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とっても楽しい常陸太田の集中曝涼。年によって会場が多少は変化するものの上宮の菊蓮寺は常連です。3年ぶりの開催となった2022年でも寺宝を公開し賑わっておりました。
ここは神社ファンが注目する西金砂神社と関係が深いとされ、不思議な民話も伝わっています。機会があればぜひお参りしていただきたいので、お寺についてまとめてみました。参考になれば幸いです♪
この記事でわかること
- 由緒と御本尊
- 集中曝涼と寺宝について
- 「入定さん」について
- 御朱印のいただき方
由緒
3月、霊夢を見た天台僧行讃により開山。当初は天台宗に属した
常福寺(那珂郡瓜連)の覚誉冏察(入定尊)により中興。浄土宗に改宗する
冏察上人の入定地に石室を建立
※50年ぶりに再開
*茅葺から瓦葺に葺き替え
*茅葺から瓦葺に葺き替え
本尊は阿弥陀如来,脇侍は観音・勢至両菩薩の阿弥陀三尊で恵心僧都(源信)の作と伝えられています。なお、文化財に指定されている千手観音などは西金砂神社の別当にあたる定源寺から移されたものです。
菊蓮寺の公式サイトによれば、開祖とされている行讃は西金砂山を開山した宝珠上人の師にあたるそう。また開山の経緯について次のように説明しています。
上人が、金砂山開闢の折、定源寺(神仏混淆の頃金砂山にあった寺) にて、権現の霊夢を受け、蓮華上に舎利(釈迦のお骨)があり、又、菊花が咲き乱れ、そこから三種各々霊光を放つのを御覧になった。
その場所は金砂山からちょうど西の峰の方であった。そこで、その場所に一寺を建立し、寺号を《舎利山三光院菊蓮寺》と名付け、金砂権現を以て当寺の鎮守とした。金砂山開山(大同元年~八〇六) の翌年である。
1.開創/菊蓮寺(公式)
文中の「権現」とは「仏の仮の姿」で神仏習合の時代に使われた言葉です。ここでは金砂権現を指し現代の西金砂神社の神にあたります。
さて、天台宗の開祖である最澄が遣唐使として帰国したのが延暦24年(805年)。国内で天台宗が認められたのがその翌年ですから、当寺が大同2年(807年)に開かれたとするのは極端に早い時期と言えますね。
ただし、現在の西金砂神社とはさほど離れていませんから何らかの関係があったのは間違いないでしょう。天台宗としてはじまり浄土宗として再興したとする寺伝は事実だと思います。
なお、当寺を再興させたのは常福寺(那珂市瓜連)に帰属する覚誉冏察上人ですが、その前には村民の熱心な勧請があったと伝えられます。きっと常福寺の評判が当地金砂郷のあたりにまで聞こえていたのでしょう。
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昭和40年(1965年) 毘沙門天立像、女神像(いずれも県指定)
昭和54年(1979年) 千手観音立像(附伝伝千手観音焼損像1体、殿胎内納入供養札1枚)、不動明王立像(いずれも県指定)
創建当初は金砂権現を本尊としたといわれます。(参考:まぼろしの霊場)
アクセス
最寄りのICは常磐道の日立太田南か東海スマートICかと思いますが、下りてから約30分ほどかかります。国道293号と県道62号で北西方面に進みます。途中、道が心細いものの駐車場はしっかりしておりますのでご安心を。
最寄り駅はなく、バスも厳しいので車での参拝を前提とするとよいでしょう。
本堂に近い駐車場があるのですが、天気の良い日はあえて通り沿いに停めて歩くのもおすすめ。気持ちよく参拝できますよ!
名称 | 菊蓮寺 |
住所 | 茨城県常陸太田市上宮河内町3600 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
SNS | X(旧Twitter) |
境内入口
菊蓮寺は集中曝涼のスポットの中では西のはずれ。東金砂神社を例外とすればちょっと遠く感じる場所。道中は山道なのでさぞ参拝者が限られるかと思いきや、公開時間が終わる寸前だというのに大変な賑わいでした。
見事な寺宝の公開もありますが、お寺の方々がとても丁寧に応対してくださるのがありがたいんですよね。前回が素晴らしかったので2回めの訪問をさせていただきました。
写真の石段を上がったあたりに集中曝涼の受付があって資料やスタンプタリーの台紙を配布しております。集中曝涼の参加者は常連が多いように見えますが、スタッフが多く親切に対応いただけるので初心者にもぜひお越しいただきたい!
梵鐘
受付の反対側には真新しい梵鐘。じつは平成27年(2015年)に開創以来初めて鐘楼堂を建築したそう。寺院であれば梵鐘があって不思議ではありませんので何か特別な理由があるような気もします。
とはいえ、この梵鐘は除夜の鐘などとして住民に愛されながら撞かれていると茨城新聞の記事になっておりました。もちろん勝手に撞いたりしないですよ。大人なので自制しました。
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寺宝
本来は本尊にお参りしてからがよいかと思いますが、このときは公開時間が迫っておりましたので先に収蔵庫へ。中には5点もの県指定文化財が公開されていました。
正面が千手観音像、左が毘沙門天、右が不動明王像です。千手観音像の高さは3.5m。県内では立木観音(石岡市旧八郷地区)に次ぐ大きさだとか。
右後方に見えるのが徳一によって平安期に造られた伝千手観音像焼損像。現在の西金砂神社周辺で起きた金砂合戦(1180年)で焼けてしまったので新たに正面の千手観音像を造ったそうです。
徳一は法相宗を代表する僧侶で茨城では筑波山中禅寺の開山で知られています。天台宗の最澄とは論争したことがありますから、天台宗系の寺院の本尊だとすればかなり興味深いですね。
写真では見えませんが、正面の千手観音と毘沙門天の間に女神像が安置されています。これらはすべて前述の定源寺にあったもので光圀公か斉昭公の時代に運び出されたといわれています。
各像については常陸太田市(公式)のサイトに集中曝涼で配布された資料と同じ内容がありますのでご参照ください。
浄土宗系の寺院は本尊とする阿弥陀如来以外に対する信仰は積極的でないので、こうした光景はとても珍しいように思います。歴史的な経緯があってこそですね。
千手観音については常陸太田市の集中曝涼の動画が参考になりますのでぜひご覧ください。コロナ禍でイベントを開催できなかったため、動画によって広く知ってもらおうと公開されました。
ところで、わたしが関心を持っているのは、なにゆえ金砂山の本尊が千手観音だったかです。
志田諄一氏の『常陸五山の山岳信仰』によれば、西金砂山を含めた常陸五山の開山は下野国(栃木県の辺り)の天台宗と密接な関係があり、五山の信仰は二荒山(日光山)から那珂川を経由して伝わったとあります。
そのため那珂川沿いに二荒山付近で信仰されるオオナムチやスクナヒコナを祭神とする神社(阿波山上神社や大洗磯前神社など)が多く見られ、さらに県北方面の神社、特に常陸五山でも同神が祀られています。
西金砂神社の現在の祭神は大己貴命、少彦名命、国常立命です。そして菊蓮寺の寺宝からも分かるように古くは千手観音や阿弥陀如来を信仰していました。千手観音の頭上には阿弥陀如来の顔が添えられています。
それに対し日光二荒山神社のご祭神は大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命であり、その本地仏は千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音です。こうした比較からも金砂山の信仰は下野国から伝わり、発展したのではないかと思うのです。真相はわかりませんが、ある日突然に信仰されたとするよりも妥当ではないでしょうか。
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千手観音像は常陸三十三観音のひとつとされています。
本堂
本堂も平成に新築されたので非常に美しい姿です。堂内も綺羅びやかながら厳かで癒やされる空間でした。本尊にお参りした後は奥へとご案内いただき江戸時代に描かれたという「十王図地獄絵」を拝観。名前がすごい。
同図の解説も常陸太田市の動画が参考になります(十王図の解説から再生)。わたしが知っているのは閻魔大王くらい。ただ、閻魔大王の本地仏が地蔵菩薩であるというのは知りませんでしたね。
十王図はいわゆる地獄絵図でもあり、生者に対する戒めと亡くなった方へ追善供養することで極楽へ導ける思想が背景にあるようです。法然や親鸞は念仏を唱えるものが極楽浄土へ再生できることを強調していましたから、こうした救済措置的な画は当時では考えられなかったではないでしょうか。
本堂内にはご住職が描かれた油絵も多数展示されています。お写真を撮りもらしてしまいましたが、プロ級の腕前に驚き!例年ですと十王図のある部屋の途中に飾られていますので、堂内もぜひ訪れてみてください♪
寛文3年(1663年)の記録では末寺2ヶ寺、門徒12、檀那3555人。
民話「にゅうじょうさん」
堂内では民話ファンにとってはたまらない「にゅうじょうさん」が紹介されていました。ピンとこないですよね。漢字では「入定さん」と書き、当寺を中興させた冏察上人のことを指します。
『金砂郷の民話』にも収録されていますので、この地域では特に有名なお話かと思います。ネット上では情報がありませんので集中曝涼で配布された資料から引用します。
「にゅうじょうさん」 母と子の幸せを願って
むかしむかし、今から約六百年前のお話です。そのころの常陸の国(今の茨城県)は、佐竹氏をはじめとした力の強い武士達の、後継ぎ問題や権力争いの戦いが繰り返され、田畑は荒れ、人々は身も心も疲れ果てていました。満足な食べ物もなく、幼い子供達、そして赤ちゃんを生んだお母さんまでもが、病気などで次々に亡くなっていきました。
その頃、今の金砂郷町上宮にある菊蓮寺に冏察上人というお坊さんがいました。上人は、人々にお念仏の教えを広め続けながら、何とかして人々を救いたいと心をくだいておりました。
山々に少し霞がかかるころ、旧暦の二月(今の三月)のある日、上人はお寺の西にある高い峰にお登りになり、集中してお念仏を唱える修行をしました。やがて夕方になり、お日様が山にしずもうとする時、上人を産んで間もなく亡くなられたお母さんの光り輝くお姿が、上人の修行している目の前に現れました。そして合掌して涙を流しながら見上げる上人に、こうお告げになりました。
「女としてこの世に生まれ、受けなければならない苦しみや悲しみはたくさんあります。しかし、耐え難い苦しみと悲しみは、難産の果ての母子の別れの苦しみと悲しみです。私が上人をお産みした時もひどい難産で、お七夜のお祝いもできぬままそなたと別れ、お浄土へ旅立ちました。あなたは、長年修行なされ、立派な上人になられました。どうか上人のお力で、この難産の苦しみから、この世のすべてのお母さん方を救ってあげて下さい。」
これをお聞きになった冏察上人は、この世のすべてのお母さんのために、そして生まれてくる赤ちゃんの無事と健康を守るために、御本尊阿弥陀如来様の前で、あるお誓いをたてられました。
「私も八十と一歳になりました。わずかになった残りの命ではございますが、その命の限りお念仏を申しつつ、この身と引き換えに一切の母となる女の人を守り、そして生まれてくる愛すべき子供達を守るため、安産守護の誓いをたてて入定をいたします。必ずや私の願いが叶えられますように・・・南無阿弥陀仏。」
こうして冏察上人は、一連の干し柿と水を持ち、お母さんと出会った西の峰に登られ、穴の中に入り、鐘を打ちならしつつ、念仏三昧の修行に入られました。その鐘の音は、静かな山々や人々の住む里に響き渡りました。その鐘の音を聞くたびに、人々はお寺の西の峰に手を合わえるのでした。
一週間、二週間と、その鐘の音はだんだん小さくなりながらも響き続けました。そして、冏察上人が修行に入られて二十一日目、三月三日の夜明け、祈りの鐘の音がかすかに一つ響いたのを最後に、上人はその願いを成就し、ほとけさまになられました。人々はこの「生き入定」された冏察上人を、親しみをこめて「にゅうじょうさん」とお呼びするようになりました。
それから六百年の歳月が過ぎましたが、我が子や孫の安産を祈って「にゅうじょうさん」に手を合わせ、お参りをする人が今も絶えません。西の高い峰(この峰も「入定山」と呼ばれるようになりました)の上には、上人を讃え、その徳を偲び、立派な宝龕(仏様を祀る建物)が建てられました。その峰の上から、今も「にゅうじょうさん」は、女人安産、母子健全、そして一切の人々の幸せを祈り続けていらっしゃいます。南無阿弥陀仏。
山と女性の関係は不思議なものがあります。茨城というわけではありませんが、古くは女性の入山を禁忌とする場合がありました。しかしながら県内のこうした民話を読む限り山と女性には親和性さえ感じます。
西金砂山と真弓山には姉妹の姫がいて国造りをしたとする伝説がありますし、御岩神社(日立市)でも山姥が母親を救うと伝えられます。入山を禁忌としたのは元来の意味を誤解して広められたのでしょう。
なお、今も上人の命日には以下のような法要が行われています。
六百年近く前のお話が語り継がれ、それにまつわる法要まであるとは大変なことです。形はありませんが、寺宝として後世に伝えていきたいものですね。
御朱印
菊蓮寺の御朱印です。お念仏の隣に「南無千住観世音菩薩」。定源寺の信仰を受け継いでいるようですね。
集中曝涼の際にお寺の方にお声掛けしていただきました。わたしのようにお願いをする方は多いみたいでお忙しい中恐縮しました。ありがたいことです。
・平安初期に創建。当初は金砂権現をお祀りし、中世に浄土宗に改宗
・西金砂神社の別当にあたる定源寺の寺宝が受け継がれた
・「にゅうじょうさん」とは寺を中興した冏察のこと。すべての母子の幸せを願って入定した
・集中曝涼の日もお寺の方にお声掛けすれば御朱印をいただける
茨城の寺(一)|今瀬文也
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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