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歴史上、最強の剣士は誰か。宮本武蔵、沖田総司、本多忠勝あたりが浮かぶでしょうか。
茨城県民としてはそこに塚原卜伝を加えずにいられません。鹿嶋市出身の剣士で生涯無敗。剣聖とまでいわれた人物です。
宮本武蔵の剣を鍋のふたで防いだ逸話が有名ですが、あれは創作。生きていた時代が違いますからね。それではどうして『最強』なのでしょうか。
この記事では塚原卜伝の生涯を振り返り強さの理由を考えてみます。卜伝は足取りに不明な部分が多いので、一部小説を参考にしていることをご了承ください。
塚原卜伝とは
塚原卜伝は戦国時代の剣士。京都で起きた大動乱・応仁の乱が終わったころ、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生まれました。(西暦1489年)
幼いころは、父から与えられた朝孝という名前。吉川家は鹿島の太刀を受け継ぐ家系で朝孝の父は大人しい兄よりも朝孝に剣を継がせたいと考えていたようです。
しかし、父は生まれてすぐに剣友で塚原城の殿様塚原安幹と朝孝を養子に出す約束をしました。長男への期待と次男の将来を考えてのことだったのでしょう。
それにより朝孝は6歳で塚原家の養子となりました。
幼少期
卜伝の強さは才能ではなく経歴にもあります。
生まれ育った吉川家は鹿島の太刀(鹿島古流)を受け継ぐ家系。幼いころから剣術の達人である父に鍛えられてきました。そして養子先の塚原家は香取の太刀(天真正伝香取神道流)を受け継ぐ家系。やはり、達人の義父から猛烈な訓練で鍛えられたといいます。
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武者修行
卜伝は17歳の元服(成人)のあと、名前を高幹と改め、武者修行のため鹿嶋を離れます。(いわゆる鹿嶋立ち)
卜伝が初めて真剣勝負をしたのは、鹿島立ちから1年後。京都の清水でした。卜伝百首によれば、それから生涯39度の合戦、19回の真剣勝負を行いましたが、一度も負傷しませんでした。
その後の足取りははっきりしませんが、諸国を巡って修業を続け、30歳の頃(25〜26歳とも)に区切りをつけて鹿嶋へ帰還。そして、自らの殺人剣を見直し、人を活かすために使えないかと考え出すのです。
戦国時代なので剣の封印はできませんでしたが、卜伝は望めば殿様になれます。生活のために剣をとる必要はなかったので、そうした考えに至ったのだと思います。また、卜伝にはもともと神道や仏教への信仰があるので殺生を望まなかったのでしょう。
活人剣への目覚めは鹿島神宮の神官の家に生まれたことも関係あると思います。鹿島神宮のご祭神はタケミカヅチ。最強の神でありながら、力に頼らずに話し合いで解決してきました。それを知っている卜伝は剣よりも和によって戦いを無くそうとしたのではないでしょうか。
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奥義の会得
鹿島に戻ったあと、卜伝は自分の剣を見つめ直すため鹿島神宮に1000日こもりました。そこで悟りを開き、進むべき剣の道を決めたといいます。
修業を重ねて奥義を会得し、流派・新当流を開きます。卜伝という名前は、この後に名乗り始めました。元服のあとは塚原高幹ですが、それとは別に剣名を卜伝としたのです。
新当流とは「心を新しくして、事にあたれ!」修行の末に聞いた神の声が由来とされています。
物語はもっとありますが、とてもご紹介しきれません。これより詳しくは小説やテレビドラマをご覧ください。卜伝が船の上で興奮する武士を退けたり、教え子たちに争いを避ける道を説くエピソードなど、知れば知るほど好きになりますよ。
鹿嶋市の公式サイトも詳しいのでオススメです!
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剣を伝えた者たち
卜伝は生涯3回の旅に出ています。そして最後の旅では、自分の剣を積極的に伝えています。卜伝が剣を伝えた中には、将軍足利義輝!後に将軍となった足利義昭、伊勢の国司だった北畠具教。
他にも今川氏真や武田信玄の家臣たちにも教えたと云われます。
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卜伝の名乗り
塚原卜伝。変わった名前ですよね。実は卜伝の名前はいろいろと面白い想像ができます。
幼いころの『朝孝』は吉川家の父から与えられました。元服したあとは塚原 新右衛門 高幹に改めるのですが、幹という字は塚原家の父・安幹から受け継いでいます。『ともたか』から『たかもと』は吉川の父からもらった名前も意識していますよね。
その後は卜伝と名乗ります。卜は『うら』とも読みます。これは吉川家の本姓が『卜部』であることに由来。卜部家の剣を伝える。だから卜伝。
写真の卜伝の像はJR鹿島神宮駅の正面に200mほど進むとあります。
アクセス
名称 | 塚原卜伝の像(鹿詰公園内) |
---|---|
住所 | 茨城県鹿嶋市宮下2丁目11-4 |
駐車場 | なし |
塚原卜伝の墓
卜伝のゆかりはあまり残っていないのですが、鹿嶋市内にお墓があります。墓石と略歴の紹介がある簡素なものですが、大切にしたい場所です。
2つ並んだお墓は卜伝と妙夫人。卜伝は45歳のときに25歳年下の夫人と結婚。結婚生活は11年ほど。夫人は早くに亡くなってしまいました。その後、卜伝は再婚せず生涯独身でした。
卜伝は享年83歳。最後の旅から帰ってきたあとは塚原城のそばに小さな家を立てて慎ましく隠居。菩提寺は梅香寺でしたが、焼失してしまったのでお墓だけ残っています。
卜伝の墓から歩いて5分ほどの長吉寺。こちらには卜伝夫婦の位牌が安置されています。もともとお墓のある梅香寺にあったと思いますが、なんらかに理由で移されたのでしょう。
アクセス
名称 | 塚原卜伝の墓 |
---|---|
住所 | 茨城県鹿嶋市須賀506 |
駐車場 | あり |
まとめ
冒頭の話に戻りまして、卜伝が最強である理由をまとめます。
- 無敗
最強の前提条件 - 己の目的を達成
活人剣を広めました - 寿命を全う
①と②を限界まで行いました
いかがでしょう。できることはすべて達成。でも、卜伝の魅力は強さだけではないですよね。最強論には、ぜひ生き方も含めてもらいたいです!
参考文献
鹿嶋ものしりハンドブック
鹿島町史別館 鹿島人物事典
武内宿禰メモ
古代から天皇家に仕えている武内宿禰。第73世武内宿禰の竹内睦泰さんが塚原卜伝に関する発言しているのでメモします。
足利義輝は卜伝から奥義を教わっていた?
足利将軍の中で最強の誉れ高い足利義輝。塚原卜伝から剣を教わったといわれていますが、奥義一の太刀まで会得していた?
ふだん剣を振るうことのない義輝が一の太刀を見せたのはどんなときなのか。熱く語っている動画は以下です。
鹿島の太刀と香取の太刀の同じ?
卜伝は実父に鹿島の太刀を習い、養子となった塚原家で香取の太刀を習いました。名前が違うので2つの流派と思いましたが、竹内さんは剣祓がまったく同じことから同一の剣術と名言。
そして鹿島神宮と香取神宮のご祭神が同一の神とも。たしかに常に行動を共にする2神の関係としてはわかりやすいです。
じつは鹿島神宮で神職を務められていた方から同じお話を聞いたことがあります。鹿島神宮のタケミカヅチはある神の荒御魂であり、香取神宮のフツノミタマは和御魂であると。
一の太刀は現代にも伝わっていて、自身の流派の奥義と交換で教わったとも。なんて興味深いお話でしょうか。
竹内さん、お神酒で酔っているかも。。2倍速再生でちょうどいい感じ。
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。