝殿

拝殿

能舞台の橋掛かりのような通路のある拝殿。南向きといわれていますが、実際には真南ではなく東南です。

この日の午前中は七五三のお祝いもあって賑やかでした。木々に囲まれた境内も素敵ですが、こうして玉砂利が敷き詰められた整然とした景観もいいですよね。

社格の高い神社だけあって立派な入母屋造となっています。旧社殿は天保期の火災で焼失したため弘化2年(1845年)に再建されました。

それではここで先程ご紹介した一色氏の著作から社殿について引用いたします。

 現在の本殿・拝殿・中門は天保十二年(一八四一)の火災焼失後の翌年、水戸斉昭公によって造営寄進されたものです。水戸徳川家の歴代藩主の中でも、光圀・斉昭は特に義烈二公と称されています。尊敬する光圀公の後を引き受けて再造営に力を尽くした斉昭公は、さぞかし感激の極みだったことでしょう。全ての社殿が総檜造です。しかし、建築様式はいかにも天保の時代性を反映したものになっています。ご本殿は一見すると、伊勢神宮の内・外宮本殿と同じ神明造様式のようですが、妻飾りが扠首組ではなく、和小屋組になり、妻側には棟持柱もありません。
 けれども、幕末期の堂々たる神明造風のご本殿建築として、建築学上極めて貴重な例です。
 この時の造営関係資料が発見されれば、必ずや文化財としての価値が認められるでしょう。早くそうなって欲しいものです。皆さんともどもご祭神・建葉槌命にお願い申し上げましょう。

文化財はその来歴が特定されないと指定を受けにくいので、関係資料が発見されればとあるんですね。専門家らしいご意見です。

ちなみに一色氏を知る教育委員会の方によれば、同氏は建物をひと目見ておおよその建築年代を当ててしまうのだとか。後で棟札を見てその正確さに驚かされたそうです。

本殿

本殿

こちらが本殿。屋根には内削ぎの千木(通称:女千木)に鰹木が六。こうした造りも女神を祀るとされている理由になっています。いわゆる陰陽説では内側や偶数、女性を陰の象徴としますので、内削ぎで鰹木が偶数ならば女神では、というわけです。偶数が陰数とも呼ばれるのはそのせいですね。

クスノキ

クスノキ

ところで、その火災について興味深い伝説がありますのでご紹介しましょう。

三 賢いご領主さま

 むかし瓜連町の人びとは毎年一月の十四日に神主のさしずで作占いをしていました。宵のうちから山に登り、拝殿でおか炉を作り、里人の代表たちがこれをとりかこんで、お神楽男が夜通しかゆ米を煮るのです。ナベの中に「わせ」「中ぜ」「おく」と印したアシの茎を入れておき、翌朝一番多くはいっているアシの印の稲をその年の当り作としたといいます。ある年のこと、この作占いをしているうち、夜明け近くになってみんな寝てしまいました。そしておか炉の火が燃えあがり、拝殿を焼いてしまったのです。

知らせを聞いた藩公は里人の心配にもかかわらず、いともさわやかに寺社奉行に言いました。

 「なるほど、春まだ浅い一月十五日だというのに、珍しく落雷があって、由緒ある社殿が焼け落ちたというのか。天の意だから仕方がないが、一刻も早く再建せよ」
 それを聞いて人びとは、やさしさと頭のよさに、感謝したり感心したりしたといいます。それからというもの拝殿で火をたくことは堅く禁じられました。これは天保十二年(一八四一)常陸二の宮静神宮の失火事件のことだと言われています。
瓜連町の昔ばなし/楠見松男

藩主が斉昭公の時代、本来は神社側の責任とするところを天災による不幸として藩が再建としたという話ですね。わせ、中ぜ、おく、は早生、中生、晩生、のことで収穫時期の異なる作物を意味するのでしょう。

なるほど、と思える内容ですが、『那珂市域の社寺祠堂』では火災を1月7日の出来事としていて民話とは食い違いがあります。ちょっと気になるところですね。

わたしの注目は出火の原因となった占いについて。「アシの茎」を使った占いというのも興味深い。茎を使う占いといえば蓍萩めどきを用いる「えき」。易をもとにした独自の占いがあったのではと思います。

民話がどれだけ事実を説明しているかはわかりません。ただ、同日の占いについては昭和期に発行された『茨城県神社誌』に「古例によつて五穀の豊凶を占ふ」とあるので実際に行われていたのでしょう。

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本殿の手前にある二本の巨木はクスノキです。神社周辺は巨木にあふれスギを筆頭にヒノキやムクノキなども見られます

境内社

今回はおさらい編ということで詳しいご紹介をしませんが、当社には以下のような境内社があります。ご祭神につきましては『茨城県神社誌』を参照しました。

具体的な場所はわたしにも不明なので、ぜひ探してみてください。そして教えてください!

  1. 押手神社(天日鷲命)
  2. 山親子神社(不明)
  3. 玉取神社(大山祗命・櫛明玉命)
  4. 富士神社(木花開耶姫命)
  5. 大杉神社(少彦名命)
  6. 鍬神社(大日霊貴命)
  7. 雷神社(別雷神命)
  8. 愛宕神社(軻遇突智命)
  9. 御祖社(大国主命)

山の神とされる神号が並びますね。この他には本殿北側に手接足尾神社が鎮座しています。ご祭神は手摩乳てなづち脚摩乳あしなづちです。

山親子神社についてはご祭神がまったくわかりません。しかし、江戸時代の静神社の縁起(らしきもの)に社号が見えるので静の信仰に深く根ざした存在と思われます。

御朱印

静神社の御朱印

静神社の御朱印

静神社の御朱印です。拝殿向かって左の授与所で申し出てください。

わたしはまだいただいていないのですが、佐竹七福神の「恵比寿」を書き入れた御朱印もありますよ。

まとめ

この記事のまとめ

  • ご祭神は建葉槌命。しかし江戸時代は手力雄命が主祭神。
  • 社殿は天保期に造営。火災で焼失したため再建した
  • 御朱印は2種類。授与所でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
新編常陸国誌
常陽藝文1996年5月号
那珂市域の社寺祠堂/編:中市教育委員会

この記事で紹介した本はこちら

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