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我が土浦市に東国三社の御祭神をまとめてお祀りしている神社があるのをご存知でしょうか。
東国三社といえば、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社。御祭神はそれぞれ武甕槌命、経津主命、岐の神。神話で活躍する神なので、これらを巡るお参りは江戸時代から人気でした。
しかし、三社は少々離れている。。それを一斉にお参りできるとなるとありがたいやら便利やら。。
この記事では東国三社の神をおまつりしている右籾の日先神社をご紹介します。源義家の伝説や見事なソメイヨシノなど、見どころがたくさんありますよ!
由緒
源頼義、義家親子が前年に安倍氏討伐を祈願。成就した翌年の社殿を創建し丸四天語源宮と尊称三神を鎮祭。
別当は西峰山高野寺尊海祭主宮本権太夫清高と同榊原権五郎清常
源頼義親子、当社に甲冑、剣、弓を奉納
参列者が甲冑をまとい石経塚に神輿が渡御する祭りが開かれるようになる。
中家郷信太荘の鎮守となる
日光神社と改称
日先神社と改称し右籾、摩利山新田、中村、中村西根、乙戸、荒川沖、荒川本郷、沖新田の村社となる
摩利山新田の無格社・稲荷神社を合併
乙戸の無格社・鹿島神社および境内社七社を合併
大鳥居建立
ご祭神は冒頭でご紹介したとおり、東国三社の神々です。
- 武甕槌命…鹿島神宮の祭神
- 経津主命…香取神宮の祭神
- 衝立船戸大神…息栖神社の岐の神と同一視
当初は丸四天権現宮。それがいつしか摩利支天権現や摩利支天神社といわれるようになりました。摩利支天は陽炎が神格化したとされる日天の眷属(使い)。幻惑して敵を撃つ強力な天部です。
一魁斎 正敏さんがXで摩利支天の御神影を紹介されていたので引用いたしました。イノシシに乗っているのは一般的に知られているかと思いますが、三面は印象にありませんでした。面白いですね。そして強そう!
その戦闘力の高さから戦国武将から崇敬されることが多かったようですね。頼義と義家親子との関係については初耳なのですが。
ちなみに創建には次のような伝承があります。『土浦市史』をもとに簡単にまとめました。
天喜5年(1057年)、奥州の阿部貞任討伐に向かう途中、源頼義と頼義親子がこの地に泊まりました。父の頼義は西峰山 高野寺、息子の義家は志太の長老宅です。
その夜、義家の枕元に神が現れて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添へん、必ず賊を平げ名を天下に輝かさん」とお告げをしました。
翌朝、義家が父にその話をすると父もまた同じ夢を見たといいます。親子はどんな神なのか高野寺と志田の長老に尋ねましたがよくわかりません。
そこで鹿島神宮の給仕を呼んで尋ねたところ、鹿島、香取、息栖の三神と知ります。
早速、親子は神に誓いを立てようと簡易な祈祷所をつくって賊徒平定の大祈願を執行。社殿はその翌年に建てられ、丸四天権現宮として三神をお祀りしました。
頼義が宿泊した高野寺は創建当初から別当を務めた寺です。摩利支天は天部(仏を守護する神という位置づけ)なので高野寺による配祀だと思うのですが。。
摩利支天と武甕槌は武運長久(戦いから無事に帰ってくること)の願いを叶えるといわれるため戦前は災害や病気の災厄を払う祈願がされたそうです。
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御祭神の御神影は現在では神社で頒布しておりません。(令和6年正月確認)
アクセス
牛久から土浦に伸びる県道48号をクスリのアオキ(旧スーパーまるも前)の信号で左折するとたどり着きます。車でお越しの場合、鳥居の左側に駐車できます。
名称 | 日先神社 |
住所 | 茨城県土浦市右籾2202 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 不明 |
鳥居と境内
鳥居のおとなりに駐車をしていざ参拝。鳥居は社殿の正面と裏手の2つ。こちらは正面です。平成4年に建立した際には合わせて由緒の書かれた石碑も建てられ、当社を世に知らせる想いが氏子らにあったようです。
春に鳥居をくぐり参道を100mほど進むと地面がピンク色に!大きなソメイヨシノが花びらを舞わせていたのでした。
手水舎
あれ?手水舎がない。。と思ったら、参道を少し離れた右手にありました。狛犬を避けるようにして御本殿に向かいます。
この参道、もともとこうなのでしょうか。手水舎の奥に見えるのはもうひとつの鳥居から続く参道なんです。
社殿裏側の鳥居がこちら。そばに『御手洗池の跡』という石碑が立っていました。おそらく池は手水舎と同じように体を清めるための場所です。以前は御手洗池で清めてからお参りしたのではないでしょうか。
つまり、2つの鳥居のうちむかしは裏側の鳥居をくぐってお参りしていた。もしかしたら社殿の位置も大きく変わっているのかもしれませんね。
裏側から見た手水舎。奥には巨大な桜が。。!そこから参道が続いて。。やはりかつて社殿は正面の鳥居の辺りにあったのではと推測してしまいます。
社殿
縦横の線が美しい社殿です。注連縄のゆるっとした感じもいい。お賽銭箱には『土浦町』の文字がありました。80年以上前に奉納されたようです。
ふだんは完成な境内ですが、お正月となると大行列ができ十数分ほど待つことに。旧村社であった頃、社格はさほど高くはないものの信仰は広範囲でしたので当時より人口が増えた今は参拝者が多いのかもしれません。
社殿の天井を見るといくつもの画が飾られています。でも、よく見てみると同じ画で名前だけ違う。
調べてみるとこちらの神社は伝染病を予防する御神徳があるとか。あやかるには神社の絵馬を借りて家の出入り口に掛けておくといいそうです。無事に病気にかからなければ、新しく絵馬を購入して奉納する決まりです。絵馬が同じなのは奉納者が当社から購入しているからですね。
それと写真の中央のあたりに見慣れないものが。木製のプロペラです。飛行機の部品のようですね。お隣の阿見町にあった予科練に関係があると思います。
神社の御祭神は武神。戦争から無事に帰ってくることを願い多くの訓練生や家族が思い思いの奉納をしたのでしょう。
わかりにくい写真ですみません。本殿の彫刻、わたしには鹿に見えるのですが、これってすごく珍しくないでしょうか?龍や象はよく見かけるのですが。武甕槌との関係を考えれば自然なことかもしれませんね。
アップにするとこんな感じ。う〜ん、これはやはり。。
本殿の裏(北側)には日光大神の社殿。日先神社の名称になる前は日光神社でした。そのときの社殿が残っているということでしょうか。いやさすがにそうではなく当社の由緒を踏まえて近年建立したように思います。
日光東照宮は江戸の北に建てられていて死者は「北枕」で葬られることなどを考えると、北には死者の供養と密接な関係があると考えられます。
古代中国から日本にわたった「五行説」だと北は水気に属すため、供養の行事には水に関するものが多くなっています。施餓鬼や墓石に水を掛けることなどがそうですね。日本の民俗が読み取れる配置ではないでしょうか。
それにしても。。「日光」と「日先」は見間違えるほどよく似ていますね。これは意図的かもしれません。
社号を改称した明治初期は神仏判然令によって神仏習合や権現号が廃止された時代です。それに伴い東照大権現(徳川家康)を祭神とすることを避けた結果、祭神や社号の転向に至ったような気がします。
ここは日先神社に参拝する際にはあわせてお参りしておきたいスポットかと思います。
御朱印
日先神社の御朱印です。シンプルで美しいです!社殿の左手に授与所があります。玄関を開けるとお守りなども並んでいました。
お正月は拝殿の前で御朱印を受け付けていました。このご時世ですので直書きをいただける機会は限られているかと思います。
・源頼義、義家親子が創建。ご祭神は東国三社の祭神
・かつては摩利支天神社。武運長久が祈願され戦地に行った方々もいる
・御朱印は社殿左手の授与所(宮司宅)でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
土浦市史|編:土浦市史編さん委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
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