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茨城県の由緒ある神社といえばとにもかくにも鹿島神宮。『延喜式』(905年成立)においては名神大社、そして常陸国の一の宮として古代から格式が高い神社です。
では、それに次ぐ神社といえば。。那珂市に鎮座する静神社です。鹿島神宮と比較して規模と知名度では劣るものの独特の信仰を今に伝える貴重な神社といえるでしょう。
文章が長くなりますので記事はいくつかに分けました。ここでは歴史や境内など基本的な内容としますのでだれでもお楽しみいただけるかと思います。なるべく簡潔にまとめましたのでぜひご覧ください!
「基本的なことは知ってるぜ!」という方は以下の記事もお読みいただけたらと思います。
静神社とは
由緒
また、あわせて社殿の造営もり行われた。11月に近隣16ヶ村の神官が参列した遷宮式を催行。
この年より毎年4月7日に磯降祭が行われる
主祭神は建葉槌命。それに手力雄命、高皇産霊尊、思兼命を配祀しています。
建葉槌命は『日本書紀』において香香背男を討った神です。武甕槌命と経津主命を退けた香香背男だったので建葉槌命は強力な武神ともいわれますが、一般的には機織りの神や倭文氏の祖神という認識でしょう。倭文氏は麻などで日本古来の織物を作った氏族で建葉槌命との関係は斎部広成の『古語拾遺』(807年成立)に記されています。
同書によれば、いわゆる天の岩戸神話において祭具の調達を担ったのは斎部氏の祖神である太玉命です。建葉槌命(同書では天羽槌雄神)は太玉命に従う神のひとりであり、こうした伝承を現実の氏族関係や祭祀に結びつけたいとするのが斎部広成の願いでした。当時の中臣氏を中心とした祭祀に対する異議が多々述べられています。
当社ご祭神の建葉槌命について、静神社の公式サイトでは次のように説明しています。
和銅六年(七一三)に撰進された『常陸風土記』久慈郡の項に「郡西口里氏静織里、上古之時、未識織綾之機、因名之」とあり、この地が静織里と呼ばれ、機織の技術を持っていたことが分かる。この技術をいち早く伝えたのが静神社の祭神建葉槌命であった。建葉槌命は文布(倭文)という綾を織って天照大神に仕えたので倭文の神といわれている。
由緒・沿革/静神社(公式)
静神社の鎮座地は古くは静織里と呼ばれる織物の産地でした。それが後に『和名類聚抄』などで「倭文郷」と表記されたことなどから『日本書紀』や『古語拾遺』で倭文神とされる建葉槌命を祀っていたとしているようです。
ただし、江戸時代は天手力雄命を主祭神とし、建葉槌命は摂社に祀られていました。長い年月の中で神社の信仰には大きな揺らぎあったといえるでしょう。
社号および地名の「静」は「静織」の音が「倭文」に転化し、さらに短縮されてのことといわれます。ここで重要なのは静織→倭文の順序が事実なら建葉槌命を祖神とする倭文氏(あるいは倭文部)がいたとは限らないことです。「倭文」は織物自体を指す場合があるためです。優れた機織り技術を持つ集団がいたことはたしかですけどね。
当社は天保期の火災により社記のすべてを焼失しました。そのため不明点が多いものの由緒ある神社だけに『日本三代実録』や『延喜式』などの史料で存在を認められています。古い神社は論社を持つことが少なくありませんが、史料上の静神社は当社に比定されるため千年を超える歴史があるのは間違いありません。
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『北郡里程間数之記』は事実関係に疑義がありますので慎重な扱いが必要です。神社側は一部の内容を事実として認めていないように見えます。参考のためあえて掲載しました。
建葉槌命は『古事記』には記述されていません。
アクセス
最寄りのICは常磐道の那珂IC。下りてから約15分です。国道118号を北進し、県道61号との交差点を左折すれば右手に見えてきます。
駐車場は二箇所。ひとつは鳥居前の道路を挟んだ向かい側。広くて停めやすいのですが、そこそこの石段を登っての参拝となります。もうひとつは石段の先。大鳥居を右手に見ながら進むと右手に登り口が見えてくると思います。
名称 | 静神社 |
---|---|
住所 | 茨城県那珂市静2 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居
はじめて参拝したときは社殿近くの駐車場に停めました。しかし、せっかく参拝するならぜひこの大鳥居をくぐっていただきたいもの。昭和50年に建てられたそう。
そのサイズに目が行きますが、わたしはそれよりも色が印象的です。まさに驚きの白さ。後からご紹介しますが、当社と「白」はとても不思議な関係です。
現代で「白」といえば清純とか美しさを表す色ではないでしょうか。しかし、それは明治以降の西洋の価値観によるところ。日本では遺体や行者の衣装に用いられるなど特別な扱いがされました。
単なる素材の色と捉えることも可能かと思います。ただ、決して一般的ではありませんから当社のような由緒ある神社の場合、その意図が少々気になるところではあります。
写真の右側にある社号標は那珂湊の漁船の方々が奉納しました。当社から遠く離れた港町では漁業の神とされています。さすがにその信仰は古代まで遡れませんので磯降祭のはじまった江戸期以降のことでしょう。
秋の例祭の日に参拝しました。ふだんと若干境内の装飾が異なります。
参道
一の鳥居を50mほど進むと石段が控えています。社殿が鎮座するこの小山は帝青山。少し前まではこの地の小字でした。弘願寺(市内の下大賀)は水戸藩の寺社改革まで当地にあったので同じ山号を称しています。
参拝しているときは気づかなかったのですが、帝青山を国道118号側から見ると神名備、つまり「山」の字のような円錐形のシルエットをしているそう。これは後に触れる三輪山信仰と関係しているかもしれません。
なお、古くは「青木山」という素朴な名称だったようです。明治期に出版された『新編常陸国誌』にもあることで当地に伝わる民話「四匹の狐」でも同名で語られています。(参考:那珂市観光協会)
参道の左手に見える手水舎は薄く彫られた鉢にひたひたと水が溜められていました。大きさや高さなどシンプルながら存在感のある造りですね。
手水舎の屋根には亀印。しかもよく見ると親子になっています。北方の守護神たる玄武は水の象徴。ありがたい彫刻なのでぜひご覧ください。
えっちらおっちら登ってようやく山頂へ。この日は秋の大祭だったので参道の両脇には行灯型の御神燈が並べられているわけですが、これは単なる装飾なのでしょうか。
わたしは祭神や祭りと密接な関係があるように思います。この灯りがなければ成立しないような何かがあるからこそ、人びとは私財を投じられたと見ています。
織姫像
神門をご紹介する前に手前の織姫像について。こちらは東京織物卸商業組合が昭和57年に創立八十周年記念として奉納されました。
当社の祭神が織物の神様ということでこのような姿となっているわけですが、『古語拾遺』にある天羽槌雄神の神号から考えれば建葉槌命=男性神。しかし、この像のように女神とする考えは少なくありません。
たしかに機織りといえば古くは女性の仕事。高天原でも天照大神が機織りをしたと伝えられます。そのせいか建葉槌命が香香背男を討てたのは男性にはない力を持った女神だったからという説もあるようです。
わたしには性別の判断はつきませんが、ひとつ言えるのは当地の信仰は神話だけでは説明できないということです。現実と神話は関係していても一致しないと捉えるのが妥当でしょう。
古くから語り継がれた神話などの伝承に人びとの想像力が加えられて現実を動かしているのではないでしょうか。だからこそ常に変化し捉えにくいのですけどね。
神門と佐竹七福神の恵比寿天
御神燈で少々見にくくなっていますね。ご容赦を。静神社の神門は屋根の正面部が弓なり。いわゆる唐門の形です。
扁額には「静太神宮」。単に「神宮」といえば伊勢神宮のこと。というか正式名称です。もっとも格式ある社号のため元来は極めて限定的に使われました。茨城の鹿島神宮はその古社のひとつですね。
静神社で発掘された銅印には「静神宮印」とありました。奈良時代の作とする鑑定がたしかならば当社もそれに並ぶ存在。ただし、この鑑定結果については個人的にいくつか疑義があって慎重に扱うべきと思います。
少し後戻りすることになりますが、神門を正面に見て右手に進むと佐竹七福神に数えられる恵比寿像があります。佐竹七福神は佐竹氏との縁が深い寺社に安置された像で一色史彦氏の尽力により平成4年に完成しました。
一色氏は文化財保護で大活躍した建築文化史家ですね。同氏はこの七福神に対する想いを『古社寺遍路 中』で次のように語っています。
私は十五年前の昭和五十七年に霞ケ浦と筑波山を巡る常陸七福神巡り、そして三年前の平成四年には茨城県北の山間部に佐竹七福神巡りを開設しました。いずれも目的は同じです。先人たちが力を合わせ汗を流して創り守ってきた貴重な文化財に直かに触れて戴いて、そこに先人のココロを感じ取って貰いたい、ただひたすらの願いからです。ナンデ観光業者になったのか、といわれる人がいても私には何の気にかける事もないのです。
七福神自体は日本で誕生しました。その中でも恵比寿は日本の神から転じたとされる特別な神です。元来の姿はコトシロヌシやヒルコといわれますが、定説はありません。
見て分かる通り釣り竿を掲げて鯛を釣ろうとしています。それ故に豊漁の神徳があるとされており、当社の祭神の神徳と重なる部分があるのではないでしょうか。
社殿
能舞台の橋掛かりのような通路のある拝殿。南向きといわれていますが、実際には真南ではなく東南です。
この日の午前中は七五三のお祝いもあって賑やかでした。木々に囲まれた境内も素敵ですが、こうして玉砂利が敷き詰められた整然とした景観もいいですよね。
社格の高い神社だけあって立派な入母屋造となっています。旧社殿は天保期の火災で焼失したため弘化2年(1845年)に再建されました。
それではここで先程ご紹介した一色氏の著作から社殿について引用いたします。
現在の本殿・拝殿・中門は天保十二年(一八四一)の火災焼失後の翌年、水戸斉昭公によって造営寄進されたものです。水戸徳川家の歴代藩主の中でも、光圀・斉昭は特に義烈二公と称されています。尊敬する光圀公の後を引き受けて再造営に力を尽くした斉昭公は、さぞかし感激の極みだったことでしょう。全ての社殿が総檜造です。しかし、建築様式はいかにも天保の時代性を反映したものになっています。ご本殿は一見すると、伊勢神宮の内・外宮本殿と同じ神明造様式のようですが、妻飾りが扠首組ではなく、和小屋組になり、妻側には棟持柱もありません。
けれども、幕末期の堂々たる神明造風のご本殿建築として、建築学上極めて貴重な例です。
この時の造営関係資料が発見されれば、必ずや文化財としての価値が認められるでしょう。早くそうなって欲しいものです。皆さんともどもご祭神・建葉槌命にお願い申し上げましょう。
文化財はその来歴が特定されないと指定を受けにくいので、関係資料が発見されればとあるんですね。専門家らしいご意見です。
ちなみに一色氏を知る教育委員会の方によれば、同氏は建物をひと目見ておおよその建築年代を当ててしまうのだとか。後で棟札を見てその正確さに驚かされたそうです。
こちらが本殿。屋根には内削ぎの千木(通称:女千木)に鰹木が六。こうした造りも女神を祀るとされている理由になっています。いわゆる陰陽説では内側や偶数、女性を陰の象徴としますので、内削ぎで鰹木が偶数ならば女神では、というわけです。偶数が陰数とも呼ばれるのはそのせいですね。
ところで、その火災について興味深い伝説がありますのでご紹介しましょう。
三 賢いご領主さま
むかし瓜連町の人びとは毎年一月の十四日に神主のさしずで作占いをしていました。宵のうちから山に登り、拝殿でおか炉を作り、里人の代表たちがこれをとりかこんで、お神楽男が夜通しかゆ米を煮るのです。ナベの中に「わせ」「中ぜ」「おく」と印したアシの茎を入れておき、翌朝一番多くはいっているアシの印の稲をその年の当り作としたといいます。ある年のこと、この作占いをしているうち、夜明け近くになってみんな寝てしまいました。そしておか炉の火が燃えあがり、拝殿を焼いてしまったのです。
知らせを聞いた藩公は里人の心配にもかかわらず、いともさわやかに寺社奉行に言いました。
「なるほど、春まだ浅い一月十五日だというのに、珍しく落雷があって、由緒ある社殿が焼け落ちたというのか。天の意だから仕方がないが、一刻も早く再建せよ」
それを聞いて人びとは、やさしさと頭のよさに、感謝したり感心したりしたといいます。それからというもの拝殿で火をたくことは堅く禁じられました。これは天保十二年(一八四一)常陸二の宮静神宮の失火事件のことだと言われています。
瓜連町の昔ばなし/楠見松男
藩主が斉昭公の時代、本来は神社側の責任とするところを天災による不幸として藩が再建としたという話ですね。わせ、中ぜ、おく、は早生、中生、晩生、のことで収穫時期の異なる作物を意味するのでしょう。
なるほど、と思える内容ですが、『那珂市域の社寺祠堂』では火災を1月7日の出来事としていて民話とは食い違いがあります。ちょっと気になるところですね。
わたしの注目は出火の原因となった占いについて。「アシの茎」を使った占いというのも興味深い。茎を使う占いといえば蓍萩を用いる「易」。易をもとにした独自の占いがあったのではと思います。
民話がどれだけ事実を説明しているかはわかりません。ただ、同日の占いについては昭和期に発行された『茨城県神社誌』に「古例によつて五穀の豊凶を占ふ」とあるので実際に行われていたのでしょう。
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御神木の山桜
拝殿の東側の大木は御神木の山桜。石と鳥居で仕切られた空間に山茶花とほぼ一体のようにあります。県内のいわゆる一本桜の中では珍しい光景かと思います。
桜の主幹はすでに枯れているものの、ひこばえから枝が再生されており、今でも春になれば美しい花を咲かせています。山桜は日本古来の品種ですので歴史ある場所で見れると一際に感慨深いものがあります。
『茨城県の桜』によると、江戸時代に描かれた『常陸名所図屏風』には、静神社がたくさんの桜とともにあるのだとか。同屏風は江戸時代初期の作とされているので、画にある風景を光圀公も見ていたかもしれませんね。
花の見頃は4月中旬頃かと思います。ただ、2023年は3月に県内のソメイヨシノが満開を迎えるほど温暖でこれを撮影した4月1日にはほぼ満開といった様子でした。
一方、秋になれば今度はお隣の山茶花の出番。植物に疎いもので初見では椿かなと思ったのですが、遠目の写真をTwitterで紹介したらフォロワーの皆様が教えて下さいました。
開花後に花ごと落ちる椿に対して山茶花は花弁がそれぞれ散っていくそうです。な、なるほど。勉強になります。
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境内社
今回はおさらい編ということで詳しいご紹介をしませんが、当社には以下のような境内社があります。ご祭神につきましては『茨城県神社誌』を参照しました。
具体的な場所はわたしにも不明なので、ぜひ探してみてください。そして教えてください!
- 押手神社(天日鷲命)
- 山親子神社(不明)
- 玉取神社(大山祗命・櫛明玉命)
- 富士神社(木花開耶姫命)
- 大杉神社(少彦名命)
- 鍬神社(大日霊貴命)
- 雷神社(別雷神命)
- 愛宕神社(軻遇突智命)
- 御祖社(大国主命)
山の神とされる神号が並びますね。この他には本殿北側に手接足尾神社が鎮座しています。ご祭神は手摩乳・脚摩乳です。
山親子神社についてはご祭神がまったくわかりません。しかし、江戸時代の静神社の縁起(らしきもの)に社号が見えるので静の信仰に深く根ざした存在と思われます。
御朱印
静神社の御朱印です。拝殿向かって左の授与所で申し出てください。
わたしはまだいただいていないのですが、佐竹七福神の「恵比寿」を書き入れた御朱印もありますよ。
まとめ
この記事のまとめ
- ご祭神は建葉槌命。しかし江戸時代は手力雄命が主祭神。
- 社殿は天保期に造営。火災で焼失したため再建した
- 御朱印は2種類。授与所でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
新編常陸国誌
常陽藝文1996年5月号
那珂市域の社寺祠堂/編:中市教育委員会
この記事で紹介した本はこちら
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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