下館の巨匠 板谷波山〜板谷波山記念館|筑西市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

郷土愛は誰にでもあると思います。生まれ育った場所に愛着をもつのは当然ですよね。ただ、持ってはいるものの普段はなかなか表に出しません。なんだか恥ずかしいしどう表現すればいいか困ります。

とても参考になる方がいます。この方に倣えばきっと粋になれます。茨城の名誉県民で文化勲章まで授かった陶芸家 板谷波山いたや はざんです!いまの筑西市(下館)で生まれ育ちました。

文化勲章は皇居で天皇陛下から直接渡されるんですよ。日本人として最高の名誉ですね!

先日、下館駅のそばにある板谷波山記念館で色々と学んできました。陶芸家としては有名すぎるので触れません。人間・板谷波山にフォーカスして書いてみました。

波山の陶芸家への道

板谷波山は明治5年(1872年)に下館で生まれました。波山というのは陶芸家としてのニックネーム。本名は嘉七かしちといいます。

波山はとてもいい時代に生まれたといえます。明治の前の江戸時代、下館は城下町でとても賑わっていました。特に木綿がよく産出されて『真岡さらし』が有名だったんです。真岡さらしは質も量も充実していたので江戸に運ばれ大人気。

明治の始まり頃、下館は景気が良くて商人たちはしっかり稼いでいたんです。波山の実家も醤油の醸造と雑貨の販売で商売繁盛していました。

二度の挫折

下館も波山の実家も景気がよかったです。でも、波山は8人兄弟の末っ子。兄弟が家業を継ぐので、なにか自分の仕事を見つけなくてはいけませんでした。そんな状況で小学生の頃に焼き物と出会うのですが。。簡単にはいきません。いきなり陶芸家というのは無理があります。

小学校を卒業した波山は、親のいいつけで商店に丁稚奉公することになりました。ですが、どうしても馴染めずに1週間で家に帰ってしまいました。人に頭を下げるのが苦手だったとも。波山1回目の挫折です。

2回目は。。商人を諦めた波山はなんと軍人を志します。上京して陸軍士官学校の予備校に通うのですが、受験に失敗!体格が不足していました。「それなら、もっと早く言って欲しい!」

がっかりした波山はそれから1年間をなんとなく過ごしてしまいます。

恩師との出会い

波山は再び受験を決意するのです。幼いころから好きだった陶芸の道に挑戦しました。

目指した学校は東京美術学校(現:東京藝術大学)。ちょうど開校する年でした。東京美術学校、卒業生には横山大観よこやま たいかん下村観山しもやま かんざん菱田春草ひしだ しゅんそう らがいます。芸術界のスーパースターたちですね!

このメンバーは当時もちろん無名。では、波山はなぜ入学を決意したのか。それは当時の美術学校の校長・岡倉天心おかくら てんしんに惹かれたからです。

波山は卒業後もずっと天心が学生たちへ語ったことを話していますので、よほどいい思い出だったのでしょう。波山は素晴らしい環境で学びながら天心から薫陶を受けました。

学校卒業から陶芸家へ

波山に限ったことではありませんが、学校を卒業しても陶芸家にはなれません。技術も設備もないので自分だけではなにもできないのです。

それに学校の科目に陶芸がありませんでしたので波山は彫刻を学んでいました。ですから、卒業後にお金をためながら陶芸の技術を磨く必要がありました。

そんな状況にうってつけだったのが、金沢で彫刻の先生をすること。じつはその学校、彫刻の教室のとなりで焼き物がつくれたのです!波山は先生としての7年間で基礎を固めて退職後に陶芸家として生きることを決断しました。

そして、いよいよ陶芸家へ。東京に戻り田端に住むことにして、『波山』の名(号)を使い始めます。

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波山の号を使うきっかけは、田端の住まいから故郷の筑波山が見えたから。筑波山の雄姿に感動して自分の名前に取り入れたそうです
MEMO

波山の卒業制作は『元禄美人』でした。制作のために当時の資料を集め、服装も当時のものを着用していたとか。作品のために徹底的にこだわる性格だったようです。

板谷波山記念館

波山記念館胸像

やっと記念館の話をします。記念館は入館料200円。高校生以下なら無料です。作品や記録がたくさんあって面白いですよ。

しもだて美術館との共通券がオトクなのでぜひ!わたしが行った時、美術館は改装中でしたが。

波山の生家1

波山の生家です。江戸時代の中期に建てられて、波山は美術学校に入学する17歳まで過ごしました。8人兄弟にはちょっと狭いでしょうか。当時としては立派だったと思います。

夫婦窯

夫婦窯です。波山が陶芸家としてデビューした年につくられました。完成まで1年3ヶ月。毎月コツコツとれんがを購入してつくりました。当時の最新型三方焚口の倒炎式とうえんしき丸窯です。

デビューしたばかりの波山には窯を買えるお金がなかったので夫婦による手作り。奥さんまでお手伝いしたというのが素敵ですよね。この窯でたくさんの波山作品が誕生しました。(本当にお金がなかったので実家で頼もうとしましたが、直前で思いとどまって墓参りだけしたというエピソードがあります)

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波山とまる夫人は面白い出会い。波山が散歩していたら女学生姿の奥さんが人助け(坂道で荷車を押していた)をしていたので、その意志の強さを好きになったそう
MEMO

夫婦窯を完成させるために極貧生活を送っていた波山のもとに、同期の新納忠之助が訪れたことがあります。波山の生活をみかねた忠之助は50円を包みましたが、波山は「人の助けは借りたくない」と拒みました。そこで忠之助は50円の包み紙に「牛肉」と書いて置いていったという逸話があります。

板谷波山記念館・作業場1

波山の仕事場が再現されています。奥が波山、手前は弟子でろくろ回しをしていた現田市松げんた いちまつの作業場所。ふたりはずっと一緒に作品を作り続けていました。なんと50年間!波山は31歳と遅咲きのデビューだったので熟練に時間の掛かるろくろをしませんでした。もっと技術と可能性のある者に任せたのです。

自分の仕事に専念できる仲間がいたのも波山が活躍した重要な要素です。

板谷波山記念館3

板谷波山記念館2

波山の作品がある展示スペースです。以前、ここの撮影は禁止されていました。でも、さまざまなメディアで取り上げられるようになって、いまでは解禁。ありがたいですが、わたしの写真ではその良さが伝わらないので全体像だけ残しておきます。

人間・板谷波山

ここまで主に陶芸家になるまでの波山をご紹介しました。デビューしたのは遅かったのですが、出世のスピードは非常に早かったです。人に品評されたのは2回だけ、あとは審査員席で評価する立場でした。

陶芸のことをまったくわからないので、波山のすごさについて語れませんが、シンプルに見えるのに美しいと感じる。ずっと見ていても飽きない作品だと思います。きっと手元にあってもそうなのでしょう。

波山はとても厳しい人というのが世間的なイメージだったようです。自分の気に入らない作品を容赦なく金槌で叩き割っていたからでしょう。極貧時代に地震で作品が傷ついたとき、ごまかして売らずに叩き割っています。(奥さんはそれを見て泣きました)気に入らない作品を譲ることはあっても、それには決して名前を書きませんでした。

もちろん美へのこだわりがあったから。でも、波山は厳しいだけの人ではありませんでした。

鳩杖はとづえ

鳩杖

鳩杖は杖の先に鳩の焼き物がついています。中国の古い逸話によれば長く働いた家臣をねぎらう為につくられました。日本でも明治天皇が家臣に下賜したことがあります。

波山は毎年自ら鳩杖を作って、下館の高齢者(80歳)に直接渡していました。1933年から52年まで、波山自身が80歳になる年まで続けられたのです。長く続けたので鳩杖は319本にもなりました!

日本を代表する陶芸家が故郷の高齢者のために、作品を手渡すなんてすごいことですよね。

観音像と香炉

波山は支那事変で亡くなった下館出身の戦没者の遺族に観音像と香炉を渡していました。支那事変が拡大を続けてしまったので、香炉の製作が間に合わずに観音像になったという経緯があります。

香炉には『忠勇義烈ちゅうゆうぎれつ』の文字。戦没者への尊敬の念が込められています。波山の病気もあって時間がかかりましたが、1956年までに281個を完成させました。愛国者であり、下館の人々を愛していたのだと思います。

波山の遺言

波山は昭和38年(1963年)10月10日に亡くなりました。91歳でしたから、大往生といえるでしょう。波山は亡くなる少し前に信頼する方へ遺言を残しています。

私が子どものころには、上の学校に進学できなかったり、みじめな思いをしている子どもたちがたくさんいましたね、いまでもそういう子どもたちはまだまだいるだろうと思うので、少しでも彼らの育英資金になればと蓄めておいたのを渡してあげたいんですが。板谷波山ー陶芸一筋に生きるー/著:中村兵左衛門

初めは、なんとかして一千万円くらいは貯めたかったんです。しかし、質素倹約してみたわりには、五百万円しかできずに終わりました。それから、私の下館の生家と庭をそっくり財団法人に寄贈したいのでよろしく
板谷波山ー陶芸一筋に生きるー/著:中村兵左衛門

というわけで、波山の財産で『財団法人波山先生記念会』が結成されて、いまなお下館の学生たちへ奨学金が渡されています。

波山は実家こそ裕福でしたが、陶芸の道を歩み始めてからは極貧生活が続きました。それなのに財産を奨学金のために残しておくとは。。。郷土愛とも違った愛情を感じますね。

アクセス

名称 板谷波山記念館
住所 茨城県筑西市甲866-1
営業時間 10:00-18:00時(入館は17:30まで)
駐車場 あり
定休日 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日〜1月4日)
入場料 200円・団体150円(10名以上)、高校生以下無料
Webサイト 板谷波山記念館

 

まとめ

板谷波山は努力によって道を開きました。仕事へのこだわりが非常に強く、自らに厳しい生活を課しましたが、ふるさとや仲間に対しては優しくて思いやりに満ちていました。

自身の周囲に愛情を注ぐことは、巡り巡って自らに対して行っていたのではないかと思います。

参考文献
板谷波山ー陶芸一筋に生きるー/著:中村兵左衛門
茨城の先人たち/編:茨城県地域学習資料研究会