wata
いろいろな神社を巡っていると、たま〜に不思議な、そして珍しい神様に出会うことがあります。そんなときは激しくテンションアップ。なんとしてもお伝えしたいと思います。
今回紹介するのは水戸市本町に鎮座する竈神社。ご祭神は。。かつて三宝荒神と呼ばれていました。これは神道でもなく神仏習合とも言えません。修験道や交えたなんとも神秘的な神様です。
正直、説明しきれないところが多々あるのですが、神社の歴史とともに考えてみてはいかがでしょう。水戸市街にあって参拝しやすいですよ♪
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 三宝荒神と摩利支天の関係
- 御朱印のいただき方
由緒
初め三宝荒神と称し、旧水戸七社(吉田神社・水度神社・酒門神社・笠原子安神社・愛宕神社・国見神社)に数えられ、水戸城猪山(東部)に鎮座
赤沼の地(現在の水戸市城東3-4)に遷座
8月、水戸藩主・徳川光圀により現在地に遷座
水戸藩主・徳川斉昭により竈神社と改称
戦災により社殿焼失
ご祭神は以下のとおりです。
- 奥津彦命
- 奥津姫命
- 中御方命
三宝荒神は神道の神に置き換えられた場合、①と②、そして御年神の三柱となります。③はまったく不明なので、もしかしたら同神を指すのかもしれません。
三柱はいずれも須佐之男命の子孫の位置付けですが、『古事記』と『日本書紀』には詳細がありません。それがなぜ三宝荒神に置き換えられたのは興味深いところですね。
ご祭神は竈(釜戸)の神様であり、地元では「おかまさま」として親しまれています。例祭は旧暦7月15日と16日、現在では7月16日の斎行です。
神道に属すようになったのは江戸時代後期。当時の水戸藩が後の国家神道の魁ともいうべき改革によるのでしょう。要するに領民の信仰から仏教の要素を除きました。
それでは三宝荒神とはどのような神格なのか。ざっくりとご紹介します。
昔、修験道の開祖、役行者が、奈良の葛城山で修行していると、東北の方角の山に紫雲がたなびいていた。そこで行ってみると、恐ろしい姿の神がいて、こう告げたという。
仏尊の辞典/大森善成
「私は仏・法・僧の三宝を守護するので三宝荒神という。また、悪人を罰する時には麁乱荒神である」
東大寺建立の折、工事に怪我人が多く出たことを聖武天皇は悔やんでいた。その時「伽藍を建てるなら、七岫七谷峰の荒神を祀れ」というお告げがあり、勅命で良弁僧正(689〜773年)が鷲峰山の荒神に祈って、東大寺が完成したという。
密教では日天の眷属である「剣婆」だとする。これは地震などの災厄を司る神である。
蔵王権現のように修験道で生まれた神であることや三宝を守護する護法善神とされています。なんとも複雑。
ただ、これらでは三宝荒神がなぜ竈の神とされるのかは不明ですよね。それには三宝荒神が不浄を嫌うことから、家の中で最も清浄である竈の神として捉えられたといわれています。
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昭和51年(1976年) ケヤキ(市指定保存樹)
アクセス
水戸駅から車で5分ほど。七軒町児童公園の南に位置しています。一方通行の道路沿いにありますので、行くなら柳町一丁目の交差点を南に進み、備前堀の手前を右折。すると左手に社殿が見えてきます。
駐車場は社殿の裏側に広がっています。正面から細い道路を通っていけますが、本当に細いですから運転にご注意ください。
名称 | 竈神社 |
住所 | 茨城県水戸市本町1-10-3 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
境内は江戸時代初期に整えられた備前堀沿いです。備前堀は治水の達人であった伊奈備前守忠次に由来します。伊奈氏といえば県西の鬼怒川と小貝川の整備にも尽力したことで知られ、つくばみらい市には伊奈氏を祀る伊奈神社もあったりします。
竈神社の社号標は社殿のある境内から少し離れた場所に建てられています。かつてはもっと境内が広かったことを象徴しているのでしょうか。
現在の境内はとてもコンパクト。その中でひときわ目立っているのが、中央のケヤキ。市の保存樹に指定されており、樹齢330年(指定当時)、樹高10m、幹周り7.37m。近くで見るとその太さに圧倒されます。
樹齢を考えるとちょうど現在地に遷座した時期に植えられたのでしょう。当時のことを知るのはこのケヤキだけであり、神社の歴史を感じさせますね。
三社明神
参道左手の三社明神。境内の由緒書によると摂社が三社あるとのこと。おそらくそれらを一社にまとめたのでしょう。なお、摂社は稲荷神社(右)、一言主神社(中)、交通○神社(左)とありました。
初見ではなにか別々の三社を合祀したか三宝荒神のような特殊な神をお祀りしていると思ってしまいました。『茨城県神社誌』には記載がないので、ここ数十年の間に合祀されたのかもしれませんね。
ところで、三宝荒神は今では珍しい神様ですが、かつての水戸市内には荒神町(水戸市城東)や竈神町(水戸市備前町・天王町)など、竈の神にまつわる地名があったため信仰はもっと広かったと考えられます。
社殿
銅板葺きの社殿は近年に修繕されたような雰囲気ですね。社殿前の幟には「交通安全」「厄除」の文字。さいきんのご祈祷はそれらが多いのでしょうか。
本殿は神明造。千木はなし鰹木は五本です。本殿の足元はコンクリートで舗装されており耐震性は抜群といったところ。
さて、当社の荒神については『茨城県の地名』が『水府寺社便覧』を引用してその由緒を説明しています。それによると古くは猪山に鎮座し、その神体は猪に乗った銅像であったとか。また江戸氏によって崇敬され、和光院(水戸市田島町)が別当を務めていたようです。
猪山に鎮座し、猪に乗るということから連想するのは摩利支天。摩利支天とは太陽の周りにある陽炎を神格化した天部です。楠木正成などから崇敬を集め、真言宗や日蓮宗では護法善神とされます。
摩利支天は日天と行動を共にする性質は三宝荒神と共通するところ。当社の三宝荒神は古くは摩利支天だったのかも。もしくは同じく猪を使いするという「山の神」と考えられます。
御朱印
竈神社の御朱印です。「三宝荒神」の書き入れ、元来の信仰を辿れていいですね。ちなみにわたしは直書きと書き置きの両方をいただいたことがあります。
境内の社務所(兼参集殿)は不在の場合が多いため、お隣の宮司宅でいただくことになるかと思います。事前にお電話してからがよいでしょう。
竈神社の参拝時にいただいた由緒書には『佐竹異聞』を参考にした「竈神社に伝わる物語」が記されておりました。内容は次のとおりです。
佐竹氏の遠祖の仲に、身の不運を悲しんで横死した姫君がいた。生まれつき身体に黒白の斑点があり、顔は白蛇のように白く、侍女に命じて城外には一歩も出ないように密かに育てたが、年頃となったある日庭に出て林泉の池畔に立ち水鏡で顔を見て初めて因果の身である事を知った姫は、身の不運を悲しみ夜密かに居間を抜け出して場内の井戸に身を投げた。しばらくすると城内に異変がおこり、姫が身を投げた井戸の水は血池の色に変じた。天井裏から女の笑い声が聞こえたりするので、姫の怨霊の祟りだと言う噂が広まり、天宝年中東清寺に祠堂を立て三宝荒神を祭り、姫の冥福を祈った所、異変は消えたと記す。
天宝は元号でしょうか。また東清寺は明治に廃寺となった東金砂神社の別当のことでしょうか。姫と蛇を結ぶ物語は県内にいくつか見られ、それらとの関係も興味深いですね。
・古くは三宝荒神をご祭神とした
・三宝荒神は摩利支天に通じる性質を持っている
・御朱印は社務所か宮司宅でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
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