wata
- 由緒とご祭神
- 頃藤城との関係
- 御朱印のいただき方
突然ですが、神社やお寺はどんな場所に建てたと思いますか?
いかにも建てにくそうな山にもたくさんありますし、決して効率は意識していないと思うんですよね。それでは一体。。
今回は大子町の頃藤に鎮座する関戸神社についてシェアします。「国境」に位置する大変興味深い神社ですよ。ぜひ参拝の参考にしてください!
関戸神社とは
由緒
ご祭神は天津彦根命です。このご祭神はスーパーレア。県内の他の神社では見たことありません。
ただ、名前をご存じの方はいらっしゃるはず。当祭神は天照大神と須佐之男命による「うけい」で生まれました。一緒に誕生した兄弟は次のとおりです。(生まれた順に表記)
- 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
- 天之菩卑能命
- 天津彦根命
- 活津日子根命
- 熊野久須毘命
①は超有名と言っていいでしょう。息子がいわゆる「天孫降臨」の邇邇芸命です。天照大神の孫だから「天孫」と呼ばれます。
②は「出雲の国譲り」で高天原の使者を務めました。大役を任されたのにあっという間に大国主命に籠絡されたという、ちょっと残念なエピソードの持ち主です。その息子が建比良鳥命で出雲国造の祖とされています。記述の少ない神ですが、有力氏族の祖神ということで各地で祀られています。
そう考えると天津彦根命も末裔が氏神としたのかもしれません。『古事記』では命の子孫が数多くあげられており、茨城関係では額田部連と木国造がいます。額田部連は現在の那珂市に勢力を持っていた額田氏の始祖といわれています。
木国造については別の資料との関係から「茨」の文字が欠けていて本来は「茨木国造」とするのが有力。とはいえ、茨木国造の本拠地は現在の茨城県南辺り。ここからずいぶん離れているので関係ないかもですが。
当社の別当を務めた千手院 小川広治は天狗党の乱(元治甲子の乱)で市川勢に参加。その件で捕まり明治元年に赤沼獄で獄死したのですが、持ち歩いていた社伝等の記録を道中で紛失したそうです。
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アクセス
最寄りICは常磐道の那珂IC。下りて約34km。時間にして40分ほどでしょう。大子町の中心部より少し手前にあります。
駐車場は。。神社専用といっていいかわかりませんが、社殿の北側の公園らしき敷地に停められます。すべり台や鉄棒を見つけてください。
名称 | 関戸神社 |
---|---|
住所 | 茨城県大子町頃藤6506 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 茨城県神社庁 |
鳥居
大通りから外れているので少々気づきにくい神社です。この鳥居は118号から見えるそうですが、全然わかりませんでしたね〜。118号はよく通っていたのですが。。
手水舎は。。このご時世なので使用できず。ところで、鳥居といいこちらの手水舎といい紙垂がずいぶんキレイだと思いませんか?
なぜならこの日は元旦。新年を迎えるにあたって境内のあちこちが手入れされており、大変気持ちよく参拝させていただきました。
社殿
あっという間に拝殿へ。朝の10時頃でしたのでご近所さんがご家族で初詣しておりました。紅白のバルーンはお年玉?お子さんもたくさん参拝していたのでお土産なのでしょう。
本殿は覆屋でガッチリ囲まれておりまったく見えません。県神社庁では次のように紹介されていたので目にしたかったですね。
御本殿の建造は江戸中期の作にして、桧板葺流れ造りにして数多くの彫刻は狩野派の画風による華麗なる金銀極彩色仕上げにして、当地稀に見る重要な文化財であります。
大子町の神社はこうしたケースがとても多いので慣れています。大切な社殿を維持するためなので致し方ないですけどね。
幣殿の辺りに見える板には奉賛者の名がずらりと並び壮観でした。この地の方にとっては両親やご先祖、親戚ということになるでしょう。こうした形も地域の宝ではないでしょうか。
ところで、当社は次のような由来からかつて「関戸米神社」と呼ばれていたそうです。
大神様は、悪鬼退散し関戸大明神の有り難い御霊験により、人々の不幸災難の入り込むことを関戸米(せきとめ)て、心の青浄安泰を護持する守護神であります。
茨城県神社庁
「不幸をせき止める」とは面白いですよね。そうした願いをする方はどの地域にもいらっしゃいますが、社号にまでなったのは強い願いだったせいでしょう。
「関戸米」と名付けた頼家は同時に当地を国境としましたので、祭神は「境の神」として重視されたのではと思います。
神輿殿
ふだんは閉じられている神輿殿の扉も開放されていました。日を浴びてキラキラと輝いています。これを見るだけでも来た甲斐がありました。
奥に見える巨大な頭は猿田彦命。当社に限らず神輿が渡御する際に先導を務めるのが役目です。
命が「天孫降臨」で先導役を務めたことに由来するのですが、そもそもなぜ先導が必要なのかといえば、神がこの世のものではない不安定な存在であるためです。良くも悪くも神は万能でないので、人々は故事や伝承に従いながら祭祀を通じて願い事をするわけですね。
鬼門と裏鬼門(人門)
当社が国境に位置していることは『今昔物語』や『新編常陸国誌』に記されています。後者では「焼山関」と書き「多岐也麻乃世幾」と読むと説明しています。「たきやまのせき」かな?
国境は権益の範囲を意味しますから権力者にとって重要ですよね。また、古くは境界そのものを不吉な場所としていましたから、そこに寺社を建てるのは大きな意味があるのです。
そこで気になるのが鎮座地のもうひとつの性質。つまり、当社が頃藤城の裏鬼門(南西)に位置していることです。以下の地図をご覧ください。
また、同じような視点で考えると城から鬼門(北東)にあたる場所には長福山(古くは女体山)があり、かつてそこには長福寺がありました。
この2つの寺社はおそらく同じ時代に同じ城主によって移転させられています(長福寺は長福山に跡を残しての移転)。城跡の北にかかる橋は宮平橋といい、「宮平」はかつて関戸神社があったことに由来するとか。いまは移転した長福寺があります。
こうした移転理由はハッキリとわかりませんが、わざわざ戦乱期にしたということは戦略上の目的があったのかもしれません。軍事基地として利用するというよりは風水的な理由です。
例えば、長福寺は十一面観音を本尊としており、同観音は龍神信仰と関連して水の守護神とされています。同寺は城のほぼ真北に移転したのですが、北は五行説でいう「水気」にあたります。
水気は火気に対して優位に働くという法則があり、火気は水気の反対である南方面を意味します。以上を踏まえると寺社の移転には鬼門を護りつつ水気を強め南方面から攻めてくる敵の勢いを削ぐ狙いがあるように思えるのです。
これらはわたしの憶測に過ぎませんが、当時の人々こうした知識(陰陽五行説)を常識として持っていたと思います。ふつうに参拝していては気づかないことも見えてきますので、興味のある方はぜひ勉強してみてくださいね!
『陰陽五行説』を学ぶならコレ
御朱印
関戸神社の御朱印です。基本的には神社隣りの宮司宅で書き置きになるかと思います。
2022年1月から頒布しはじめましたので頂いたことのある方はまだ少数でしょう。
まとめ
この記事のまとめ
- 白川郡と久慈郡の国境に鎮座。ご祭神は天津彦根命
- 頃藤城の裏鬼門に位置する
- 御朱印は書き置き。宮司宅でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城の地名/編:平凡社
この記事で紹介した本はこちら
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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