wata
常陸太田市にはたくさんの式内社が鎮座していますが、「ここは一味違うぞっ!」という神社をご紹介しましょう。
ズバリ薩都神社のことです。ミステリアスなご祭神・立速日男命についてもガッツリと語っちゃいます。なお、「薩都」の読み方は「さと」と「さつ」のどちらでもOKだそうです!
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 陰陽道で読み解くご祭神
- 御朱印のいただき方
由緒
神社で配布しているパンフレットをもとに由緒をご紹介します。
松沢の松樹に降臨した立速日男命を祀るために社を建てる。(常陸太田市瑞龍町)
清らかな賀毘礼の峰に遷す(御岩山)
参拝が険しいため小中島へ祠を建てる
*『続日本紀』による
*『三代実録』による
*『三代実録』による
佐竹左近将義信により本社修造
佐都郷三十三ヶ村の総鎮守となる
佐竹右京大夫義舜により現在地に遷座(社伝)
創建壱千百季記念
ご祭神は立速日男命(またの名を速経和気命)です。記紀などに名はなく、常陸国風土記と社伝にのみ伝わるご祭神です。
別名の由来は社伝の『佐都大明神成実因縁記』に記載されていました。それによると速経和気命とは太政大臣・藤原義嗣です(実在の人物!)。それが死後の天長8年(831年)に従五位下の官位を授かってから立速日男命と呼ばれるようになったのだとか。
この辺りは詳細がありますので興味を持たれた方は筑波書林のふるさと文庫をご覧ください。読み下しがありますので頑張ればだれでも読めると思います。
ただ、速経和気命=藤原義嗣=立速日男命だと養老5年(721年)成立の常陸国風土記に立速日男命の名があることを説明できません。同社伝はそれ以外にも役行者(役小角)や小野小町が登場するなど鵜呑みにできない内容です。なので上記の由緒も参考程度にとどめておくのがよいかと思います。記されたとされる天明2年(1782年)に近いほど正確なのでしょう。
立速日男命について考える場合、もっとも重要なのは初出の常陸国風土記の内容です。ちょっと長いですが、講談社学術文庫の現代語訳を引用します。
(薩都の里の)東方にある大きな山を、賀毘礼の高峰という。ここには名を立速男命と申し上げる天つ神がおいでになる。又の名を速経和気命と申し上げる。もと天より降っておいでになり、松沢の(地の)松の木の八俣になっているところの上においでになっていた。
この神の祟りはたいそうに厳しくて、もし(おいでになる松の木に)向かって大小便をするような人があれば、(たちまち)その人に災いをお下しになり、病気にさせてしまうのである。そこで近くに住んでいる人々は、いつでもひどく苦しみ悩んでいたが、(とうとう)朝廷にそのことのありさまを申し上げ、(祟りを払ってくれるよう)願い出た。
そこで(朝廷が)片岡の大連を派遣して、(この神を)敬い祭らせて、祈願して言うことは「今、あなたのおいでになるこの地は、近くに百姓の家があって、朝夕にきたなくけがらわしい所です。どうかここを避けて、高い山の清浄な所にお移り下さいますよう」と申し上げた。そこで、神はこの願い事をお聞き入れになって、とうとう賀毘礼の峰にお登りになられた。
常陸国風土記 全訳注/秋本吉徳
非常に興味深い内容です。特に天つ神、災いを下す、人々の願いを受けて賀毘礼の峰に移り住んだ、という辺りは注目すべき点ですね。
また、賀毘礼の高峰は諸説あるものの御岩山に比定されています。同山中には「薩都の大岩」と呼ばれる薩都神社の奥宮、山頂には賀毘礼神宮が鎮座し立速日男命がご祭神に数えられています。
この辺りまでが基本情報。続いて境内ともう少し深いお話をご紹介します!
wata
アクセス
常磐道の日立太田南インターを下りて約15分(9km)。参拝はほぼ車になるかと思います。
神社の駐車場といっていいのかわかりませんが、境内北に公園があって、そちらの芝生スペースに駐車できるようになっています。
名称 | 薩都神社 |
住所 | 茨城県常陸太田市里野宮町1052 |
駐車場 | ? *境内北の公園に駐車可 |
Webサイト | 茨城県神社庁 |
鳥居
こちらが薩都神社の入り口です。奥に鳥居が見えますが、その手前には別の鳥居の基礎が見えました。一の鳥居は倒壊したか撤去したようです。
見事な枝振りの松です!おそらく、ご祭神の立速日男命が松の木に降りたとする伝承にちなんでのことですね。参道を塞ぐようにしてアピールしています。
小さな御神橋を渡り数十メートル進むと現在の一の鳥居。扁額がありませんので、やはりもとは二の鳥居だったのでしょう。
当社の鎮座する常陸太田市は県北に位置し、東北に近かったせいで震災の影響が大きかったんですよね。物は作り直すことができるとはいえ、歴史的な建造物が崩れるのは悲しいものがあります。
社殿
入母屋造の拝殿です。シンプルで荘厳な佇まい。式内社の風格は充分です。
わたしが参拝するときはいつも扉が開いてます。人の気配がする神社というのは、雰囲気が違うのですぐにわかるんですよね。観光地というわけではありませんが、特に寺社参拝が好きでない方にもご紹介できる神社だと思います。
拝殿の中には明治時代に氏子から奉納された三十六歌仙の絵巻が飾られています。そういえば小野小町もその一人。社伝にも名前が出てきますので縁があってのことでしょうか。
こちらは文化財指定は受けていない(欠品があるせい?)ものの市内の資料館(梅津会館)に展示されている貴重な逸品です。肉眼だとちょっと厳しいのですが、ぜひ覗いてみてください。
入母屋流造の本殿。さすがは旧郷社。間口が3間(5.4m)、奥行きが2間(3.6m)。大きさ、彫刻ともに見事なものです。千木は外削ぎ(男千木)で鰹木は五本(ひとつ欠けている)のようですね。
見にくくて申し訳ないのですが、神紋は「三つ巴」。鹿島神宮と同じです。ご祭神の立速日男命が武甕槌神(鹿島神宮のご祭神)と関係があるとされるのもこうした点でしょう。
由緒を読む限りご祭神の立速日男命は畏れるべき存在。でも、実際に境内へ足を運んでみると日差しのよく入る爽やかな空間です。神社までの交通もいいですしお近くを訪れた際にぜひ足を運んでいただきたいですね。
そしてさらに深く当社を味わいたい方は次のコラムもご覧ください。ネットにはあまり情報がないご祭神について迫ってみました!
境内社
薩都神社の本殿から見て丑寅の方角にある愛宕神社。小さな祠なのになぜか立派な鳥居が立てられており特別な待遇がされています。一般的にはカグツチを御祭神とする火除の神社です。
しっかりとした基礎の上に立てられているのが愛宕、その隣りにある割れ目の見える石碑は「加波山三社大権現」です。筑波山のすぐ西側にある加波山の神ですね。
加波山は天狗伝説の根強い霊山です。遠く離れた県北に分霊があるということは、人の行き来もあったのでしょう。人々はどんな交流をして薩都神社に影響を与えたのか。
山岳信仰の跡はどの神社にも見えるのですが、いわゆる神道では説明できない世界を感じられることはわざわざ現地に足を運んだ者にとって嬉しい報酬だと思います。
wata
コラム1:「天神」について
立速日男命を天つ神とする方が多いのですが、わたしは別の考えを持っています。そもそも風土記の原文にあるのは「天神」。菅原道真公も天神と呼ばれますが、天つ神ではないですよね。
天神には天(天候)を操る神という意味もあって、雨を降らせたり雷を落とすといった農耕神の性格を持っています。風土記はそちらの意味ではないでしょうか。
また、道真公のように実在の人物が死後に天神となる思想も重要です。これは古代の農耕神である田の神(=祖霊)とほぼ同じ。ただし、天神は未練を残して亡くなった人ですが。。
ところで、風土記には薩都の由来が次のようにあります。
ここ太田の里の北方には薩都の里がある。昔、ここに名を土雲という国栖がいたが、兎上命が兵をあげてこれを誅滅してしまった。その時、「よく殺すことができて福(幸せ)なことだ」と仰せられた。それで(この地を)佐都と名づける。
常陸国風土記 全訳注/秋本吉徳
土雲の「誅滅」のあとに祟りがあったと書いてあるのでついつい関係性を考えてしまいます。立速日男命の正体は「土雲」の速経和気命だったりして。
当社は平安時代に式内社となっていますが、平安といえば御霊信仰の最盛期。こうした由緒をとりわけ重視したのではと思います。
未練を残して亡くなった=怨霊となる。それを鎮めることで御霊、つまり守護神とする。立速日男命は菅原道真公や平将門公と同じように怨霊の面があるのではないでしょうか。
怨霊とか悪霊であっても大切に祀ることで自分たちを守護してくれると考えるのは日本人特有でしょう。神仏習合時代の牛頭天王も同様の理由で信仰を集めていたと思います。
ちなみに立速日男命が遷ったとされる賀毘礼の高峰(御岩山)は当社の北東(丑寅の方角)。平安時代に盛んだった陰陽道でいうところの鬼門にあたります。
風土記は平安よりずっと前の時代ですが、陰陽説や五行説といった思想は仏教と一緒に日本に持ち込まれていますので当時の人々が影響を受けた可能性はあります。社伝に陰陽師や修験の祖とされる役行者が出てくるのもそういう理由かもしれませんね。
wata
コラム2:立速日男命と武甕槌神の関係
風土記で立速日男命を賀毘礼の高峰に祀った「片岡の大連」は「中臣方岳連」といわれます。中臣鎌足などの同族ですね。もちろん祭祀を司る家柄で鹿島神宮の祭祀も中臣氏が中心です。
また、社伝によると藤原義嗣は鹿島大明神を信仰しており本地仏である十一面観音を大切に所持していたとか(後に薩都神社のご神体となる)。このことから立速日男命を武甕槌神の別名、あるいは御子神とする考えがあります。
武甕槌神の関係でもうひとつ考えたいのは立速日男命の神号です。音の響きから記紀の「にぎはやひ」を連想しますが、「はやひ」と付く神は他に甕速日神、熯速日神がいます。
いずれも日本書紀に記載されており、伊弉諾が軻遇突智を斬った際に飛び散った血から誕生しています。興味深いのは武甕槌神もそれと同時に誕生していること。つまり、「はやひ」の親は軻遇突智でなおかつ武甕槌神とは兄弟と考えられます。
「はやひ」って気になる言葉ですよね!どんな意味があるのか調べたら國學院大學のサイトで次のように解説されていました。
速日は、迅速勇猛な太陽として物を乾かし尽くす迅速猛烈な太陽の神とする説、勢いのさかんな霊として雷神の性格を取る説、霊能が猛烈なことを表わす接尾語として、火が猛烈である霊力の神とする説がある。落雷による出火の霊威の神格化とする説もある。
樋速日神/國學院大學 古事記学センター
雷神や落雷に関係する説は面白いですね。米作りにおいて重要な自然現象ですので農耕神を意味するのでしょう。これで立速日男命=天神=雷神=農耕神とする考えが成立します。
では、「立」にはどんな意味があるのでしょうか。神号に「立」がつく衝立船戸神(岐神)を調べてみたら次のようにありました。
杖は、『古事記』仲哀記に「其の御杖を以て、新羅の国主の門に衝き立てて、即ち墨江大神の荒御魂を以て、国守の神として、祭り鎮めて、還り渡りき。」とあるように、古代、境界などにこれを突き立てて占有を表すものとされた。そこから境界の標示ともなり、『常陸国風土記』行方郡条には「標の梲」を堀にたてて神に告げ、神の地と人の農地との境界を示したことが見える。よって、この神と杖との関連は、境界に杖を立てることで悪霊邪気を防塞することにあるとする説がある。
樋速日神/國學院大學 古事記学センター
何かを突き「立」てることは占有を意味するとあります。同時になにかの侵入を防ぐ結界も意味しているのでしょう。
風土記の行方郡条とは夜刀神のお話のことです。人々の住む地域に夜刀神が入らぬよう杖を立て境界を作ったと書かれています。
さて、これまでの話を総合すると、立速日男命は次のような神ではないでしょうか。
- 武甕槌神と兄弟、もしくは非常に親しい関係
- 天神であり農耕神の性格を持っている
- 鬼門(賀毘礼の高峰)に祀られ薩都の鬼門除けの意味があった
一般的には謎の多いご祭神ですが、郷土史とあわせると様々な面が考えられますね。といってもかなりの憶測混じりですが。。でも、やってみると楽しいのでこれをご覧になった方も面白半分で考えてみてくださいね。
御朱印
薩都神社の御朱印です。境内ではなく近所の宮司宅でいただけます。境内の建物(神楽殿?)に場所と連絡先があるので事前確認してから訪問しましょう。
なお、兼務社の春友鹿島神社の御朱印もこちらでいただけます。
薩都神社のご祭神・立速日男命が遷座したといわれる御岩山には薩都神社の中宮、奥宮(非公開)、薩都大岩があり、いずれも命が鎮座しているとされています。
中宮では毎年5月1日に例祭を催され、その日のみ薩都神社の御朱印が頒布されます。いただきたい方は当日に御岩神社(日立市)の社務所へどうぞ。
もちろん里宮に参拝してからいただくのですが、御岩神社の社殿の裏手から10分少々登ったところなのであまり厳しさはありません。ただ、山道なので履きなれた靴がいいと思います。
・薩都神社のご祭神は立速日男命。武甕槌神と関係があるとされる
・立速日男命は農耕神の性格があると考えられる
・御朱印は宮司宅でいただける。中宮の御朱印は御岩神社の社務所で例祭の日にいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
佐都大明神成実因縁記|監修:志田諄一 編:日立の歴史を学ぶ会
古社巡礼-式内社を歩く-|榎本実
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。