wata
- 由緒とご祭神
- 社宝について
- 御朱印のいただき方
大抵の神社は古くからありますので、多かれ少なかれなんらかの社宝を持っているもの。
ただ、「お宝」だけあってなかなか目にすることはありません。例祭や展示企画でも無い限り。。じつは先日、偶然にも目にする機会がありましたので、お写真を交えてブログにしてみました!
この記事では那珂市瓜連に鎮座する素鵞神社についてシェアします。特に社宝のことはぜひ参考にしてください。境内の散策がより深く楽しめると思います♪
瓜連素鵞神社とは
由緒
ご祭神は素盞嗚命です。また、合祀した諏訪神社の祭神である建御名方命を配祀しています。
素盞嗚命を祀る神社は神仏習合していた明治初期まで牛頭天王を祭神としていたことはよく知られているかと思います。慶応4年(1868年)に明治政府が発した「神仏判然令」によって神道と仏教は区別されるようになり、神社では記紀にあるような神を祀るようになったのです。
牛頭天王は非常に奥深い神なので説明が難しいのですが。。一般的には祇園精舎(インドにある仏教の修行施設)の守護神とされています。ただ、仏教に牛頭天王なる神はいませんし、(たしか)12世紀以前の文献で「牛頭天王」の表記は見られません。謎の多い神です。
ただ、古くから疫病除の神徳があるとされていたのは確かです。もっと突っ込むと怨霊による災厄を退ける力を持っているとされました。御霊会(祇園祭)も災厄除を祈願するお祭りです。
牛頭天王は「災厄をもたらす」一方で丁重にお祀りすれば「災厄を退ける」存在です。神話の素盞嗚命は乱暴者でしたが、やがてオロチを退治したり大国主を助けたりしましたよね。そうした神格と習合したのでしょう。
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八坂神社について学ぶならこちら
アクセス
最寄り駅は水郡線の静駅。下りて5分ほどです。
最寄りICは常磐道の那珂ICで下りて約13分です。118号を北上し、らぽーる入り口の信号を右折。1つ目の交差点を左折すると見えてきます。
駐車場は広いので問題なく駐車できるかと思います。
名称 | (瓜連)素鵞神社 |
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住所 | 茨城県那珂市瓜連1276 |
駐車場 | あり |
鳥居
一の鳥居をくぐっていざ参拝。写真の右手に車が停まっていますが、その辺りが駐車場です。
今回、参拝してみて車が多いかも?と思ったら、祇園祭の準備と社宝の公開イベントをしていました。社宝は今後も博物館の企画展などで見れると思いますが、神社で公開するのは今回が最後の予定だとか。
社殿
鳥居の先、50mほど進むと拝殿です。明治に大改修されたとのことですが、ほぼ新築という意味でしょう。
神紋は「窠紋(木工紋)」ですが、葵紋も使われていますね。水戸藩ゆかりを意味していると思います。
扁額には「茨城県知事 吉永時次」。ということは戦前に奉納されたようです。吉永元知事は他にも記念碑の題額を残したりと素鵞神社との関係が深そうです。
神明造りの本殿。なかなか立派です。屋根はなんとなくお寺の面影がありますね。
宝物
この日は社殿左手の社務所で社宝を公開していました。氏子の方々が受付などをされていて、主に神社に近しい方々がいらしていたようです。知らずに参拝しましたので幸運でした!
目玉は以下の3点。いずれも東日本大震災で被災した社殿を整理していたら出てきたとか。
- 牛頭天王面…室町時代(南北朝時代)作。材木は楠か。ヒゲがあり、口のあたりに朱塗りが残る
- 木造薬師如来像…室町時代作、寄木造。光背は江戸後期に作り直した
- 素盞嗚命像(軸装)と版木…江戸時代作。軸装。社号が素鵞神社とあることから天保8年以降の作と考えられる
薬師如来は素盞嗚命の本地仏という関係です。本地垂迹説という思想に基づき、仏の薬師如来が神である素盞嗚命の姿に化けて人々の前に現れるということです。素盞嗚命の正体は薬師如来だから疫病を退ける力を持っている、というわけです。
素盞嗚命と習合した牛頭天王の本地仏も薬師如来です。ただ、牛頭天王が神かというと微妙です。神道にも仏教の天部にもいませんから。個人的には神道と陰陽道が習合して生まれた神ではないかと思います。陰陽師・安倍晴明の出生を記した『簠簋内伝』に牛頭天王の由来があるのも深い関係があるためでしょう。(簠簋内伝は晴明の書ということになっていますが、さすがにそれは違う気がします)
素盞嗚命像は版木とセットで見つかりました。版木に墨を塗ってスタンプのように押して使えば写真のように出来上がります。
この他に気になったのは神道裁許状です。これは江戸時代に隆盛を極めた吉田家が発行した祠官の許可状です。吉田神道と呼ばれる神道思想が大きな勢力を持っており、実質的に朝廷の代わりを許可を行っていたことの証です。
当社に訪問する前月に神社検定を受けたのですが、試験のテキストに書かれていたので実物を見れて感動しました!
神職の方々の説明で興味深かったのは当社が明治以前に社号を素鵞神社へ変えていたことです。具体的には天保6年(1835年)まで牛頭天王宮と称し、天保8年(1837年)には素鵞神社だったことが社宝の版木からわかりました。変更は当時の領主(水戸藩主)である徳川斉昭公の寺社改革によるのでしょう。
斉昭の寺社改革は国学や儒家神道から強く影響を受けたのではと思います。特に儒家神道はそれまでの神道と異なり、明確な廃仏思想が見られました。
二代藩主の徳川光圀公も神仏分離の寺社改革を行いましたが、大きな問題がなければ「廃仏」はしていません。同時期に幕府が制定した神社条目に従って改革した結果なのでしょう。
歴史を考察できる貴重な史料の数々がされていて興奮しました。ぜひ機会があれば多くの方にご覧頂きたいですね!
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御朱印
瓜連素鵞神社の御朱印です。牛頭天王の顔の印が押されています!
ふだん社務所は不在かと思いますので、お電話してからいただいてください。
まとめ
この記事のまとめ
- ご祭神は長らく牛頭天王だった。面や神像が者法として残されている
- 貴重な社宝が数多く残されている。今後は企画展などで見れる
- 祭礼の日以外の御朱印は社務所に電話をしてからいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
この記事で紹介した本はこちら
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マンガで『古事記』を学びたい方向け
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記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。