wata
龍ケ崎市と牛久市にとてもユニークな伝説があります。女化伝説といって命を助けてもらった白キツネが助けた男に嫁ぐ物語です。悲しくも心温まるお話なので、茨城の昔話の中でも特にお気に入り。
さらに面白いことに伝説には続きがあるんです。キツネには3人の子どもがいたのですが、その子孫が戦国時代に活躍します!その名も栗林 治郎 義長。末っ子・竹松の子ども(あるいは孫)とされています。
栗林義長は実在しました。内容はバラバラですが、いくつもの古い文献に登場。有名どころでは『東国戦記実録』『常総軍記』『東国闘戦見聞私記』。その他だと『女化騒動記』『牛久騒動女化日記』『女化原夢物語』があります。
しかし、もっとも説得力があるのは、現代にご子孫とされる方がいることでしょう。現実と伝説が入り混じっていて不思議な感じがしますね。今回は栗林義長の伝説と関連する牛久の史跡をご紹介します。
軍師・栗林義長
これからご紹介する伝説は史実ではありません。事実を織り交ぜた創作です。モチーフは金子敏編の『狐から生まれた男ー幻の戦国武将・栗林義長ー』で現代風に書き直しました。
なぜ創作の紹介かというと、とても面白くて義長が活躍した牛久周辺を好きになるからです。堅いこと言わずにドラマやゲームのノリで楽しみましょう!
ご紹介は軍師として活躍する手前まで。あとは図書館で本を借りるなどして読んでみてください。
出生から修行時代まで
栗林義長が生まれた年はハッキリとわかりません。いくつも説がありますが、1500年台の中頃と考えられます。天下分け目の関ヶ原の戦いが1600年ですから、戦国時代の末期のことです。
生まれた場所は京都の三条。白キツネの三男・竹松は出世して京都に住んでいました。そこでもうけた子どもが千代松、のちの義長です。
千代松はとても賢く、7歳で学問を始めると、すぐに読み書きやそろばんを習得しました。13歳ころになると竹松から祖父の居る根本村(いまの稲敷のあたり)のことを聞かされます。千代松は「おじいさんに会いたい!」と言い、京都から常陸国(茨城)への旅がはじまります。
しかし、その途中、千代松はお供の者とケンカ別れして道に迷ってしまいます。困っていると一軒のあばら家を見つけて訪ねます。中には老人が一人、熱心に本を読んでいました。老人は若者をふびんに思って泊まらせてあげます。
老人は千代松と少し会話しただけで、ずば抜けて利口であることを見抜きました。ためしに本を渡すとすらすらと読み上げます。老人は千代松をとても気に入り、自分の知っているすべてを伝えることにしました。千代松もそれに応え、知識だけでなく剣道やいくさの仕方、天気予報まで教わりました。
それから5年が経ちました。千代松の身体は修行によって筋骨隆々となり、見るからに立派な若者。千代松を鍛えた老人は柳水軒白雲斎。羽柴秀吉の恩師・竹中半兵衛の師でした。
心身とも強靭になった千代松は、名を『義長』に改めます。そして、白雲斎から暇をいただいて目的地であった根本村を目指します。義長は根本村にたどりつきましたが、残念ながら祖父は引っ越したあとでした。
『栗林義長』の誕生
これからどうしよう、と考えていた義長は目標を決めます。天下一の男になることです。
当時は秀吉が破竹の勢いで力をつけていたので、自分も負けずに天下を目指そうと思いました。ただ、何事も一人ではうまくいかないことは分かっていたので、まずは目の前の城の門をたたき、必死に働いて周囲に認めてもらおうと思ったのです。義長が訪れた城は若柴城。城主は栗林 左京之亮といいました。
義長はふつうに働いても殿様に認めてもらえないと考え、特別な方法を思いつきます。その方法とは城の兵に自分は間者(スパイ)だと言い、殿様の前に連れて行ってもらうことです。思惑通り兵は義長を殺すわけにもいかず、捕まえて殿様の前に連れていきました。
城主である左京之亮は義長に尋ねます。「どこの間者だ?」義長は「柳水軒義長というものです」義長は自分が自分に命令したと屁理屈を言いました。そして殿様の器を見に来たと白状します。左京之亮は義長に呆れましたが、家来が武術で義長に敵わないこと、そして義長の態度があまりに堂々としていたので次第に義長を気に入りました。左京之亮は軍師に誘いましたが、義長は「No」。いきなり軍師ではずっと必死に働いてきた兵が納得しないから。
2人は互いに「死んでも引かない」と意地を張り出したので、家来の一人が提案します。「普段は足軽で戦のときに軍師の仕事をしては?」殿様はこれに納得。義長は複雑な心境ながら引き受けることにしました。
それから義長の参戦するいくさは連戦連勝。左京之亮は義長の人柄と戦場の活躍をさらに気に入ったので養子にすることにしました。伝説の軍師『栗林義長』の誕生です。
義長が活躍した牛久の史跡を辿る
40年前くらい前に書かれた物語です。かなり要約していますが、いまだに面白いと思いませんか?もとの本ならもっと世界観を楽しめますので、ぜひ図書館や古書店で探してみてくださいね!
義長ははじめ女化神社のある龍ケ崎の城(若柴城)にいたんですね。栗林氏は牛久城主・岡見氏の家臣です。この時代、牛久、龍ケ崎、江戸崎、守谷には殿様がいました。殿様たちは領地を拡大しようとする下妻の多賀谷氏や佐竹氏といくさをしていたんです。いまの茨城県内で激しい争いがあったなんて想像できないですよね!
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義長の位牌のある東林寺
義長は1587年、あるいは1590年頃に亡くなった言われています。戦死ではなく病死でした。年齢は36歳や41歳といいますから、当時でもかなり若い方です。
亡くなったあとは牛久城のすぐそばにあった東林寺(東林寺城内)に葬られました。そう言えるのは、義長の位牌がいまも東林寺にまつられているからです。もう10年以上前ですが、広報うしくに紹介されています。
東林寺は以前ご紹介した牛久市観光アヤメ園のすぐそばにあります。位牌が見れるわけではありませんが、美しい史跡なので近くに来た際にでもいかがでしょう。
五輪塔
牛久市の指定文化財です。五輪塔は簡単に言えばお墓です。もともとは東林寺城内の別の場所にあったのですが、土地の改良の際に移転されました。
作られたのは室町時代末期。ちょうど義長が活躍していた時代ですね!。。一体誰のお墓でしょうか。看板に「かなり洗練された作柄」とありますが、どの辺がそうか知りたいです。。
名称 | 東林寺(曹洞宗) |
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住所 | 茨城県牛久市新地町203 |
駐車場 | あり |
牛久城跡
東林寺から車で10分少々。牛久城は義長が家臣を勤めた岡見氏が1550年頃に造りました。城の周囲が沼に囲まれているので、非常に守りの固い城だったのでしょう。そのせいか、戦国時代には落城しませんでした。
牛久城の跡地にはほぼなにも残っていません。強いて言うなら、立派なお堀と土塁(堤防のようなもの)があります。写真ではわかりにくいのですが、通路の左右は谷のようになっていて人や馬は渡れません。
土塁の上に開けた場所があります。ここが本丸のあった場所でしょうか。まったくと言っていいほどなにも残っていません。
名称 | 牛久城跡 |
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住所 | 茨城県牛久市城中町502 |
駐車場 | なし |
岡見城跡
岡見城跡地は牛久市の岡見にあります。地名と城名は城主の岡見氏に由来すると思われます。こちらは牛久城よりもわかりにくい場所。住所までカーナビなどで近づいて、鉄塔を見つけてください。鉄塔の足元に城跡への入口があります。
岡見城は南北朝時代に造られたといいますから、牛久城よりも先にできています。岡見氏は牛久城に移る前にこちらにいたということでしょう。ゆかりの地ということで石碑と供養塔があります。
こちらも土塁やお堀のあとがあります。ただ、牛久城と比べると規模は大きくありません。そのせいか1590年の秀吉による小田原征伐の際に廃城になったと言われます。ちょうど義長が亡くなった頃ですね。
名称 | 岡見城址 |
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住所 | 茨城県牛久市岡見町 |
駐車場 | なし |
義長の遺言
義長の遺言は「下妻の多賀谷氏と決して和睦してはいけない」でした。たとえ多賀谷氏の方が強くても抵抗しなければ一方的に侵略されてしまうから。
予想は残念ながらあたってしまいました。年老いて義長を失い、気持ちも落ち込んでいた岡見氏はひそかに和睦を進めました。しかし、和睦の酒宴の席で多賀谷氏に裏切られて絶命してしまうのです。
義長の遺言はもうひとつありました。「あと3年生きられたら、多賀谷氏と佐竹氏を滅ぼして上洛し、天下を殿のものに。。」天下統一まであとわずかだった秀吉に挑むつもりだったんですね!
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まとめ
栗林義長は実在した武将。若くして病死した義長には不思議な伝説が残されています。
伝説は女化の狐の子孫だというもの。子孫は他にもいますが、特殊な力を持っていたとされるのは義長だけです。これには志半ばで旅立った武将(義長)と殿様(岡見氏)を偲ぶ想いがあったのではないかと思います。
伝説には創作の部分がありますが、史実でなくても重要な物語です。牛久市周辺の方々には知っていただきたいお話です。
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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