wata
仏像はお好きですか?と聞かれてYesと答えられる人はそうはいないでしょう。しかし歴史的にも尊いものであることは間違いありませんし、日本で生活していればよく(わたしだけ?)見かけます。
なので、「ちょっと気になっている」「機会があれば勉強したい」と思っている方は少なくないのではと思います。かくいうわたしも日々寺社巡りをしているものの、なかなかぱっと見で判断はできません。
そこで!明るく楽しい気分でお参りしながらも仏様を含めた仏尊に触れられるお寺をご紹介します。日立市久慈町の千福寺(天台宗)です。太平洋の見える高台にあるので参拝すればきっと気分もよくなりますよ!
由緒
寺伝によると開基者は慈覚大師、開山は了伝である。最初は比叡山延暦寺の末寺であったが、江戸時代に東叡山の末寺になったという
9月6日、火災により客殿・庫裏が焼失
久慈小学校の脇から現在地に移転
明治初年まで行われていた十夜講を六夜講として再開する
御本尊は阿弥陀如来です。阿弥陀さまといえば浄土教の御本尊として、浄土宗、浄土真宗、時宗寺院で目にします。天台宗は色々なので意外に感じる方はいらっしゃるかもしれませんね。
由緒を見ると創建の伝承はあるものの以降は不詳。お寺の過去帳は宝暦8年(1758年)以降のみとなっており、これは文久の火災によるのだとか。当寺は日立市内で唯一の天台宗寺院ですから残念。
『茨城の寺(二)』によると、明治初年まで旧9月26日に始まる十夜講が行われていました。とても珍しい慣習で次のような内容です。
一年の最後の収穫である米の取り入れがすんだ後の行事で、各家ごとにだんご、強飯、にしめ、もち、さつまを持参して本尊に供え、自分たちもそれを食べる会食の行事でもあった。檀家にとっては一年で一番楽しみの時でほんとうにまち遠しい日になっていた。
本堂の中では、本尊である阿弥陀如来のご詠歌、僧侶の読経、説教なども行なわれた。九夜十日間の行事で、各家の先祖の法要が目的であるが、出店が出たり、田合芝居が出たり、この辺の祭りと同じにぎわいであった。この十夜講は、その後行なわれていなかったが、昭和十二年に総代が話し合って、六夜講として復活した。これはこの地区の人々の復活したいという念願により行なわれるようになったもので、民間信仰といっても過言ではない。
六夜講は阿弥陀如来を中心とした先祖供養の行事です。板塔婆に先祖の名を書いて本尊に供え、最後はそれを焼いて灰にしてからあげる(供える?)のだとか。先祖供養をすることで自分たちも救われると考えられています。
十夜講はあまり耳にしない行事ですが、県内では西福寺(大洗町)で続けられています。一般的には旧暦の10月5日夜から15日朝までの10夜に渡る行事なので旧9月26日から10日は特殊かもしれません。
それが六夜講に変わったのは、旧暦26日が月待講としての六夜講と重なるせいかもしれません。六夜講の御本尊は阿弥陀三尊や愛染明王なので当寺の本尊と一致します。
十夜講は仏教行事かと思いますが、月待講となるとお寺とは別に催されることが多いので引用元にあるように民間信仰の要素が強いと思います。それが歴史的な経緯があって仏教行事のように扱われているのでしょう。
アクセス
最寄りのICは常磐道の常陸南太田です。降りてから国道293号と久慈浜本通りを利用して以下の第4駐車場を目指してください。
この駐車場は仁王門の正面にあるので参拝に迷いにくいと思います。ただし、あまり広くはないのでお盆やお彼岸の時期は避けたほうがいいでしょう。
名称 | 神明山 延命院 千福寺 |
住所 | 茨城県日立市久慈町1-33-10 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
仁王門
境内入口となる仁王門はこちら。今回のお写真は逆光が多く、見にくくて申し訳ありません。当寺の本堂は東方に向いているため、昼過ぎに参拝するとほぼ逆光。撮影には不向きとなっています。ただし、午前中に参拝すれば順光なのでとてもキレイに撮れると思いますよ。
御本尊の阿弥陀如来は西方浄土(極楽)の教主です。本堂が東向きなら参拝者は阿弥陀様のいる西に向かってお参りしますから、建物の向きはそのような配慮の上で決められたのかもしれませんね。
参道
仁王門から本堂まで一直線に伸びる参道。途中に霊場の地蔵菩薩や観音堂が並びます。個人的にはそれらへのお参りは御本尊の後。まずは直進です。
ちなみにこれが途中まで進んで仁王門の方を振り向いたときの写真です。太陽が西側にあって順光なので、青空がキレイに写っています。
本来は御本尊を先にお参りするべきなのでしょうが、参道沿いには無数の仏像が。しかもどれも古くて個性的なのでついついよそ見をしてしまいます。荘厳な弥勒菩薩に観音菩薩、手彫りで味わい深い造形です。
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本堂
非常に立派な本堂です。大棟や天水受などには菱紋が見えますね。宗紋ではありませんから寺紋でしょうか。
屋根の正面の部分が湾曲しているのは唐破風造り。ここには鳳凰と龍の大きな彫刻が見えます。いずれも「風」と関係のある霊獣で神仏との出会いをサポートするといわれています。
本堂前には天燈鬼と龍燈鬼の像が安置されています。かっこいい!おそらく興福寺(奈良県)の国宝と同型。どのような像なのか興福寺のサイトから引用します。
鎌倉時代再興期の西金堂須弥壇(しゅみだん)に安置されていた像で、四天王像に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照す役目を与えたものです。
興福寺(公式サイト)
天燈鬼像は、2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠(とうろう)を左手で支えます。
龍燈鬼像は、腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらみます。
個人的な話なのですが、わたしがこれらを知ったのは『新桃太郎伝説』というスーパーファミコンのソフトです。鬼退治に向かう桃太郎の行く手を奇襲して阻む強敵でした。その頃はなぜ燈籠を持っているのか謎でした。おそらくは改心して仏法を助ける存在になったということなのでしょう。顔は怖いままですが。。
さらには聖徳太子や弘法大師(!?)の像まで。ガイドがいたら境内を一回りする間に仏教についてだいぶ詳しくなれそうですね。
本堂の4隅には四天王の像が安置されています。こちらは比較的新しいようですね。どれもはっきりした表示でとても凛々しいと思います。四天王は天部なので仏法を守護する存在です。なので仏そのものではないんですよね。これだけ巨大な像が間近で見られることは稀ですから、ぜひ本堂をぐるりと回ってください!
このように細かく見て楽しめるのが当寺の大きな魅力だと思います。でも、これはまだまだ序の口。見どころはまだまだあるんです!
観音堂
本堂に向かう途中、左手にある建物が観音堂です。聖観音像が安置されています。
建物の正面にあるのは懸け仏です。仏像といえば一般的に立っているか座っているかのどちらかで、このように宙に浮いているのは珍しいですよね。わたしも実物はほとんど記憶にありません。
少し前に県立歴史館であった『鹿島と香取』の企画展で香取側の資料としてあるのを目にしました。作られたのは神仏習合時代がほとんどのようです。
延命地蔵菩薩
観音堂と仁王門の間のあたりにあるのが延命地蔵菩薩。文字通り長生きのご利益があるというありがたいお地蔵様です。
右手に見えるのは水子地蔵。左は。。閻魔大王でしょうか。頭に「王」とありますし。これらはいずれも生死に関わる仏性を持っています。やがておとずれる死を見つめることで生き方を見直すことになりそうですね。
ちなみにこちらは関東百八地蔵尊霊場の五十四番に数えられています。ややマイナーな霊場かもしれませんね。茨城県内には10箇所以上ありますが、点在しているので県内寺院によほど詳しい方でなければ知らないはず。同霊場に数えられる正福寺(笠間)のサイトに全寺院の場所があるのでよろしければご覧ください。
慰霊碑と梵鐘
本堂の向かって左側にあるのは当地の戦没者の慰霊碑です。明治以来の戦争、特に大東亜戦争で亡くなった方々の供養と英霊としての顕彰のために建立されました。
参拝の際に周辺を車で走っていると、途中の崖に穴が空いているのを目にしました。聞けば戦中に掘られた防空壕なのだとか。このあたりは無数に掘られたので地盤が弱くなっており、地震の際には不安があるそうです。
当寺にあった鐘楼堂が震災により倒壊してしまったのもそれが原因ではないかといわれています。鐘は無事なので慰霊碑の前に安置されていました。昭和26年に鋳造された「平和の鐘」です。
御朱印
千福寺の御朱印は3種類。御本尊、観音様、そして角大師です。本堂右手の庫裏からお声掛けして頂いてください。おそらく書き置きになります。
・久慈町の高台に位置する風光明媚な境内。豊富な石仏を見ることができる
・古くは十夜講、現代になってからは六夜講が行われた
・御朱印は3種類。本堂右手の庫裏でいただける
茨城の寺(二)|今瀬文也
日立市史|編:日立市史編纂委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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